氷の令嬢は断罪を笑う 〜婚約破棄した元婚約者が泣いて縋ってももう遅い、私は本物の愛を知ったから〜

sika

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第30話 氷の花が咲くとき(完)

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その年の春は、例年にないほど穏やかで、美しかった。  
王都の空には一面の青が広がり、風は柔らかく頬を撫でる。  
街のあちこちから笑い声が立ち上り、灯のひとつひとつが生きた心のように輝いていた。  

リディア=ヴァルディールは城の北庭を歩いていた。  
新しく作られた庭園には、彼女が昔こよなく愛した「氷花」が植えられている。  
透明な花弁を持ち、太陽の光を受けると青白い光を放つ希少な花――  
王族の婚礼でも使われるほど高貴な花だが、彼女にとっては「過去を映す鏡」でしかなかった。  

一度は心が凍り、その氷を溶かして歩いた日々。  
そのすべてをこの花に託して、彼女はようやくこの地に植えた。  

「リディア」  
声が背後から届く。  
振り返れば、薄銀の外套を翻して歩いてくるアレンの姿があった。  
陽を受けた銀髪が風に舞い、無意識のうちにリディアの胸を震わせる。  

「陛下が新しい政令を発しました。すべての身分を越えて、教育を受ける権利が与えられるそうです」  
「……やっぱり、時代は変わっていくのですね」  
「ええ。貴女の起こした風が、この国の形を変えた」  
リディアは小さく首を振った。  
「私ではありません。貴方と、人々が変わったのです」  
「貴女の信念がなければ、誰もここまで届かなかった」  
アレンが穏やかに微笑んだ。その笑顔には、かつての公爵家の威厳ではなく、一人の人としての温もりが宿っている。  

「いつの間にか、季節の移り変わりを感じる余裕ができました」  
リディアは言った。  
「昔は怖かったのです。移ろうものを見つめることが。  
何かを愛すれば、それが失われるのが怖くて。だから、凍っていた方が楽だった」  
「それでも、貴女は溶けることを選んだ」  
「そう。怖くても、もう一度咲きたかったのです」  

アレンは花壇の氷花の前に膝をつき、一輪を手に取る。  
「この花の名を“冷たさ”の象徴だと思っていた。でも違う。これは過酷な冬を越えて咲く、強さの証ですね」  
「ええ。暑さにも寒さにも負けない。それがこの花の本当の意味です」  
リディアは指先で花弁をなぞりながら静かに笑った。  
「いつの日か、私たちみたいに、この花も人の涙を知るのでしょうね」  

沈黙が落ちる。  
だがそれは哀しみではなく、心が満ちる静けさだった。  

「……アレン。貴方は覚えていますか? 最初の夜会で、殿下によって婚約破棄を告げられた時の私を」  
「忘れるはずがありません」  
「私、あの時、本当に何も感じませんでした。怒りも悲しみも。  
ただ“終わりが来た”というだけ。でも今になって思うのです。あれは始まりだったと」  
リディアは微笑みながら天を仰いだ。  
「誰かを憎み、誰かを赦し、自分を愛することを知るための始まり――人生は、終わりから始まるんですね」  
「君といると、全ての意味が繋がっていく気がします」  

彼は優しく手を差し出した。  
その掌に迷わずリディアが手を重ねる。  
温かさが伝わり、鼓動が重なる。  
「リディア。私はこれまで、たくさんの使命を背負い、正義を言葉にしてきた。  
でも、正義に疲れたとき、君の声がすべてを取り戻してくれる」  
「私の……声?」  
「ええ。氷のように静かで、春のように優しい声です。  
どんな夜でも、それを聞くと明日が来ると信じられた。  
たとえ何を失っても、君がいる限り、私は帰る場所を間違えない」  

リディアの頬に涙がこぼれる。  
彼女は唇を震わせて微笑み、そっと答えた。  
「では、これからは私の声で導きます。貴方の心が迷わぬように」  
「そのときは、君の名を何度でも呼びます」  

やがて、二人はゆっくりと歩き出した。  
風が吹いて、氷花がざわめく。  
青い光が揺れて二人の影を包み、庭一面に溶け出した。  

その夜、城の塔から見える王都は、かつて見たどの光景よりも静かで、美しかった。  
街の灯は星のように瞬き、風に揺れる花の香が広がっていく。  
リディアは塔の上に立ち、遠くを見つめた。  

「アレン。私、この国が好きです」  
「僕も同じです」  
「こんなに苦しかったのに、憎みきれない。  
泣きながらでも、人を信じたいと思える。それがきっと、この国の優しさなんですね」  
「そう思えるのは、君が歩んできた道があるからです」  

二人は並び立ち、夜空を見上げた。  
無数の星が煌めくその中に、氷花と同じ淡い青の光がひとつ瞬いていた。  

アレンが静かに口を開く。  
「リディア、これから何があっても、すべてを分かち合って生きよう」  
「ええ、約束します」  
「涙も、喜びも、恐れも、君と共に」  
リディアは頷き、微笑んだ。  
「これが、私たちの絆の形ですね」  

風が二人の髪を揺らした。  
その瞬間、庭の氷花たちが一斉に光を放った。  
まるで夜空の星と呼応するように、青白い輝きがあたり一面を包み込む。  
その幻想的な光景に、アレンが目を細める。  
「まるで祝福のようだ」  
「ええ。きっと、この国のすべての命が、私たちに微笑んでくれている」  

リディアは手を伸ばし、彼の頬にそっと触れた。  
指先から伝わる温度が、胸の奥の氷を完全に溶かしていく。  

「ありがとう、アレン。貴方がいたから、私は“私”として生きてこれた」  
「僕こそありがとう。君がいたから、未来を信じられた」  
そして二人は再び唇を重ねた。  

どこか遠くで鐘の音が響く。  
王都の夜に、新しい時代を告げる音。  
そしてそれは、氷の令嬢が真の春を迎えた証だった。  

リディアの頬に、一粒の涙が流れる。  
けれどそれは悲しみではなく、幸福の滴。  
夜空を見上げると、氷花の花弁のような雪が舞い降りていた。  

「奇跡ですね」  
「ええ。氷が、春に変わる瞬間……」  
二人は見つめ合い、静かに微笑んだ。  

――こうして、氷の令嬢と呼ばれた少女は、愛と誇りを携えて新たな時代へと歩き出した。  
もう誰の陰にも怯えることなく、誰よりも強く優しく。  
その歩みの先に咲く氷の花が、永遠に人々の心を照らし続けることを信じて。  

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