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第13話 隣国での新しい日々
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修道院を後にしてから三日後、私たちは王都の境界線を越えた。
灰色の空の下、雪解け水が道を流れ、遠くから朝の鐘が響く。
その音を背に、私はどこかで“ひとつの時代が終わった”と感じていた。
王都での婚約破棄、裏切り、涙、そしてざまあの痛快な瞬間――それらすべてが、もう私の人生の主旋律ではなくなっていた。
「これからはヴァルディール領を抜け、さらに西の国境を越えます。貴女を守るには、いったん隣国に移ったほうが安全です」
アレンが馬上から声を掛けてきた。
淡い朝の光が彼の髪に重なり、どこか現実の人ではないように思える。
「隣国……あの雄大な湖と花の国、レイベルですね」
「そうです。王都と違い、表面の華やかさではなく、静かな誇りを重んじる国です。貴女に合っている」
その言葉に少しだけ頬が緩んだ。
「そんな国に、貴方は私を“匿う”つもりですか?」
「いいえ、“生きる場所を移す”のです。貴女の人生が誰かの政治に縛られぬように」
アレンの言葉は不思議な力を持っていた。いつだって彼の言葉には怒りがなく、ただ揺るぎない確信だけがある。
出発から二日後、山を越えた頃、風景は一変した。
レイベル国境の町に近づくにつれ、緑の大地と石造りの家が広がる。
人々の顔は朗らかで、往来には香辛料や果実の匂いが漂っている。
「……風の香りが違いますね」
「ここは常に南風が吹く。国を覆うのが雪ではなく、季節の香りなんです」
「素敵な言葉ですね」
「気に入りましたか?」
「ええ。ここで息をするだけで、あの凍てついた夜を遠い夢のように思えます」
馬車を降りると、アレンは領主館のような建物へ私を案内した。
白い石壁に蔦が絡み、赤い屋根が陽を受けて眩しい。
館の扉には、ヴァルディール家とレイベル王家の紋章が並んでいた。
「ここはヴァルディール家が代々管理してきた交易館です。貴女にはしばらく、ここの主賓として過ごしてもらいます」
「主賓……そんな身分では」
「私の隣に座る人だ。遠慮はいりません」
執務室に案内され、窓から外を見ると、庭の湖が光を反射してきらめいていた。
館の一角では、子どもたちが笑いながら駆け回っている。
私は思わず言葉を漏らした。
「平和って、こんな音がするのですね……」
アレンが私の隣に立ち、同じ景色を見た。
「王都で聞いた笑い声は、どれも誰かの監視の下でした。ここでは違う。誰もが自由に笑う」
「貴方はずっとこの場所を守ってきたのですか?」
「ええ。戦のあと、人々が苦しむ声を耳にしたとき、この地に立つことを選びました。名誉や称号のためではなく、ただ“守るために”」
その言葉が胸の奥で強く鳴った。
守ること――それはかつて、私が最も遠ざけられていた感情だった。
貴族の娘として、私は常に“従う側”にいた。
けれどアレンは、“守る者”としてここに立っている。
「……貴方のように強く生きられたら」
「強くなどありません。守ることは、時に弱さを認めることです」
「弱さを、認める?」
「守りたいものがあるとき、人は初めて“自分が無力だ”と知る。それを受け止めてこそ、強くなる」
彼の言葉に静かに息を呑んだ。
この人の信念が、私をここまで導いてくれたのだ。
もし私が再び道を見失いそうになったら、きっとこの言葉を思い出すだろう。
その夜、夕食を終えて執務室に呼ばれた。
「すこし話したいことがあります」とアレンが切り出す。
机の上には文書の束が積まれており、その中の数枚を彼が差し出した。
「貴女の名を不用意に使うことを避けるため、偽名の身分と記録を用意しました。レイベルでは“リディア・エリン”として暮らしていただく」
「……新しい名前、ですか」
「ええ。この国では“エリン”は春風を意味する。まさに貴女にふさわしい」
私はそっとその『身分証』に触れた。王家の印でも、貴族の紋章でもない。
