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第2章:公の役割(オフィシャル・ロール)
第19話:報い(瑛斗視点)
しおりを挟む窓から差し込む朝の光が、寝室の重厚な絨毯の上に長い影を落としていた。
部屋の中央に置かれた大きな革張りのソファ。俺はそこで、数メートル先のベッドに横たわる奈月の背中を、一晩中見つめていた。俺の枕に頭を沈め、俺のシーツにその身を横たえる奈月。
かつて、影からストーカーのように奈月を追っていた時とは、何かが決定的に違う。高校時代、俺が眠れぬ夜に思い描いていた未来は、こんなに息苦しいものではなかった。
放課後、美味しそうにアイスクリームを食べる奈月を横で微笑ましく眺め、その口元についたアイスクリームを俺が指で拭い取る。
「あれ、可愛いね。お揃いにする?」
「フライドチキン、美味しそう。一緒に食べよう」
そんな、ありふれた、けれど宝石のように輝く幸せを、俺は奈月と共有できると信じていた。
だが、現実はどうだ。
今、俺の手の中にあるのは、俺を拒絶するように丸まった、冷ややかな背中だけだ。あの頃夢見た柔らかな微笑みだけが、どうしても手に入らない。手に入っていると言えるのかもしれない。
現に、今、俺の部屋に奈月はいる。
ようやく、俺が長年思い描いてきた理想を形にするチャンスが巡ってきているではないか。優しく奈月の髪を撫で、耳元で愛を囁きながら、深い眠りから呼び戻す。驚いたように瞬く奈月の瞳に、一番に映るのは俺だ。
「おはよう、奈月」そう言って、まだ夢見心地な奈月を抱き寄せる。
それは、影から奈月を追うことしかできなかった俺にとって、唯一許されなかった聖域。世界中で俺だけが、奈月を引き寄せることができる。そう思いながら俺は、体の節々に残るソファの硬さを感じたまま、着替えを済ませベッドの傍らへ歩み寄った。
(練習通り、優しく奈月の肩に手をかけたらいい)
「――おい、奈月。起きろ」
「……」
「仕事に遅れるぞ」
そう自分に言い聞かせたはずなのに、いざ口を開けば、いつもの癖で冷ややかな響きが混ざる。心の中で「練習通り」と誓った矢先から、結局は命令口調になっている。自分の不器用さに内心で舌打ちをしたが、それ以上に、奈月の反応がなさすぎることが気にかかった。
再び促しても、彼女はぴくりとも動かなかった。
思い描いていた甘い反応とは違う、石像のような静止。得体の知れない不安が胸をよぎり、俺は無理やり奈月の体をこちらへ向けさせた。その瞬間、俺の理想は、無残にも音を立てて崩れ去った。
「……寒い……」
覗き込んだ奈月の頬は林檎のように赤く、吐息は苦しげに熱を帯びていた。
シーツを握りしめる指先が、小刻みに震えている。思わず、その額に手を触れた。指先から伝わってきたのは、火傷しそうなほどの熱さだった。
(熱?)
昨夜、濡れた髪のまま夜風に晒した報いだ。俺の判断ミスを呪う暇もなかった。俺はすぐさま内線を取り、まずは佐々木へ伝えた。
「佐々木。……奈月が倒れた。すぐに主治医を俺の部屋へ。他の仕事はすべて放っておけ。」
驚きを隠し、即座に「承知いたしました」と応じる佐々木の声を待たずに、次は日高の携帯へ内線から飛ばす。
「日高。今すぐ本邸へ来い。……熱だ。着替えも頼む。母上と祖母に気づかれないように頼む。」
受話器の向こうで、日高が短く、鋭く息を呑む気配がした。
「……承知いたしました。すぐに」
俺は、すぐに受話器を置いた。日高の動揺すら、今は心地悪い。ノックの音を待たず、佐々木の声と共に日高が部屋へ踏み込んできた。
「瑛斗様、何があったのですか?」
いつもは冷静な日高が、息を切らしてベッドサイドへ駆け寄る。
「佐々木さん、熱だそうですよ。……酷い、これほどの熱とは」
日高の声に滲む、隠しきれない焦燥。俺はソファに沈んだまま、感情を殺した声で命じた。
「日高、会社側の調整を頼む。俺も休む」
「……瑛斗様が、仕事を?……分かりました、桐谷に連絡するよう伝えます」
驚きに目を見開く日高を無視し、俺はただ奈月を見つめていた。
