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第29話 幸せの形
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再審からひと月が過ぎた。
王都は静かに、けれど確実に新しい季節を迎えていた。
冬の名残を残す冷たい風の中に、春の花の香りが混じり始めている。
あの日、断罪の過去に終止符が打たれてから、街の人々の呼び方が変わった。
もう誰も「氷の令嬢」とは呼ばない。リディアは「再生の女」として語られ始めた。
それでも、リディアにとって名はただの響きでしかなかった。
その名を支える思い出の一つひとつが、彼女にとっての本当の新しい命だった。
彼女は今、城下の新設孤児院の庭にいた。
白と青の花が咲き乱れる庭で、小さな子どもたちが笑いながら駆け回っている。
薄汚れた手で花を摘む子どもに、リディアはそっとしゃがみ込んで微笑んだ。
「名前を教えてくれる?」
「リーリエ!」
「かわいい名前ね、リーリエ。あなたに似合ってるわ」
「ひひっ、おねえさまみたいにきれいになりたい」
リディアは笑い、頭を撫でた。
その小さな掌の温かさが、指の奥まで染み込む。
孤児院は、かつて王妃の倉庫だった場所を改築して建てられていた。
あの凍った権力の象徴が、今では子どもたちの笑顔に満ちている。
「不思議ね。憎しみで作られた場所が、こうも優しさに包まれるなんて」
小声で呟くと、後ろから聞き慣れた声が返ってきた。
「それが貴女の力ですよ」
振り返ると、アレンが立っていた。
軍装ではなく、部屋着に近い黒の軽装で、穏やかな表情をしている。
もう戦場の影はどこにもない。
「また抜け出してきたんですね、摂政殿」
「君がいないと、仕事がまともに進まないんです」
リディアは呆れたように笑い、手帳を閉じた。
「では、せめてこの庭で仕事をしては? 空気が変わりますよ」
「庭仕事も悪くない。君の声を聞きながらなら、何でもできそうです」
「また軽口を」
「軽くないですよ。本心です」
アレンのそんな口ぶりも、もう照れずに受け止められるようになっていた。
長い戦いと対話の年月が、二人の心を同じ速度で育てていたからだ。
子どもたちが二人に駆け寄る。
「公爵さまー! お姉さまー! 見て見て!」
「おぉ、ずいぶん立派な花冠だ」
「リディアお姉さまにあげるー!」
差し出された小さな花冠を受け取り、リディアは感極まって笑う。
アレンも近くにしゃがみ、花を直しながら言った。
「この冠、似合っていますよ。まるで……春そのものだ」
「それは、お上手すぎます」
「いや、事実です。あの日出会った氷の令嬢は、いまや春の女神ですから」
二人に向けられた子どもたちの笑い声が、風に乗って空へ高く広がっていく。
夕方、孤児院を後にして並んで城へ戻る途中、
アレンがふと歩みを緩めた。
「リディア。もしこの国が完全に安定し、人々が自分の手で未来を掴めるようになったら、君はどうしたい?」
「……どう、でしょう。きっと、貴方を放り出して旅に出るかもしれません」
「なるほど、置いて行かれますか」
「でも、きっと途中で会いに戻ってしまうと思います。
貴方はいないと、風景が半分消えてしまうようですから」
アレンは笑って、彼女の手を取った。
「しばらくは放り出さずにいてください。まだ一緒に見てほしい景色がある」
「どんな景色ですか?」
「君と私の名が、この国の本当の歴史になる未来です」
リディアはその言葉に息を飲んだ。
城に戻るころ、夜が降り始めていた。
執務室には灯りがいくつも点り、書簡の山が彼を待っている。
だがアレンは机に座らず、窓辺に立った。
「リディア、外を見てください」
窓の外には、城下の丘で人々が灯した無数の灯火が広がっていた。
祭りでもない。ただ、誰かが最初に灯した火が、次々と受け継がれ広がったのだと聞く。
希望の証として、この国で初めて民が自ら起こした祈りの灯。
「これが、幸せの形だと思いませんか?」アレンが囁く。
「誰かが笑って、その笑顔を見て心が温かくなる。
名も知らぬ誰かを想い、火を掲げ、共に国を照らす。これが国の力です」
「ええ……この光がある限り、もう国は暗くならない」
リディアの声は穏やかで、心からの安堵が滲んでいた。
アレンが背後から彼女を抱き締めた。
