氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜

sika

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第18話 元婚約者の嘆願

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アレンの肩を貫いた傷は、幸いにも急所を外れていた。  
医師はすぐに縫合を施し、安静が必要だと告げた。  
「一歩間違えば命を落としていた」と言われた瞬間、胸が締め付けられた。  
私はただ、静かに彼の寝顔を見つめていた。あの強く優しい人が、今は安らぎの中で呼吸を繰り返している。  
指先でそっと彼の手を握ると、その掌はまだ微かに温かい。  
「……守ってくれたのですね。こんな形で」  
その言葉が涙と共に零れた。  

外では夜の風が吹き、森の葉がざわめいている。  
その音が、まるで遠い誰かの泣き声のように聞こえた。  
クリスが黙って扉の前に立っていた。  
「お嬢様、ご休息を。公爵様のお体はもう安定されました」  
「ありがとう。でも、少しだけ看ていたいの」  
クラリスは静かにうなずいて部屋を出た。  
私は椅子に腰かけ、長い夜をそのまま迎えた。  

夜明け前、扉が小さく叩かれた。  
「リディア様」医師の声だ。  
「王国側の使者が再び門へ現れました。……捕虜として拘束していた王太子が、意識を取り戻したと」  
その名を聞いた瞬間、空気が変わったように感じた。  
冷たい血が脈に流れ、水面のような痛みが胸を刺す。  
「殿下が……目覚めた?」  
「はい。そしてどうしても貴女と話したいと」  

その報せを告げられた瞬間、アレンの穏やかな寝顔に目を向けた。  
彼が今も戦いの痛みを抱えているというのに、過去はまた私の前に影を落とす。  
けれど、逃げてはいけないと分かっていた。  

「分かりました。私が行きます」  
「危険ですぞ」  
「分かっています。それでも、終わらせなければならないのです」  

朝の光が差し込む頃、私は邸の一室でアーヴィン殿下を前にしていた。  
傷を負った彼の顔は青く痩せ、あの頃の誇り高い光は影を潜めていた。  
椅子に座った殿下は、私の足音を聞き取って顔を上げる。  
その眼差しは、まるで別人のように静かだった。  

「……リディア」  
あの声が再び名前を呼ぶ。  
私はため息を吐き、少し距離を置いた。  
「何を話されたいのですか」  
「私は、あの日を……おまえを断罪した夜を、ずっと夢で見る」  
「後悔なさっているのですか?」  
「後悔どころではない。あの瞬間、私は全てを失った」  
彼の言葉がゆっくりと地に落ちていくようだった。  

「おまえを冷たい女だと思っていた。だが本当は、おまえの方が何倍も熱く、真っ直ぐだったんだな」  
「……今さら、それを言われても」  
「分かっている。私はおまえの赦しを望んで来たわけじゃない。だが、どうか……俺を見てほしい」  

その声に、空気が震えた。  
何を言われたのかすぐには理解できなかった。  
見てほしいと願うその人が、まだ王太子の仮面を被っていない。  
ただの男として、失われた何かを探している。  

「私を見て、何になるのです?」  
「おまえが俺を憎んでもいい。ただ、これだけは言いたかった。――逃げたのは、王妃でも誰でもない。俺だ」  

沈黙が落ちた。奥歯が鳴るほど強く噛みしめ、やり場のない熱が胸を渦巻く。  
「身勝手な言い訳は、どうか貴方の中で完結させてください。私はもう、誰かの懺悔のために生きてはいません」  
そう言うと、アーヴィンは小さく笑った。  
「なぜだろうな。おまえがそう言う顔を見ていると、救われるんだ」  
「救いが欲しくて私を呼んだのですか?」  
「……そうかもしれないな」  

その声には悔しさでも怒りでもなく、ただ静かな諦めがあった。  
彼は俯いたまま、指を震わせる。  
「俺は、おまえを幸福にする資格を持っていなかった。しかし、ヴァルディールがそれを果たしたのなら……それでいい」  
私は初めて、その言葉に嘘がないと気づいた。  

長い時の果てに、ようやく彼は人の顔を取り戻した。  
だがその優しさを、私はもう受け取らない。  
「殿下、どうかお体をお大事に」  
その一言を残し、私は背を向けて歩き出した。  

扉に手をかけたとき、彼の声が再び届く。  
「リディア……“氷の令嬢”と呼ばれていたおまえは、本当は氷なんかじゃなかった。……誰よりも、炎みたいに誇り高かった」  
その声に振り返ることはしなかった。  
ただ涙が頬を伝った。  
それは悲しみではなく、ようやく長かった鎖が解けていく音だった。  

部屋を出て廊下を歩くと、遠くにクラリスの姿が見えた。  
彼女が駆け寄ってくる。  
「お嬢様、大丈夫ですか? 顔色が……」  
「ええ、平気よ。少しだけ昔の私と話してきただけ」  
「……殿下は?」  
「自分の罪を理解したようです。それで、もう十分です」  
クラリスが静かに頷いた。  

邸に戻ると、アレンが起き上がっていた。  
包帯の下でも分かるように、その瞳には力が戻っている。  
「行ってきたのですね」  
「ええ。そして、過去と決別してきました」  
「そうですか」  
彼が微笑むと、すべてが報われたような気がした。  
「貴方が生きていてくださって、本当によかった……」  
そう言いながら、気づくと私は泣いていた。  
アレンが手を差し伸べ、その指先で私の頬を拭う。  
「涙は嫌いですか?」  
「いいえ、今は好きです。冷たくも重くもない、私の今を映す涙です」  
「リディア……貴女はもう止まらない。だから、次は私が支える番だ」  
「ええ。私はもう、過去を恐れません」  

窓の外では、朝の光が花々を照らしていた。  
冬の名残の中から芽吹く草の匂いが、部屋を満たしていく。  
私はその香りを感じながら、静かに呟いた。  
「終わりではなく、始まりの朝ですね」  
アレンの掌が、私の肩を優しく包み込んだ。  
「ええ。ようやく、貴方自身の春です」  

外では鳥がさえずり、オルゴールが震えるように短く鳴った。  
その響きの奥に、聞こえた気がした。  
――氷の令嬢はもういない。  
代わりに、自由を知ったひとりの女がいる。  

続く
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