母上と祖母が、この状況で部屋に来ては困る。俺は佐々木に、今の状況を伏せたまま「体調が優れない。今日は誰も部屋に入れないように」と父に伝えてくれと頼んだ。あの父なら、母上の動きを一時的に抑えることくらいはできるだろう。
それから、間もなくして、部屋に主治医が駆け込み、診察が始まる。俺はソファに腰掛け、その様子をじっと見つめていた。
(……俺のせいだ)
「……瑛斗様。かなり急激に体温が上がっています。三十九度五分。喉の腫れも酷い。極度の緊張と疲労が重なったのでしょう。知恵熱のような側面もありますが。脱水症状も出ていますのでこちらの方も危険かと」
主治医の言葉の一つ一つが、鋭い刃となって俺の胸に突き刺さる。緊張、疲労。そのすべてに、俺の傲慢な振る舞いが関わっていた。
「すぐに点滴、解熱剤も併用します。……瑛斗様、奈月様には今、何よりも静養が必要です。強いストレスは避けてください。」
点滴の針が、奈月の細い腕に刺される。
強いストレスは避けてください――。医師のその言葉が、皮肉にも、今この屋敷に満ちている空気そのものを指しているようで、俺は奥歯を噛み締めた。その一部に俺の行いも含まれている。
(どうして、俺は……)
奈月の、あの時の笑顔をそのままにしておけなかったのだ。祖父からの遺言を盾にするのではなく、「遺言だけど、これからよろしく」と、どうして普通に、優しく伝えることができなかったのか。
俺のくだらないプライドが、奈月を追い詰め、ここまで衰弱させた。ベッドで苦しげに浅い呼吸を繰り返す奈月に対して、俺ができることなど何一つない。
(……いや、何一つないわけがない)
指をくわえて医師の処置を眺めているだけなど、俺の性分ではないはずだ。俺はソファから立ち上がり、主治医の手から氷嚢をひったくるように受け取った。
「瑛斗様?」
「いい、俺がやる。……点滴の管理に集中してくれ」
氷のぶつかり合う冷たい感触が、手のひらから伝わる。熱に浮かされ「……寒い……」と弱々しくこぼす奈月の額に、俺はそっと氷嚢を置いた。
今まで、誰かの機嫌を伺ったり、甲斐甲斐しく世話を焼いたことなど一度もない。何をすればいいのか、正解すら分からない。だが、震える奈月の指先をそっと包み込むことくらいはできる。
「……すまない、奈月」
俺の大きな手の中で、奈月の小さな手が熱を帯びて震えている。
仕事も、プライドも、母への体裁も、今の俺にはどうでもよかった。この熱が下がるまで、俺は奈月の側を離れない。
主治医が点滴の調整を終え、佐々木や日高を促して静かに部屋を後にした。重厚な扉が閉まり、部屋に再び静寂が訪れる。
俺は氷嚢を替え、火照った奈月の頬に指先を滑らせた。熱に浮かされているせいか、今の奈月はあんなに拒絶していた俺を、ただ無防備に受け入れている。
(……卑怯だな、俺は)
意識のない奈月に対してしか、素直になれない。俺は吸い寄せられるように顔を近づけた。熱い吐息が重なり、シトラスの香りと、彼女自身の甘い匂いが混じり合う。
その乾いた唇に、そっと、触れるだけの唇を落とした。
誰にも、見せたくない。誰にも、触れさせたくない。たとえ奈月が目覚めた後に、俺を激しく拒否したとしても。今はただ、俺のすべてで受け止めていたかった。
(絶対に、この手を離さない)
重厚な扉が微かにノックされ、佐々木の抑えた声が響いた。
「……瑛斗様。旦那様がお呼びです。至急、書斎へ来るようにと」
俺は思わず奈月の手を握りしめた。力を込めて。母上たちをこの部屋へ近づけないよう、父に根回しを頼んだ。その対価を、父は今すぐ支払えと言っているのだろう。今、ここを離れれば、母上を抑える術がなくなる。
(苦渋の決断だな)
俺は熱に浮かされる奈月の額に、最後にもう一度だけ触れた。
「……すぐに戻る。だから、勝手にどこかへ行くなよ」
決して届かない言葉を落とし、俺は後ろ髪を引かれる思いで奈月の手を離した。
(絶対に、この手を離さないと誓ったはずなのに)
俺が父との対峙に向かったその数十分が、取り返しのつかない空白を生むとも知らずに。
(つづく)
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