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19話|助けを求める資格
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19話|助けを求める資格
王都の空は、やけに高く澄んでいた。
季節の変わり目に特有の、どこか薄情な青だ。
シグネア・ヴァレンティス侯爵は、その空を背にして、執務室の窓辺に立っていた。
窓の外に広がるのは、整えられた街路と、秩序正しく行き交う人々。数年前まで、ここには無秩序な建物がひしめき、悪臭と混乱が渦巻いていたことを、今では誰もが忘れかけている。
「……静かですわね」
呟くと、背後で控えていたテイクアが小さく頷いた。
「ええ。市場も落ち着いております。王都では、小麦の話題もほとんど聞かれなくなりました」
「そう。なら、そろそろですわね」
シグネアは窓から離れ、応接用のソファへと腰を下ろした。
その所作はいつもと変わらず優雅だが、どこか“待っている”気配があった。
ほどなくして、執務室の扉がノックされる。
「……入りなさい」
扉が開き、現れたのはプロフィットだった。
かつては背筋を伸ばし、得意げに歩いていた男は、今はまるで別人のようだった。
服装こそ高級なままだが、肩は落ち、視線は定まらず、足取りには迷いがある。
「……シグネア」
名を呼ぶ声は低く、掠れていた。
「お久しぶりですわ。プロフィット様」
シグネアは微笑んだ。
だが、それは社交辞令のそれであって、感情の欠片も乗っていない。
「今日は、どういったご用件で?」
問いは丁寧だった。
しかし、その丁寧さが、かえって男を追い詰める。
プロフィットは数秒、言葉を探すように沈黙し、やがて意を決したように一歩前へ出た。
「……助けてほしい」
その瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。
テイクアが視線を伏せ、シグネアはゆっくりと瞬きを一つする。
「助ける、とは?」
問い返しは、静かだった。
「その……色々と、うまくいかなくなっている。周囲が、私を……」
「周囲が、何ですの?」
「……信用しなくなっている」
搾り出すような声だった。
シグネアは、肘掛けに腕を置き、頬杖をつく。
「それは、お困りですわね」
口調は柔らかい。
だが、同情はない。
「ですが、プロフィット様。助けてほしい、という言葉の前に――確認させてくださいませ」
視線が、真っ直ぐに男を射抜く。
「貴方は、今、何に困っていらっしゃるのかしら?」
プロフィットは、言葉に詰まった。
「それは……その……」
小麦のことだ、と言いかけて、口を噤む。
市場がどうなっているのか、在庫がどうなっているのか、実のところ、彼自身も正確には把握できていない。
いや、把握しようとしなかった。
シグネアは、その沈黙を待った。
急かさない。
助け舟も出さない。
しばらくして、プロフィットは視線を落としたまま、呟くように言った。
「……立場が、危うい」
「立場?」
「私は……次期公爵だ。そういう扱いを、されるはずだった」
「“はず”ですのね」
その一言が、刃のように刺さる。
「爵位とは、肩書ではありませんわ。責任と結果の集合体です」
シグネアは淡々と続けた。
「貴方は、そのどちらを差し出せますの?」
答えは返らなかった。
沈黙が、否定そのものだった。
「……なるほど」
シグネアは小さく頷いた。
「つまり、貴方は“何かがうまくいっていない”と感じているだけで、何をどうしたいのか、何をどう助けてほしいのか、整理できていないのですわね」
「……」
「それでは、助けることはできません」
はっきりと告げられ、プロフィットの肩が震えた。
「私は、慈善事業家ではありません。感情に訴えられても、動く義務はありませんの」
そして、決定的な一言を放つ。
「そもそも――貴方は、助けを求める資格があるのでしょうか?」
プロフィットは、はっと顔を上げた。
「資格……?」
「ええ」
シグネアは微笑んだまま、言葉を重ねる。
「責任を負った者が、結果を示したうえで求めるのが“助け”ですわ。
責任から逃げ、状況を把握せず、判断を先送りし続けた者が口にするのは――」
少し間を置いて、告げる。
「それは“泣き言”です」
室内に、重い沈黙が落ちた。
プロフィットは、何か言い返そうと口を開き、しかし、何も出てこなかった。
その様子を見て、シグネアはようやく立ち上がる。
「今日は、ここまでですわ」
「……それだけ、か?」
「ええ。それだけ」
すれ違いざま、シグネアは足を止め、振り返らずに言った。
「助けてほしいのでしたら、次に来るときは“具体的に”なさいませ。
何を失い、何を守りたいのか――それくらい、言語化できるようになってから」
そして、静かに付け加える。
「もっとも、その頃には……助けを必要とする立場では、なくなっているかもしれませんけれど」
プロフィットは、何も言えなかった。
ただ一人、取り残される。
助けを求めたはずの場所で、自分にはその資格すらないと突きつけられたまま。
シグネアは執務室を出ながら、テイクアに小声で言った。
「これで、第一段階ですわね」
「……ええ。自分が何も分かっていないと、ようやく理解し始めたかと」
