妹に婚約者を奪われたので、怪物と噂の「冷徹公爵」に嫁ぎます。~どうやら彼は不器用なだけだったようで、今さら実家に戻れと言われても困ります~

みやび

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【第2章】 華麗なる社交界デビューと、愚か者たちへの断罪

第22話 崩壊する故郷と、祖父が遺した「真実」

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 王都の別邸にある執務室は、沈痛な空気に包まれていた。
 窓の外は明るい日差しが降り注いでいるのに、私の心には鉛のような重りがのしかかっていた。

「……そうですか。領民たちが、ついに」
「はい。武装した領民たちが屋敷を包囲し、留守を預かっていた使用人たちも蜘蛛の子を散らすように逃亡。……男爵領は事実上、無政府状態にあります」

 ハンスさんが淡々と読み上げる報告書の内容は、あまりに衝撃的だった。
 けれど、心のどこかで「やはりこうなったか」と納得している自分もいた。
 私が管理していた頃でさえ、父たちの浪費のせいで財政は綱渡りだったのだ。私が去り、指揮官を失った船が沈むのは必然だったのかもしれない。

「……私のせいです」

 私は膝の上で拳を握りしめた。
 爪が掌に食い込む。

「私がもっと早く、父から経営権を奪っていれば……。あるいは、出て行く前にもっと強引にでも引き継ぎをしていれば、領民たちを巻き込まずに済んだかもしれません」

 脳裏に浮かぶのは、故郷の風景だ。
 祖父が植林し、母が愛した美しい森。汗水流して働く農夫たちの笑顔。
 あの土地は、私にとって地獄のような実家の中で、唯一の心の拠り所だった。
 それを守りたくて、私はずっと歯を食いしばってきたのに。結局、守りきれなかった。

「エリス」

 沈黙を破り、ジークハルト様が私の前に跪(ひざまず)いた。
 彼は私の冷たくなった拳を、大きく温かい手で包み込んだ。

「お前のせいではない。……船長が舵(かじ)を捨てれば、船は沈む。それは船長の責任であり、降りた船員の責任ではない」
「でも……あそこには、お祖父様とお母様の思い出が……」
「ああ、分かっている」

 ジークハルト様は優しく頷くと、ハンスさんに目配せをした。
 ハンスさんが恭しく、一通の書類と、古びた重厚な「小箱」をテーブルの上に置いた。

「だから、私が手を打った」
「え……?」
「この書類を見てくれ。……男爵家の債権譲渡の契約書だ」

 私は震える手で書類を手に取った。
 そこに書かれていたのは、父たちが商人や王都の銀行から借りていた莫大な借金を、ジークハルト公爵家が「全て肩代わりした」という内容だった。

「ジ、ジークハルト様!? こんな大金、どうして……!」
「勘違いするな。彼らを助けるためではない」

 彼の瞳が、鋭い光を帯びる。

「男爵家は借金を返済不能となり、担保に入っていた『男爵領の土地と統治権』は、債権者である私のものになった。……つまり、あの土地は今日からジークハルト公爵領の一部だ。もう、あの愚かな男(ちちおや)のものではない」

 意味を理解するのに数秒かかった。
 彼は、金に物を言わせて借金を買い取り、実質的に実家を乗っ取ってくれたのだ。
 父や継母を救うためではなく、私が大切に思っている「土地」と「民」を救うために。

「領民たちの暴動は、私が派遣した私兵団が既に鎮圧し、対話を行っている。『新しい領主は、かつて実務を取り仕切っていたエリスだ』と伝えたら、皆、涙を流して歓喜したそうだ」
「あ……」

 涙が溢れた。みんな、覚えていてくれたのだ。

「そして、もう一つ。……ハンス、あれを」

 ハンスさんが、テーブルの上の「小箱」を私の手元へ押しやった。
 金属製の小さな金庫のような箱だ。鍵穴はなく、代わりに蓋の部分に家紋のような複雑な紋様が刻まれている。

「これは、屋敷の暴動が起きる直前に、ハンスの配下が『隠し金庫』から回収させたものだ。……だが、どうしても開かない」
「開かない、ですか?」
「ああ。魔術的な封印が施されているようだ。『正当なる血縁者』以外が触れると、魔力が弾かれてしまう」

