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1話 お役目終了ですわ。
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1話 お役目終了ですわ。
その日、王宮の大広間には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
壁に飾られた王家の紋章はいつもと変わらないはずなのに、どこかよそよそしく見える。集められた貴族たちは、互いに視線を交わしながらも、誰一人として大きな声を出そうとはしなかった。
エレノア・フォン・ヴァイスは、壁際に静かに立っていた。
公爵家の令嬢であり、王太子アルベルトの婚約者――それが、今朝までの彼女の立場だ。
しかし、今日この場に呼ばれた理由を、彼女はすでに理解している。
(ついに、この日が来たのね)
不思議と、胸は静かだった。
怒りも、悲しみも、焦りもない。ただ、長く続いていた役目が終わる予感だけが、淡く胸に広がっている。
エレノアは、これまで王宮で目立つ存在ではなかった。
華やかな舞踏会で注目を集めることもなければ、愛想の良い笑顔で貴族たちに囲まれることもない。けれどその代わりに、彼女は常に「裏側」にいた。
財政報告書の数字の整合性を確認すること。
貴族間の利害が衝突する前に、それとなく調整役を務めること。
外交文書の文言を何度も精査し、たった一語の違いが問題を生まないよう修正すること。
それらはすべて、誰かがやらなければならない仕事だった。
だが、その誰かがエレノアであることを、王宮の人間は「当たり前」だと思っていた。
「――静粛に」
王太子アルベルトの声が響き渡り、大広間のざわめきが一斉に収まる。
堂々とした立ち姿。自信に満ちた表情。自分がこの場の主役であると疑いもしない態度。
エレノアは、そっと視線を上げた。
「本日、皆を集めたのは他でもない。重要な発表があるからだ」
貴族たちの視線が、王太子からエレノアへ、そして再び王太子へと行き交う。
アルベルトは一瞬だけエレノアを見たが、すぐに興味を失ったかのように前を向いた。
「私は――エレノア・フォン・ヴァイスとの婚約を、ここに破棄する」
空気が凍りついた。
予想していたとはいえ、その言葉がはっきりと告げられた瞬間、何人かの貴族が息を呑むのが分かった。
視線が一斉にエレノアへと集まる。
泣くだろうか。
取り乱すだろうか。
あるいは、王太子に縋るだろうか。
そんな期待と好奇心が混ざった視線の中で、エレノアは微動だにしなかった。
「理由は簡単だ」
アルベルトは、あくまで軽やかに続ける。
「彼女は堅苦しく、融通が利かない。王太子妃として必要な、華やかさと柔軟さに欠けている」
その言葉に、何人かの貴族が小さく顔をしかめた。
彼らは知っている。エレノアがいなければ、王宮の実務が滞っていたことを。
だが、それを口にする者はいない。
ここは、王太子の場なのだから。
「私は、もっと民に寄り添い、愛される女性を選びたい」
アルベルトの隣には、愛らしい笑みを浮かべた若い令嬢が立っていた。
彼女は少し誇らしげに胸を張り、周囲の視線を浴びている。
その光景を前にしても、エレノアの心は不思議なほど静かだった。
「……承知いたしました」
凛とした声が、大広間に落ちる。
あまりにも落ち着いたその返答に、ざわめきが止まった。
エレノアは一歩前に出て、王太子をまっすぐに見据える。
「婚約破棄、お受けいたしますわ」
「……ずいぶんあっさりしているな」
アルベルトは拍子抜けしたように眉を上げた。
エレノアは、わずかに微笑む。
「ええ。これで、私の役目は終わりですもの」
「役目?」
「王太子殿下の婚約者としての役目です」
それは、決別の言葉だった。
けれどアルベルトは、その意味を深く考えなかった。
「そうか。なら、これで君は自由だ」
「ありがとうございます」
完璧な礼。
非の打ちどころのない所作。
だがその内側で、エレノアは確かに感じていた。
(もう、助言もしなくていい)
(もう、尻拭いもしなくていい)
(もう、誰かの失敗を黙って背負わなくていい)
それは解放だった。
大広間を後にしながら、彼女は一度も振り返らなかった。
その背中を、誰も呼び止めない。
廊下を歩きながら、エレノアは静かに息を吐いた。
(これからは、何もしませんわ)
それは投げやりな言葉ではない。
責任を果たし続けてきた者が、ようやく自分の人生を取り戻すための、明確な決断だった。
