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第10話 再会の社交界
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南部調査の旅から戻ったのは、季節がひとつ巡った頃だった。
あの地で見たのは、豊かな土地の裏に潜む貧困と、静かに不満を募らせる民の姿。
私は報告書の一行一行に彼らの声を書き込み、アルヴェンと共に夜を徹して文を整えた。
彼はいつも冷静に言葉を添え、対立する意見をまとめ上げる。
討論のたびに彼の理性と情の均衡に驚かされた。
王都に戻る馬車の中で、私は窓外に広がる街の灯りを見つめていた。
彼は書類を膝に置いたまま、いつになく静かな表情でこちらを見ていた。
「リリアナ嬢」
「はい?」
「戻ったら、また社交界に顔を出してください」
「社交界……この国の?」
「ええ。あなたの名前はもう王都の誰もが知っています。
ヴェルディアの改革を導いた“宰相補佐官の影”として。ですが彼らは未だにあなたを正しく知らない。社交界で、力ある者たちにあなた自身を見せつけることです」
「つまり、政治よりも“見せる外交”ですね」
「そう。あなたは理だけではなく、象徴でもある。……そして、かつてあなたを見下した者たちへの、最も優雅な“ざまぁ”でもある」
皮肉めいた笑みが、彼の口元に浮かんだ。
その顔を見た瞬間、思わず笑ってしまった。
「アルヴェン様までそんな言葉を使うなんて」
「人はあなたに触れると、言葉が生身のものになるのです」
彼の目に映るのは尊敬か、それとも別の熱か――。
私にはまだ判断がつかない。
◆
そして今夜。
城下の中央に位置する大貴族の館では、ヴェルディア最大の夜会が開かれている。
調査報告の成功を祝う名目だが、実のところは勢力争いの舞台。
中央派、旧貴族派、商業同盟、そして外国使節までが顔を揃えていた。
「お嬢様、今日のお召し物は完璧です」
セリーヌが満足そうに頷いた。
着ているのは、宰相府から提供された深い群青色のドレス。
静謐で、しかし袖口には銀の刺繍が光る。
王の色――理の象徴。
「……こういう場に立つと、昔を思い出すわ」
「お嬢様が王太子殿下の婚約者でいらした頃ですか?」
「ええ。でも、もう同じ私じゃない」
鏡の向こうの自分が微かに笑う。
あの頃の私は、誰かの後ろで光を借りるだけの存在だった。
今は、自分が光を作る番だ。
アルヴェンが現れたのは出発の直前だった。
黒の礼装に銀のタイ、胸には宰相府の徽章。
その姿に、部屋の空気が自然と引き締まる。
「お迎えにあがりました、リリアナ嬢」
「ずいぶんと形式ばっていますね」
「今夜は正式な外交の顔ですから」
そう言いながらも、彼は私を見たまま動かない。
視線が言葉以上に雄弁だった。
「似合っています。……誰よりもこの国にふさわしい」
「お褒めにあずかり光栄です」
「ただし、ひとつだけ申し上げたい」
「何でしょう」
「社交界というのは、笑顔の裏で牙を磨く場所です。
今夜あなたが微笑めば、王都中の貴族がその笑顔の意味を推測し、恐れ、あるいは恋に落ちる。覚悟はありますか?」
「ええ。……誰がどう見るか、すべて利用するつもりです」
彼の目が笑い、その横顔が月光に照らされた。
◆
夜会場は金の光と音に満ちていた。
巨大なシャンデリアが天井から流れ落ちるように光を放ち、無数の仮面と衣が乱舞している。
中央の階段に私とアルヴェンが姿を現すと、一瞬その喧騒が止まる。
視線が釘のように突き刺さったが、恐れはなかった。
「ご覧、お嬢様。王都の猛禽たちが一斉に旋回しています」
「見事な狩場ですね」
壇上には宰相レオニードが立ち、私たちを紹介した。
「――ヴェルディア改革顧問、リリアナ・フォン・エルディン嬢。
彼女は我が国の知略と誇りの象徴であり、今宵その功績を称える」
その声が響き渡ると、どよめきと拍手が広がった。
だが、称賛の中には羨望と嫉妬、そして探るような警戒も混ざっていた。
人々の中を歩くと、次々と声がかかる。
「まさか女性が宰相府補佐とは」「彼女が例の異国の令嬢だ」
言葉の端に褒め言葉と毒が混ざっていた。
だが、私はすべて笑顔で受け流した。
やがて、一人の青年が近づいてくる。
ルクレイス王子――アレクシス。
蒼の軍服に白の手袋、完璧な微笑。
「今度こそゆっくり話せるかな、リリアナ・エルディン嬢」
「王子殿下こそ。その節はどうも。ヴェルディアは快適ですか?」
「快適すぎて、帰りたくなくなるほどだよ」
「それはお困りでしょう。外交使節が国に帰らぬなど聞いたことがありません」
軽い会話の裏で、互いの探り合いが始まっていた。