ただ、黒いインクで記された小さな名。
それだけで目の奥が熱くなった。
「この名前で生きるとき、私はようやく自分を取り戻せる気がします」
「それが私の願いです」
アレンの声が柔らかく響く。
「王都にいたとき、貴女は常に演じていた。私が初めて貴女を見た夜――あの断罪の瞬間の瞳に、本当の貴女がいた」
「自嘲にも似た強がり、でしょう?」
「違う。あの瞳の奥には信念があった。貴女は気高かった。誰に否定されても、誇りを捨てなかった」
彼の言葉に胸が詰まる。あの夜、誰もそんなふうに言ってくれなかった。
しばし沈黙が流れた。蝋燭が短くなり、部屋の明かりが揺らぐ。
アレンが続ける。
「この国での新しい生活は、王家にも知られないように守ります。その代わり、私は一つだけ条件を」
「条件?」
「恐れたときは必ず私に言うこと。誤魔化さず、隠さない。それが……私と貴女の“契約”です」
その言葉を聞いた瞬間、息が止まった。
“契約”――それは婚約のように重くはなく、それでいて心の奥を捕らえる柔らかな約束だった。
「……貴方は本当に、不思議な人ですね。いつも私の逃げ場を見つける」
「逃げる場所があることは、弱さではありません。生きるための知恵です」
穏やかに微笑むその瞳を見ながら、私は深く頷いた。
「はい。では、この契約を交わしましょう」
彼が手を差し出し、私もそれを取る。
手のひらに伝わる体温は、言葉より真実を伝えていた。
その後の日々は驚くほど穏やかに過ぎた。
朝は湖のほとりを散歩し、昼は孤児院で手伝いをする。夜はアレンと資料を整理しながら、時折たわいない話をする。
笑う回数が増えるたびに、胸の氷が少しずつ溶けていくようだった。
ある日の午後、孤児たちに読み聞かせをしていると、子どもたちが口々に言った。
「ねえ、“おねえさま”は、笑うとお花みたい!」
私は驚き、思わず笑った。
その笑みに、アレンが扉の外で立ち止まり、静かに目を細めていた。
その視線が胸を包み、言葉にできない幸福が広がった。
――私は、もう過去の自分ではない。
氷の令嬢でも、断罪された女でもない。
ただここに生きる、ひとりのリディア。
そして、湖を渡る風が囁く。
「新しい季節が来た」と。
続く
灰色の空の下、雪解け水が道を流れ、遠くから朝の鐘が響く。
その音を背に、私はどこかで“ひとつの時代が終わった”と感じていた。
王都での婚約破棄、裏切り、涙、そしてざまあの痛快な瞬間――それらすべてが、もう私の人生の主旋律ではなくなっていた。
「これからはヴァルディール領を抜け、さらに西の国境を越えます。貴女を守るには、いったん隣国に移ったほうが安全です」
アレンが馬上から声を掛けてきた。
淡い朝の光が彼の髪に重なり、どこか現実の人ではないように思える。
「隣国……あの雄大な湖と花の国、レイベルですね」
「そうです。王都と違い、表面の華やかさではなく、静かな誇りを重んじる国です。貴女に合っている」
その言葉に少しだけ頬が緩んだ。
「そんな国に、貴方は私を“匿う”つもりですか?」
「いいえ、“生きる場所を移す”のです。貴女の人生が誰かの政治に縛られぬように」
アレンの言葉は不思議な力を持っていた。いつだって彼の言葉には怒りがなく、ただ揺るぎない確信だけがある。
出発から二日後、山を越えた頃、風景は一変した。
レイベル国境の町に近づくにつれ、緑の大地と石造りの家が広がる。
人々の顔は朗らかで、往来には香辛料や果実の匂いが漂っている。
「……風の香りが違いますね」
「ここは常に南風が吹く。国を覆うのが雪ではなく、季節の香りなんです」
「素敵な言葉ですね」
「気に入りましたか?」
「ええ。ここで息をするだけで、あの凍てついた夜を遠い夢のように思えます」
馬車を降りると、アレンは領主館のような建物へ私を案内した。
白い石壁に蔦が絡み、赤い屋根が陽を受けて眩しい。
館の扉には、ヴァルディール家とレイベル王家の紋章が並んでいた。
「ここはヴァルディール家が代々管理してきた交易館です。貴女にはしばらく、ここの主賓として過ごしてもらいます」
