婚約破棄された王太子妃候補は第一王子に気に入られたようです。

永野水貴

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 殿下、とエヴェリーナが呼びかけようとした声を、

「ジョン!」

 弾むようなマルタの声がさえぎる。
 同時にマルタは立ち上がり、ジョナタに駆け寄る。

「おいおい、礼儀作法はどうした。こんなふうに走っていいのか?」
「いまはいいの! もう、窮屈ったらありゃしないわ! こんなに窮屈なら、ジョンの求婚なんて受けなかったのに!」
「お、おい……!?」
「ふふ、冗談よ、冗談!」

 二人は立ったまま、気安い会話をする。
 エヴェリーナはぼんやりとそれを見た。

(……あのように、気安い物言いをしても……殿下はお怒りにならない)

 ジョナタのこんなくだけた態度をはじめて見た。
 内心の衝撃と絶望は、顔には出なかった。――ずっとそんなふうに躾けられてきたからだ。

 エヴェリーナは徹底して、王太子たるその人に礼儀正しく接するよう厳しく教え込まれた。最上の敬意を払い、わずかな無礼も許されない。
 王太子とその妃は衆目にさらされ、他国の使者とも接する。閨以外で、隙となるようなものを安易に見せてはならないとされていた。

 なのに、マルタはそんなことをまったく気にしていないようだった。きっと知りもしないだろう。
 ――エヴェリーナには、あのような言動は決してできない。許されなかった。
 そして何よりも。

(殿下は……こんな顔をされるのだ)

 マルタを見つめる目は優しく、誰が見ても明らかなほど愛情に溢れている。すらりとした長身に、いつものような張り詰めた空気はない。

 完璧な王太子ではなく、心和ませる一人の青年がそこにいた。
 エヴェリーナの知らない王太子。エヴェリーナの知らないジョナタだった。

 ジョナタはマルタに向けていた優しげな目をようやく持ち上げ、エヴェリーナを見た。

「すまないな、エヴェリーナ。マルタに教えるのは大変だっただろう」
「……いいえ」
「ちょっとジョン! 私だってがんばったんだから!」

 マルタが童女のように主張する。
 ジョナタは笑ってそれを受け止める。

 エヴェリーナは、そんな二人をただ傍観していた。

(わたくしは――)

 マルタのように、自分の功績を主張することはできない。
 王太子妃としてあらゆることは完璧にできて当然だったから。
 自己主張などしては、王太子であるその人に、驕っていると眉をひそめられると思ったから。

 なのにいま王太子は、温かな眼差しでマルタの言葉を聞いている。

 エヴェリーナはふいに、目の前が暗くなって立ちすくむような錯覚に襲われた。その錯覚で本当に動けなくなってしまう前に、椅子から腰を上げた。

「……では私はこれで失礼いたします」
「ああ、手間をかけた」
「ありがとね、お嬢様!」

 二人に労われ、だがエヴェリーナは目を伏せていえ、と短く答えただけで足早にその場を辞す。
 
 胸が重い。鈍い痛みがする。
 一刻たりともここにはいられない。
 ここは王太子の別邸。――もはや、自分の居場所ではなくなっていた。
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