「君の改革案、実に興味深い。ルクレイスにも取り入れたいが、どうだろう――少し助言をしてもらえないか?」
「私一人の意見で国を動かすことはできません。宰相府と相談を」
「もちろん相談はする。ただ、君のような“柔軟な考え”が要る」
その時、脇から低い声が差し込んだ。
「ヴェルディアの顧問を口説くのは、外交儀礼に反します」
アルヴェンだった。
「いや、口説いてはいない。ただ理論を――」
「言葉に熱がありすぎる」
「……おや、貴方も彼女に特別な感情を抱いているのか?」
「感情ではなく敬意です」
きっぱりとしたその声に、周囲の空気が一瞬凍った。
アレクシスは苦笑し、ワインを揺らした。
「敬意……それは便利な言葉だ。愛を隠すためにも使える」
「貴方が愛という言葉を軽々しく使わなければ、世界はもう少し平和でしょうね」
「痛烈だな、アルヴェン卿」
「学んでおくべきです。理の国では、冗談も慎重に扱われます」
二人の間に走る緊張を察し、私はあえて話題を変えた。
「殿下、貴方の祖国も地方制度で問題を抱えているとか。後日報告書をお送りいたしますわ」
「ああ、楽しみにしているよ」
そう言い残して、彼は笑みを浮かべたまま人の群れに紛れていった。
だがその背中からは、ただの遊戯ではない温度を感じた。
静かな溜息をつくと、隣のアルヴェンが声を落として囁いた。
「……すまない、つい熱くなった」
「いいえ。あの王子の視線、正直うっとうしかったから助かりましたわ」
「あなたの笑顔は人を惑わせる。……時々、私でも危うくなる」
「今のは冗談ですか?」
「出来るなら、そういうことにしておきましょう」
舞曲が再び流れ始めた。
アルヴェンが私に手を差し出す。
「踊りますか、リリアナ嬢」
「ええ。ただし今回は、理性を忘れない範囲で」
「それは私の得意分野です」
二人の足が床を滑り、音楽が夜を満たす。
視線が絡み合い、息遣いがすれ違う。
人々の前で交わす一つ一つの動作が、いつしか言葉よりも強い誓いのように感じられた。
回転の合間、一瞬だけ彼が耳元で囁く。
「あなたがこの国を動かす時、誰も止められない。……私が唯一の例外でいたい」
心臓が跳ねた。けれど、その言葉に答えを返すより早く、音楽が止まった。
拍手の嵐が鳴り響く。
人々はただ“美しき舞”を称えていた。
だがその笑い声の奥、天井の陰から、例の黒衣の影がこちらを見ていた。
再び、あの気配――。
何かが確実に動き始めている。
これがただの祝宴では終わらないと、直感が告げていた。
続く
あの地で見たのは、豊かな土地の裏に潜む貧困と、静かに不満を募らせる民の姿。
私は報告書の一行一行に彼らの声を書き込み、アルヴェンと共に夜を徹して文を整えた。
彼はいつも冷静に言葉を添え、対立する意見をまとめ上げる。
討論のたびに彼の理性と情の均衡に驚かされた。
王都に戻る馬車の中で、私は窓外に広がる街の灯りを見つめていた。
彼は書類を膝に置いたまま、いつになく静かな表情でこちらを見ていた。
「リリアナ嬢」
「はい?」
「戻ったら、また社交界に顔を出してください」
「社交界……この国の?」
「ええ。あなたの名前はもう王都の誰もが知っています。
ヴェルディアの改革を導いた“宰相補佐官の影”として。ですが彼らは未だにあなたを正しく知らない。社交界で、力ある者たちにあなた自身を見せつけることです」
「つまり、政治よりも“見せる外交”ですね」
「そう。あなたは理だけではなく、象徴でもある。……そして、かつてあなたを見下した者たちへの、最も優雅な“ざまぁ”でもある」
皮肉めいた笑みが、彼の口元に浮かんだ。
その顔を見た瞬間、思わず笑ってしまった。
「アルヴェン様までそんな言葉を使うなんて」
「人はあなたに触れると、言葉が生身のものになるのです」
彼の目に映るのは尊敬か、それとも別の熱か――。
私にはまだ判断がつかない。
◆
そして今夜。
城下の中央に位置する大貴族の館では、ヴェルディア最大の夜会が開かれている。
調査報告の成功を祝う名目だが、実のところは勢力争いの舞台。
中央派、旧貴族派、商業同盟、そして外国使節までが顔を揃えていた。
「お嬢様、今日のお召し物は完璧です」
セリーヌが満足そうに頷いた。
着ているのは、宰相府から提供された深い群青色のドレス。
静謐で、しかし袖口には銀の刺繍が光る。
王の色――理の象徴。
「……こういう場に立つと、昔を思い出すわ」
「お嬢様が王太子殿下の婚約者でいらした頃ですか?」
「ええ。でも、もう同じ私じゃない」
鏡の向こうの自分が微かに笑う。
あの頃の私は、誰かの後ろで光を借りるだけの存在だった。
今は、自分が光を作る番だ。
アルヴェンが現れたのは出発の直前だった。
黒の礼装に銀のタイ、胸には宰相府の徽章。
その姿に、部屋の空気が自然と引き締まる。
