元婚約者に冷たく捨てられた伯爵令嬢、努力が実って王太子の恋人に。今さら跪かれても遅いですわ!

sika

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第2話 涙の夜と見知らぬ青年

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夜になっても、クロエの心は静まらなかった。  
ルシアンに婚約破棄を告げられてから一日が経ち、屋敷の空気はどこか重く、沈黙に満ちていた。  
父母はそれぞれ社交界への報告を終え、今後の交際関係の整理に奔走している。  
その姿を見て、クロエは痛みと共に申し訳なさを感じた。彼らには何の落ち度もないのに、娘の婚約破棄が家の評判に影を落としてしまったのだ。

ベッドの上に腰かけ、クロエは静かに息をついた。  
薄明かりの蝋燭の揺らめきが壁に影を落とす。  
必ず幸せになると信じていた相手が、あんなにも簡単に全てを手放す人だったなんて。

胸の中が空っぽだった。  
努力することこそが愛だと――そう思っていた。  
けれど、努力が彼を遠ざけたというのなら、クロエは何を信じればいいのだろう。

「……私、間違っていたの?」  
問いかけても、答える者はいない。  
手元の白いレースのハンカチには、水滴の跡がほのかに残っている。昨日、涙をこぼした痕だ。  
あの日の自分がどれほど惨めで、無力だったかを思い出す。小さな体に押し寄せる絶望を抱えたまま、それでも頭を下げ、礼を尽くして別れを告げた――あの時の冷たい自分の声がまだ耳に残っていた。

窓の外を見ると、曇り夜の下、王都の灯が遠くに瞬いている。  
この街のどこかで、ルシアンもまた別の誰かと微笑み合っているのかもしれない。  
そう思うだけで、胸の奥が締めつけられた。

クロエは立ち上がり、机の引き出しから一枚の手紙を取り出す。  
それはまだ、二人が幸せだった頃の便箋。  
ルシアンの字で、丁寧に「君と共に生きる未来を信じている」と書かれていた。  
震える指先が紙をなぞり、視界が滲む。  
けれど、涙はもう流れなかった。  
悲しみを超えた後には、少しだけ静かな諦めがあった。

窓を開けると、冷たい夜風が頬を撫でた。  
クロエは外を見下ろす。庭の向こうには森が続き、さらにその先に王都の灯が揺れている。  
あそこに行けば、少しは違う風が吹いているだろうか――そんな衝動が胸を満たした。

彼女はショールを羽織り、屋敷を抜け出した。  
本来なら許されないことだ。だが、今夜だけは心のままに歩いてみたかった。  
夜道はひんやりとして、湿った空気が肌を包む。遠くで教会の鐘が鳴り、静寂を切り裂くように響いた。

王都の外れにある橋の上にたどり着いたとき、クロエは歩を止めた。  
川面に映る月が淡く砕け、流れていく。  
その光景を見つめながら、ふと足元から声がした。

「こんな時間に、ひとりで歩いておられるのですか?」

驚いて振り返ると、そこには昼間出会った青年――ノエルがいた。  
少し厚いコートを羽織り、肩には旅人のような袋を下げている。  
彼女の表情を見るなり、心底心配そうに眉をひそめた。

「またお会いできましたね。……こんな夜に歩くのは、危ないですよ。」  
「……ノエル様。奇遇ですね。」  
「奇遇というより、運命のいたずらかもしれませんね。」

言葉の端に微笑を滲ませながら、彼は静かに橋の欄干にもたれかかった。  
その動作にクロエの緊張が少し和らぐ。  
見知らぬ相手なのに、不思議と警戒心が薄れてしまう。それほど、彼の笑みは穏やかだった。

「お顔が少し……泣いた後ですね。」  
優しい指摘にクロエの背筋が固まる。  
思わず頬を撫でるが、もう涙の跡は乾いていた。  
「少し、息苦しかったのです。ここに来れば、少し楽になれるかと思って。」  
「何かを失ったのですか?」  
詮索するでもなく、ただ相手を気づかうような声音。  
クロエは目を閉じ、頷いた。  
「大切なものを……いえ、大切だと思っていたものを、です。」  
「それが、自分の手の中から零れ落ちた時、人はよく空を見ますね。」  
「え?」  
「失くしたものを探す代わりに、まだ遠くに何かあるはずだと思いたくなるんですよ。」

