お金がありすぎて困っておりますの(悪役令嬢ver.) ~悪役令嬢は噂も相場も支配しますわ~

ふわふわ

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16話|有能な臆病者の設計図

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16話|有能な臆病者の設計図

 ルーマー・グレイシスは、最初から夢を見ていなかった。

 愛だの、信頼だの、対等な伴侶だの。
 そういったものを、彼女は若い頃にきれいさっぱり切り捨てている。

 彼女が描いていたのは、もっと現実的で、もっと冷静な未来――
 自分が公爵夫人となり、無能な夫を安全に操る人生だった。

「完璧でしたのに……」

 私室の机に広げた書簡を見下ろし、ルーマーは小さく息を吐く。

 プロフィット・アンドロス。
 次期公爵という地位。
 派手な肩書き。
 そして、本人は驚くほど軽い。

 彼女にとって、理想的だった。

 考える力は弱い。
 判断は遅い。
 だが、外聞と血筋だけは一流。

「操るには、ちょうど良い方でしたわ」

 ルーマーは、かつて描いた未来を思い返す。

 公爵家に嫁ぐ。
 表では夫を立て、裏では帳簿と情報を握る。
 重要な決断は「ご進言」という形で差し出す。
 失敗すれば「殿下のお優しさが裏目に出ましたのね」と微笑み、
 成功すれば「さすがは公爵様」と称える。

 そうすればいい。

 彼が無能であることは、欠点ではない。
 無能であるからこそ、価値があった。

 ――そう、思っていた。

 だが。

「……想定を下回りましたわね」

 ルーマーは、静かに書簡を置いた。

 彼は、危機を察知しない。
 助言を聞かない。
 数字を見ない。

 それどころか――
 自分が危機にあることすら、理解していない。

 小麦の買い占め。
 外国産流入の兆し。
 相場の崩壊。

 本来なら、ここで彼女が動くはずだった。
 耳打ちし、引き金を引き、損失を最小限に抑える。

 だが。

「……もう、間に合いません」

 小麦の所有権は、すでに移っている。
 書面上、完全に、不可逆的に。

 シグネア・ヴァレンティス侯爵のものだ。

 ここで、ルーマーははっきりと理解した。

 自分が思い描いていた未来――
 「無能な公爵を操る公爵夫人」という設計図は、
 成立する前提条件を、すでに失っている。

「操るには……最低限の理解力が必要ですもの」

 危機を危機と認識できない者は、操れない。
 糸を引く前に、崖から落ちてしまう。

 それでは、公爵夫人の椅子は――
 砂上の城だ。

 しかも、その崩壊の引き金を引いたのが、
 あの侯爵だという事実。

「シグネア・ヴァレンティス侯爵様……」

 ルーマーは、わずかに口元を歪めた。

 危機を察知する能力。
 動くべき時と、動かない時の判断。
 そして、他人を救わない冷酷さ。

「……彼女の方が、はるかに優秀」

 だが。

「それでも……最初から、近づかないのが正解でしたわね」

 彼女は、自嘲する。

 プロフィットの無能さまでは、見抜けなかった。
 危機を察する力がない、という致命的な欠陥を。

 ここに至って、ようやく結論が出た。

 この男に、将来はない。
 そして――
 この男と共に沈む理由も、ない。

「公爵夫人になる未来は……破棄ですわ」

 静かに、しかし迷いなく。

 ルーマーは立ち上がり、荷をまとめ始めた。
 国内に残すのは、噂だけ。

 責任は取らない。
 取る価値がないから。

「次期公爵様」

 その言葉に、もう敬意はなかった。

「あなたは、操る価値すらありませんでした」

 その夜、ルーマー・グレイシスは国外へ向かう準備を始めた。

 彼女は臆病だ。
 だが――
 生き残るために、未来を切り捨てられる程度には有能だった。

 そして。

 プロフィット・アンドロスに現実を突きつける役目は、
 最初から決まっている。

 ――シグネア・ヴァレンティス侯爵。

 ルーマーは、その場に立ち会わない。

 それはもう、
 自分の物語ではないのだから。
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