「ありがとう。君と出会って、私はやっと人になれた気がします」
「貴方はずっと人でした。ただ、誰よりも責任を背負っていただけ」
「そうかもしれません。でも、君といるときだけは、何も背負わずにいられる。
それが、私の幸せの形です」
リディアの頬が少し紅に染まる。
「なら、私は?」
「君は……この国そのものです」
「大きすぎます、それでは」
「そう感じる日が、君らしい」
外の灯が風に揺れ、二人の影を壁に重ねた。
時計の音が響く。深夜に近いそのとき、アレンが口を開いた。
「明日の朝、正式に王弟からの勅命が下ります」
「勅命?」
「私と君に授ける新しい称号――“守護の双星”だそうです。
この国の象徴として、未来永劫に記される役目らしい」
「……ずいぶん詩的ですね」
「詩的すぎて、少し照れますが」
「でも、悪くありません。これまでの私たちの生き方が、言葉になった気がします」
二人は少し黙り、夜の静けさに耳を傾けた。
城外から微かに人々の歌声が届く。それは祈りの歌、願いの歌だった。
リディアは、そっとアレンの胸に額を寄せる。
「アレン。私にとっての幸せの形は、特別な王冠でも栄誉でもありません」
「では、どんな形です?」
「貴方とこの声で語る時間。私を名で呼んでくれる声がある――それで十分です」
アレンはゆっくりと微笑み、彼女を強く抱き寄せた。
「それなら、永遠に約束しましょう。
何が変わっても、私はリディアという名前を呼び続ける。君の生きる証として」
外では、新しい風が夜を撫でていた。
氷の季節はとうに去り、国は春よりも穏やかな時間を知りはじめている。
二人はその風の音に耳を澄ませ、胸の奥で同じ鼓動を確かめ合った。
幸せの形は、名を重ねるように静かで、確かだった。
金や王冠よりも強く、美しく、この国の未来を温めていく。
外の灯火が徐々に明るさを増し、黎明が近づいていた。
窓から差し込む最初の朝日の中で、リディアは小さく呟いた。
「この光を見られる限り、私は何度でも生まれ変われます」
アレンが頷き、彼女の頬に触れる。
「そうだ。幸せは形ではなく、選ぶ勇気の数だけあるんだ」
二人は互いを見つめ、小さく笑った。
やがて王国の鐘が新しい一日の始まりを告げる。
長い旅路の果てに、リディアはようやく見つけたのだ。
――自分自身という幸福を。
続く
王都は静かに、けれど確実に新しい季節を迎えていた。
冬の名残を残す冷たい風の中に、春の花の香りが混じり始めている。
あの日、断罪の過去に終止符が打たれてから、街の人々の呼び方が変わった。
もう誰も「氷の令嬢」とは呼ばない。リディアは「再生の女」として語られ始めた。
それでも、リディアにとって名はただの響きでしかなかった。
その名を支える思い出の一つひとつが、彼女にとっての本当の新しい命だった。
彼女は今、城下の新設孤児院の庭にいた。
白と青の花が咲き乱れる庭で、小さな子どもたちが笑いながら駆け回っている。
薄汚れた手で花を摘む子どもに、リディアはそっとしゃがみ込んで微笑んだ。
「名前を教えてくれる?」
「リーリエ!」
「かわいい名前ね、リーリエ。あなたに似合ってるわ」
「ひひっ、おねえさまみたいにきれいになりたい」
リディアは笑い、頭を撫でた。
その小さな掌の温かさが、指の奥まで染み込む。
孤児院は、かつて王妃の倉庫だった場所を改築して建てられていた。
あの凍った権力の象徴が、今では子どもたちの笑顔に満ちている。
「不思議ね。憎しみで作られた場所が、こうも優しさに包まれるなんて」
小声で呟くと、後ろから聞き慣れた声が返ってきた。
「それが貴女の力ですよ」
振り返ると、アレンが立っていた。
軍装ではなく、部屋着に近い黒の軽装で、穏やかな表情をしている。
もう戦場の影はどこにもない。
「また抜け出してきたんですね、摂政殿」
「君がいないと、仕事がまともに進まないんです」
リディアは呆れたように笑い、手帳を閉じた。
「では、せめてこの庭で仕事をしては? 空気が変わりますよ」
「庭仕事も悪くない。君の声を聞きながらなら、何でもできそうです」
「また軽口を」
「軽くないですよ。本心です」
アレンのそんな口ぶりも、もう照れずに受け止められるようになっていた。
長い戦いと対話の年月が、二人の心を同じ速度で育てていたからだ。
子どもたちが二人に駆け寄る。