「主賓……そんな身分では」
「私の隣に座る人だ。遠慮はいりません」
執務室に案内され、窓から外を見ると、庭の湖が光を反射してきらめいていた。
館の一角では、子どもたちが笑いながら駆け回っている。
私は思わず言葉を漏らした。
「平和って、こんな音がするのですね……」
アレンが私の隣に立ち、同じ景色を見た。
「王都で聞いた笑い声は、どれも誰かの監視の下でした。ここでは違う。誰もが自由に笑う」
「貴方はずっとこの場所を守ってきたのですか?」
「ええ。戦のあと、人々が苦しむ声を耳にしたとき、この地に立つことを選びました。名誉や称号のためではなく、ただ“守るために”」
その言葉が胸の奥で強く鳴った。
守ること――それはかつて、私が最も遠ざけられていた感情だった。
貴族の娘として、私は常に“従う側”にいた。
けれどアレンは、“守る者”としてここに立っている。
「……貴方のように強く生きられたら」
「強くなどありません。守ることは、時に弱さを認めることです」
「弱さを、認める?」
「守りたいものがあるとき、人は初めて“自分が無力だ”と知る。それを受け止めてこそ、強くなる」
彼の言葉に静かに息を呑んだ。
この人の信念が、私をここまで導いてくれたのだ。
もし私が再び道を見失いそうになったら、きっとこの言葉を思い出すだろう。
その夜、夕食を終えて執務室に呼ばれた。
「すこし話したいことがあります」とアレンが切り出す。
机の上には文書の束が積まれており、その中の数枚を彼が差し出した。
「貴女の名を不用意に使うことを避けるため、偽名の身分と記録を用意しました。レイベルでは“リディア・エリン”として暮らしていただく」
「……新しい名前、ですか」
「ええ。この国では“エリン”は春風を意味する。まさに貴女にふさわしい」
私はそっとその『身分証』に触れた。王家の印でも、貴族の紋章でもない。
ただ、黒いインクで記された小さな名。
それだけで目の奥が熱くなった。
「この名前で生きるとき、私はようやく自分を取り戻せる気がします」
「それが私の願いです」
アレンの声が柔らかく響く。
「王都にいたとき、貴女は常に演じていた。私が初めて貴女を見た夜――あの断罪の瞬間の瞳に、本当の貴女がいた」
「自嘲にも似た強がり、でしょう?」
「違う。あの瞳の奥には信念があった。貴女は気高かった。誰に否定されても、誇りを捨てなかった」
彼の言葉に胸が詰まる。あの夜、誰もそんなふうに言ってくれなかった。
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「この国での新しい生活は、王家にも知られないように守ります。その代わり、私は一つだけ条件を」
「条件?」
「恐れたときは必ず私に言うこと。誤魔化さず、隠さない。それが……私と貴女の“契約”です」
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“契約”――それは婚約のように重くはなく、それでいて心の奥を捕らえる柔らかな約束だった。
「……貴方は本当に、不思議な人ですね。いつも私の逃げ場を見つける」
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「はい。では、この契約を交わしましょう」
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私は驚き、思わず笑った。
その笑みに、アレンが扉の外で立ち止まり、静かに目を細めていた。
その視線が胸を包み、言葉にできない幸福が広がった。
――私は、もう過去の自分ではない。
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ただここに生きる、ひとりのリディア。
そして、湖を渡る風が囁く。
「新しい季節が来た」と。
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