「お迎えにあがりました、リリアナ嬢」
「ずいぶんと形式ばっていますね」
「今夜は正式な外交の顔ですから」
そう言いながらも、彼は私を見たまま動かない。
視線が言葉以上に雄弁だった。
「似合っています。……誰よりもこの国にふさわしい」
「お褒めにあずかり光栄です」
「ただし、ひとつだけ申し上げたい」
「何でしょう」
「社交界というのは、笑顔の裏で牙を磨く場所です。
今夜あなたが微笑めば、王都中の貴族がその笑顔の意味を推測し、恐れ、あるいは恋に落ちる。覚悟はありますか?」
「ええ。……誰がどう見るか、すべて利用するつもりです」
彼の目が笑い、その横顔が月光に照らされた。
◆
夜会場は金の光と音に満ちていた。
巨大なシャンデリアが天井から流れ落ちるように光を放ち、無数の仮面と衣が乱舞している。
中央の階段に私とアルヴェンが姿を現すと、一瞬その喧騒が止まる。
視線が釘のように突き刺さったが、恐れはなかった。
「ご覧、お嬢様。王都の猛禽たちが一斉に旋回しています」
「見事な狩場ですね」
壇上には宰相レオニードが立ち、私たちを紹介した。
「――ヴェルディア改革顧問、リリアナ・フォン・エルディン嬢。
彼女は我が国の知略と誇りの象徴であり、今宵その功績を称える」
その声が響き渡ると、どよめきと拍手が広がった。
だが、称賛の中には羨望と嫉妬、そして探るような警戒も混ざっていた。
人々の中を歩くと、次々と声がかかる。
「まさか女性が宰相府補佐とは」「彼女が例の異国の令嬢だ」
言葉の端に褒め言葉と毒が混ざっていた。
だが、私はすべて笑顔で受け流した。
やがて、一人の青年が近づいてくる。
ルクレイス王子――アレクシス。
蒼の軍服に白の手袋、完璧な微笑。
「今度こそゆっくり話せるかな、リリアナ・エルディン嬢」
「王子殿下こそ。その節はどうも。ヴェルディアは快適ですか?」
「快適すぎて、帰りたくなくなるほどだよ」
「それはお困りでしょう。外交使節が国に帰らぬなど聞いたことがありません」
軽い会話の裏で、互いの探り合いが始まっていた。
「君の改革案、実に興味深い。ルクレイスにも取り入れたいが、どうだろう――少し助言をしてもらえないか?」
「私一人の意見で国を動かすことはできません。宰相府と相談を」
「もちろん相談はする。ただ、君のような“柔軟な考え”が要る」
その時、脇から低い声が差し込んだ。
「ヴェルディアの顧問を口説くのは、外交儀礼に反します」
アルヴェンだった。
「いや、口説いてはいない。ただ理論を――」
「言葉に熱がありすぎる」
「……おや、貴方も彼女に特別な感情を抱いているのか?」
「感情ではなく敬意です」
きっぱりとしたその声に、周囲の空気が一瞬凍った。
アレクシスは苦笑し、ワインを揺らした。
「敬意……それは便利な言葉だ。愛を隠すためにも使える」
「貴方が愛という言葉を軽々しく使わなければ、世界はもう少し平和でしょうね」
「痛烈だな、アルヴェン卿」
「学んでおくべきです。理の国では、冗談も慎重に扱われます」
二人の間に走る緊張を察し、私はあえて話題を変えた。
「殿下、貴方の祖国も地方制度で問題を抱えているとか。後日報告書をお送りいたしますわ」
「ああ、楽しみにしているよ」
そう言い残して、彼は笑みを浮かべたまま人の群れに紛れていった。
だがその背中からは、ただの遊戯ではない温度を感じた。
静かな溜息をつくと、隣のアルヴェンが声を落として囁いた。
「……すまない、つい熱くなった」
「いいえ。あの王子の視線、正直うっとうしかったから助かりましたわ」
「あなたの笑顔は人を惑わせる。……時々、私でも危うくなる」
「今のは冗談ですか?」
「出来るなら、そういうことにしておきましょう」
舞曲が再び流れ始めた。
アルヴェンが私に手を差し出す。
「踊りますか、リリアナ嬢」
「ええ。ただし今回は、理性を忘れない範囲で」
「それは私の得意分野です」
二人の足が床を滑り、音楽が夜を満たす。
視線が絡み合い、息遣いがすれ違う。
人々の前で交わす一つ一つの動作が、いつしか言葉よりも強い誓いのように感じられた。
回転の合間、一瞬だけ彼が耳元で囁く。
「あなたがこの国を動かす時、誰も止められない。……私が唯一の例外でいたい」
心臓が跳ねた。けれど、その言葉に答えを返すより早く、音楽が止まった。
拍手の嵐が鳴り響く。
人々はただ“美しき舞”を称えていた。
だがその笑い声の奥、天井の陰から、例の黒衣の影がこちらを見ていた。
再び、あの気配――。
何かが確実に動き始めている。
これがただの祝宴では終わらないと、直感が告げていた。
続く
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