「公爵さまー! お姉さまー! 見て見て!」
「おぉ、ずいぶん立派な花冠だ」
「リディアお姉さまにあげるー!」
差し出された小さな花冠を受け取り、リディアは感極まって笑う。
アレンも近くにしゃがみ、花を直しながら言った。
「この冠、似合っていますよ。まるで……春そのものだ」
「それは、お上手すぎます」
「いや、事実です。あの日出会った氷の令嬢は、いまや春の女神ですから」
二人に向けられた子どもたちの笑い声が、風に乗って空へ高く広がっていく。
夕方、孤児院を後にして並んで城へ戻る途中、
アレンがふと歩みを緩めた。
「リディア。もしこの国が完全に安定し、人々が自分の手で未来を掴めるようになったら、君はどうしたい?」
「……どう、でしょう。きっと、貴方を放り出して旅に出るかもしれません」
「なるほど、置いて行かれますか」
「でも、きっと途中で会いに戻ってしまうと思います。
貴方はいないと、風景が半分消えてしまうようですから」
アレンは笑って、彼女の手を取った。
「しばらくは放り出さずにいてください。まだ一緒に見てほしい景色がある」
「どんな景色ですか?」
「君と私の名が、この国の本当の歴史になる未来です」
リディアはその言葉に息を飲んだ。
城に戻るころ、夜が降り始めていた。
執務室には灯りがいくつも点り、書簡の山が彼を待っている。
だがアレンは机に座らず、窓辺に立った。
「リディア、外を見てください」
窓の外には、城下の丘で人々が灯した無数の灯火が広がっていた。
祭りでもない。ただ、誰かが最初に灯した火が、次々と受け継がれ広がったのだと聞く。
希望の証として、この国で初めて民が自ら起こした祈りの灯。
「これが、幸せの形だと思いませんか?」アレンが囁く。
「誰かが笑って、その笑顔を見て心が温かくなる。
名も知らぬ誰かを想い、火を掲げ、共に国を照らす。これが国の力です」
「ええ……この光がある限り、もう国は暗くならない」
リディアの声は穏やかで、心からの安堵が滲んでいた。
アレンが背後から彼女を抱き締めた。
「ありがとう。君と出会って、私はやっと人になれた気がします」
「貴方はずっと人でした。ただ、誰よりも責任を背負っていただけ」
「そうかもしれません。でも、君といるときだけは、何も背負わずにいられる。
それが、私の幸せの形です」
リディアの頬が少し紅に染まる。
「なら、私は?」
「君は……この国そのものです」
「大きすぎます、それでは」
「そう感じる日が、君らしい」
外の灯が風に揺れ、二人の影を壁に重ねた。
時計の音が響く。深夜に近いそのとき、アレンが口を開いた。
「明日の朝、正式に王弟からの勅命が下ります」
「勅命?」
「私と君に授ける新しい称号――“守護の双星”だそうです。
この国の象徴として、未来永劫に記される役目らしい」
「……ずいぶん詩的ですね」
「詩的すぎて、少し照れますが」
「でも、悪くありません。これまでの私たちの生き方が、言葉になった気がします」
二人は少し黙り、夜の静けさに耳を傾けた。
城外から微かに人々の歌声が届く。それは祈りの歌、願いの歌だった。
リディアは、そっとアレンの胸に額を寄せる。
「アレン。私にとっての幸せの形は、特別な王冠でも栄誉でもありません」
「では、どんな形です?」
「貴方とこの声で語る時間。私を名で呼んでくれる声がある――それで十分です」
アレンはゆっくりと微笑み、彼女を強く抱き寄せた。
「それなら、永遠に約束しましょう。
何が変わっても、私はリディアという名前を呼び続ける。君の生きる証として」
外では、新しい風が夜を撫でていた。
氷の季節はとうに去り、国は春よりも穏やかな時間を知りはじめている。
二人はその風の音に耳を澄ませ、胸の奥で同じ鼓動を確かめ合った。
幸せの形は、名を重ねるように静かで、確かだった。
金や王冠よりも強く、美しく、この国の未来を温めていく。
外の灯火が徐々に明るさを増し、黎明が近づいていた。
窓から差し込む最初の朝日の中で、リディアは小さく呟いた。
「この光を見られる限り、私は何度でも生まれ変われます」
アレンが頷き、彼女の頬に触れる。
「そうだ。幸せは形ではなく、選ぶ勇気の数だけあるんだ」
二人は互いを見つめ、小さく笑った。
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