「理解した“気”になっただけかもしれませんわ」
そう言って、シグネアは軽く笑った。
「ですが、それで十分です。理解できない者に、次はありませんもの」
空は相変わらず、冷たく澄んでいた。
王都の空は、やけに高く澄んでいた。
季節の変わり目に特有の、どこか薄情な青だ。
シグネア・ヴァレンティス侯爵は、その空を背にして、執務室の窓辺に立っていた。
窓の外に広がるのは、整えられた街路と、秩序正しく行き交う人々。数年前まで、ここには無秩序な建物がひしめき、悪臭と混乱が渦巻いていたことを、今では誰もが忘れかけている。
「……静かですわね」
呟くと、背後で控えていたテイクアが小さく頷いた。
「ええ。市場も落ち着いております。王都では、小麦の話題もほとんど聞かれなくなりました」
「そう。なら、そろそろですわね」
シグネアは窓から離れ、応接用のソファへと腰を下ろした。
その所作はいつもと変わらず優雅だが、どこか“待っている”気配があった。
ほどなくして、執務室の扉がノックされる。
「……入りなさい」
扉が開き、現れたのはプロフィットだった。
かつては背筋を伸ばし、得意げに歩いていた男は、今はまるで別人のようだった。
服装こそ高級なままだが、肩は落ち、視線は定まらず、足取りには迷いがある。
「……シグネア」
名を呼ぶ声は低く、掠れていた。
「お久しぶりですわ。プロフィット様」
シグネアは微笑んだ。
だが、それは社交辞令のそれであって、感情の欠片も乗っていない。
「今日は、どういったご用件で?」
問いは丁寧だった。
しかし、その丁寧さが、かえって男を追い詰める。
プロフィットは数秒、言葉を探すように沈黙し、やがて意を決したように一歩前へ出た。
「……助けてほしい」
その瞬間、部屋の空気が僅かに変わった。
テイクアが視線を伏せ、シグネアはゆっくりと瞬きを一つする。
「助ける、とは?」
問い返しは、静かだった。
「その……色々と、うまくいかなくなっている。周囲が、私を……」
「周囲が、何ですの?」
「……信用しなくなっている」
搾り出すような声だった。
シグネアは、肘掛けに腕を置き、頬杖をつく。
「それは、お困りですわね」
口調は柔らかい。
だが、同情はない。
「ですが、プロフィット様。助けてほしい、という言葉の前に――確認させてくださいませ」
視線が、真っ直ぐに男を射抜く。
「貴方は、今、何に困っていらっしゃるのかしら?」
プロフィットは、言葉に詰まった。
「それは……その……」
小麦のことだ、と言いかけて、口を噤む。
市場がどうなっているのか、在庫がどうなっているのか、実のところ、彼自身も正確には把握できていない。
いや、把握しようとしなかった。
シグネアは、その沈黙を待った。
急かさない。
助け舟も出さない。
しばらくして、プロフィットは視線を落としたまま、呟くように言った。
「……立場が、危うい」
「立場?」
「私は……次期公爵だ。そういう扱いを、されるはずだった」
「“はず”ですのね」
その一言が、刃のように刺さる。
「爵位とは、肩書ではありませんわ。責任と結果の集合体です」
シグネアは淡々と続けた。
「貴方は、そのどちらを差し出せますの?」
答えは返らなかった。
沈黙が、否定そのものだった。
「……なるほど」
シグネアは小さく頷いた。
「つまり、貴方は“何かがうまくいっていない”と感じているだけで、何をどうしたいのか、何をどう助けてほしいのか、整理できていないのですわね」
「……」
「それでは、助けることはできません」
はっきりと告げられ、プロフィットの肩が震えた。
「私は、慈善事業家ではありません。感情に訴えられても、動く義務はありませんの」
そして、決定的な一言を放つ。
「そもそも――貴方は、助けを求める資格があるのでしょうか?」
プロフィットは、はっと顔を上げた。
「資格……?」
「ええ」
シグネアは微笑んだまま、言葉を重ねる。
「責任を負った者が、結果を示したうえで求めるのが“助け”ですわ。
責任から逃げ、状況を把握せず、判断を先送りし続けた者が口にするのは――」
少し間を置いて、告げる。
「それは“泣き言”です」
室内に、重い沈黙が落ちた。
プロフィットは、何か言い返そうと口を開き、しかし、何も出てこなかった。
その様子を見て、シグネアはようやく立ち上がる。
「今日は、ここまでですわ」
「……それだけ、か?」
「ええ。それだけ」
すれ違いざま、シグネアは足を止め、振り返らずに言った。
「助けてほしいのでしたら、次に来るときは“具体的に”なさいませ。
何を失い、何を守りたいのか――それくらい、言語化できるようになってから」
そして、静かに付け加える。
「もっとも、その頃には……助けを必要とする立場では、なくなっているかもしれませんけれど」
プロフィットは、何も言えなかった。
ただ一人、取り残される。
助けを求めたはずの場所で、自分にはその資格すらないと突きつけられたまま。
シグネアは執務室を出ながら、テイクアに小声で言った。
「これで、第一段階ですわね」
「……ええ。自分が何も分かっていないと、ようやく理解し始めたかと」
「理解した“気”になっただけかもしれませんわ」
そう言って、シグネアは軽く笑った。
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