彼の言葉は不思議な慰めに満ちていた。説教でも同情でもない、ただ寄り添う穏やかさ。  
クロエは小さく笑った。  
「面白いことをおっしゃいますね。」  
「旅人ですから。たくさんの人を見てきました。泣く人、笑う人、怒る人。けれど、絶望したままの人はいません。どんな夜にも、必ず朝が来ると知っているから。」  
「……朝が来る。」  
その言葉を噛みしめると、胸の奥に暖かな火が灯る気がした。

ふと、風が吹いた。クロエの髪が揺れ、ノエルの指先がそっとそれを押さえた。  
至近距離で彼の瞳に映る自分を見て、心臓が静かに跳ねる。  
息を吸うのを忘れるほど、彼の瞳は穏やかで、けれどどこか強い意志を宿していた。

「クロエ嬢、あなたのような人が、悲しみだけで歩くのは似合いません。」  
「……私に、笑う資格などあるのでしょうか?」  
「資格? 笑うのに資格は必要ありませんよ。ただ、勇気だけです。」  
柔らかな言葉が夜の空気に溶けた。  
クロエは小さく唇を結び、視線を落とした。  
そうして、少しだけ息を吐く。  
「……不思議な方ですね、ノエル様は。」  
「不思議なのは、貴女に会ったことの方ですよ。」

その言葉に胸が温かくなった。  
まるで見えない手が、凍った心を優しく包んでくれるようだった。  
どれだけ強くても、辛い時にそっと寄り添う言葉ほど尊いものはない。

「少し歩きましょうか。夜風を浴びると、心が軽くなります。」  
ノエルの提案に頷き、二人は橋を渡りながら歩き始めた。  
石畳が月光を反射し、足音が淡く響く。  
クロエは思い出す。  
これほど穏やかな会話を誰かとしたのはいつ以来だったろう。

ノエルが語る旅の話は不思議と面白く、心に優しく染み入った。  
遠い国で見た祭りの灯、荒野を渡るキャラバンの歌。  
彼の口から紡がれる風景は、クロエにはまるで絵本のように鮮やかに浮かんだ。

「ノエル様は、どこへ向かっていらっしゃるのですか?」  
「うーん、秘密です。」  
「秘密、ですか?」  
「ええ。まだ“自分を見つける途中”なんです。」  
意味深な微笑みに、クロエは小さく笑うしかなかった。  
その“秘密”という言葉が、なぜか彼をより特別に感じさせた。

気づけば、夜はすっかり更けていた。  
別れ際、ノエルは少し寂しげに言った。  
「人の涙は夜の露に似ています。放っておけば乾きますが、誰かの言葉で光ることもある。今夜、少しでも心が軽くなったなら嬉しい。」  
「はい……ありがとう、ございます。」  
「ありがとうは、朝になって心が晴れた時に言ってください。その時の方が、きっと本当です。」

そう言って微笑むと、ノエルは振り返らずに闇の中へ消えていった。  
彼の残した温もりだけが、クロエの中に残る。  
身体よりも心が火照り、指先がかすかに震えていた。

屋敷への帰り道、クロエは何度も夜空を見上げた。  
涙の代わりに、微笑みがこぼれた。  
一瞬しか共に過ごさなかったのに、あの青年と出会えたことが、不思議なほど救いだった。  
悲しみの渦の中に、たしかに希望の光が射しこんだ気がした。

部屋に戻ると、鏡の中の自分が少し違って見えた。  
瞳の奥に、昨日まではなかった光が宿っている。  
ノエルの言葉が、静かに胸の底に響いていた。  
――どんな夜にも、必ず朝が来る。

ベッドに身を預け、彼の言葉を反芻する。  
そのまま穏やかな眠りに落ちていく瞬間、クロエは初めて願った。  
どうか、明日が少しでも優しい一日でありますように――。

続く
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