 ジークハルト様が目で促す。
 私は恐る恐る、その箱の紋様に手を伸ばした。

 指先が触れた、その瞬間。
 カチリ。
 硬質な音がして、紋様が淡い光を放ち、箱の蓋がゆっくりと持ち上がった。

「開いた……!」
「やはりな。それはお前にしか開けられないものだったんだ」

 箱の中には、一冊の革張りの手帳と、一通の手紙が入っていた。
 手紙の表には、懐かしい祖父の字で『愛する孫娘、エリスへ』と書かれている。

 震える手で封を開ける。そこには、祖父の最期のメッセージが記されていた。

『エリス。この手紙を読んでいるということは、私はもうこの世におらず、そしてお前は困難な状況にあるのかもしれない。
 お前の父となったあの男について、謝らなければならないことがある。
 あやつは、口がうまく、外面だけは良い男だった。お前の母は、そんな彼に熱烈に求婚され、恋に落ちてしまったのだ』

 手紙を読み進めるうちに、当時の情景が浮かんでくるようだった。
 恋は盲目と言うけれど、母は父の美辞麗句(びじれいく)を信じ込んでしまったのだろう。

『私は反対したかったが、愛する娘が「彼となら幸せになれる」と涙ながらに訴えるのを、無下に断ることができなかった。……娘の笑顔見たさに、私は彼を婿として受け入れてしまったのだ。私の甘さが招いた過ちだ』

 祖父の悔恨(かいこん)が、文字から滲み出ている。
 しかし、祖父はただ後悔していただけではなかった。

『だが、私はあの男の目の奥にある「野心」と「劣等感」を見逃してはいなかった。あやつは、優秀な血筋であるお前たちを妬み、いずれ家を食い潰すだろうとな。
 だから私は、お前のためにこれを遺す。
 この手帳には、私が生涯をかけて築いた商売のノウハウと、未発表の特産品の研究記録、そして――非常用の隠し資産の場所(王都の銀行口座)を記しておく』

 手帳をめくると、そこにはびっしりと、領地の未来のための研究データが書き込まれていた。
 そして最後のページには、こう結ばれていた。

『家名など、ただの飾りだ。爵位など、くれてやればいい。
 本当に大切なのは、土地と、そこに生きる人々の笑顔だ。
 エリスよ。もし家が腐り落ちたなら、迷わず自分の道を行け。お前なら、どこでだって花を咲かせられる。
 お前は、私たちが心から愛した、自慢の孫娘なのだから』

「……う、ううっ……!」

 手紙を抱きしめ、私は声を上げて泣いた。
 ずっと、父から「お前は可愛げがない」「無能だ」と罵られてきた。
 それは、優秀な「正当な血筋」である私に対する、入り婿である父のコンプレックスだったのだ。
 祖父はそれを見抜き、最期まで私を守ろうとしてくれていた。

「……良かったな、エリス」

 ジークハルト様が、背中を優しく撫でてくれる。

「お前のルーツは、あの男ではない。この賢明な祖父殿と、慈愛に満ちた母君だ。……お前が守りたかったものは、これではっきりと、お前の手元に戻った」

 私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
 胸のつかえが、完全に取れていた。
 もう、あの家に対する未練も、罪悪感もない。
 私は祖父の遺志を継ぎ、ジークハルト様の妻として、あの土地を――今度こそ、誰も不幸にならない豊かな土地として再生させるのだ。

「ありがとうございます、ジークハルト様……! 私、私……っ」
「礼には及ばん。……その代わり、これからもその才能で私を助けてくれ。私の隣には、お前が必要だ」

 彼は私の涙を指で拭い、額に口づけを落とした。

 こうして、私の故郷である男爵領は、腐敗した支配から解放され、ジークハルト公爵領の「新区画」として生まれ変わることになった。
 そして、全てを失った父たちは――。

 王都の別邸の窓から、遠くの空を見上げる。
 自分を信じてくれた妻と義父を裏切り、娘を虐げた男の末路など、考える価値もない。
 彼らがすがりついていた「過去の栄光」はもうどこにもなく、あるのは冷たく厳しい「現実」だけ。

 私はパタンと小箱を閉じ、愛する夫の元へと振り返った。
 もう、過去は振り返らない。
 私には、こんなにも温かい「今」があるのだから。
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