この日を境に、王宮は少しずつ歯車を狂わせていく。
だがそれを、今この瞬間に理解している者は、まだ一人もいなかった。
エレノア・フォン・ヴァイスだけを除いては。
その日、王宮の大広間には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
壁に飾られた王家の紋章はいつもと変わらないはずなのに、どこかよそよそしく見える。集められた貴族たちは、互いに視線を交わしながらも、誰一人として大きな声を出そうとはしなかった。
エレノア・フォン・ヴァイスは、壁際に静かに立っていた。
公爵家の令嬢であり、王太子アルベルトの婚約者――それが、今朝までの彼女の立場だ。
しかし、今日この場に呼ばれた理由を、彼女はすでに理解している。
(ついに、この日が来たのね)
不思議と、胸は静かだった。
怒りも、悲しみも、焦りもない。ただ、長く続いていた役目が終わる予感だけが、淡く胸に広がっている。
エレノアは、これまで王宮で目立つ存在ではなかった。
華やかな舞踏会で注目を集めることもなければ、愛想の良い笑顔で貴族たちに囲まれることもない。けれどその代わりに、彼女は常に「裏側」にいた。
財政報告書の数字の整合性を確認すること。
貴族間の利害が衝突する前に、それとなく調整役を務めること。
外交文書の文言を何度も精査し、たった一語の違いが問題を生まないよう修正すること。
それらはすべて、誰かがやらなければならない仕事だった。
だが、その誰かがエレノアであることを、王宮の人間は「当たり前」だと思っていた。
「――静粛に」
王太子アルベルトの声が響き渡り、大広間のざわめきが一斉に収まる。
堂々とした立ち姿。自信に満ちた表情。自分がこの場の主役であると疑いもしない態度。
エレノアは、そっと視線を上げた。
「本日、皆を集めたのは他でもない。重要な発表があるからだ」
貴族たちの視線が、王太子からエレノアへ、そして再び王太子へと行き交う。
アルベルトは一瞬だけエレノアを見たが、すぐに興味を失ったかのように前を向いた。
「私は――エレノア・フォン・ヴァイスとの婚約を、ここに破棄する」
空気が凍りついた。
予想していたとはいえ、その言葉がはっきりと告げられた瞬間、何人かの貴族が息を呑むのが分かった。
視線が一斉にエレノアへと集まる。
泣くだろうか。
取り乱すだろうか。
あるいは、王太子に縋るだろうか。
そんな期待と好奇心が混ざった視線の中で、エレノアは微動だにしなかった。
「理由は簡単だ」
アルベルトは、あくまで軽やかに続ける。
「彼女は堅苦しく、融通が利かない。王太子妃として必要な、華やかさと柔軟さに欠けている」
その言葉に、何人かの貴族が小さく顔をしかめた。
彼らは知っている。エレノアがいなければ、王宮の実務が滞っていたことを。
だが、それを口にする者はいない。
ここは、王太子の場なのだから。
「私は、もっと民に寄り添い、愛される女性を選びたい」
アルベルトの隣には、愛らしい笑みを浮かべた若い令嬢が立っていた。
彼女は少し誇らしげに胸を張り、周囲の視線を浴びている。
その光景を前にしても、エレノアの心は不思議なほど静かだった。
「……承知いたしました」
凛とした声が、大広間に落ちる。
あまりにも落ち着いたその返答に、ざわめきが止まった。
エレノアは一歩前に出て、王太子をまっすぐに見据える。
「婚約破棄、お受けいたしますわ」
「……ずいぶんあっさりしているな」
アルベルトは拍子抜けしたように眉を上げた。
エレノアは、わずかに微笑む。
「ええ。これで、私の役目は終わりですもの」
「役目?」
「王太子殿下の婚約者としての役目です」
それは、決別の言葉だった。
けれどアルベルトは、その意味を深く考えなかった。
「そうか。なら、これで君は自由だ」
「ありがとうございます」
完璧な礼。
非の打ちどころのない所作。
だがその内側で、エレノアは確かに感じていた。
(もう、助言もしなくていい)
(もう、尻拭いもしなくていい)
(もう、誰かの失敗を黙って背負わなくていい)
それは解放だった。
大広間を後にしながら、彼女は一度も振り返らなかった。
その背中を、誰も呼び止めない。
廊下を歩きながら、エレノアは静かに息を吐いた。
(これからは、何もしませんわ)
それは投げやりな言葉ではない。
責任を果たし続けてきた者が、ようやく自分の人生を取り戻すための、明確な決断だった。
この日を境に、王宮は少しずつ歯車を狂わせていく。
だがそれを、今この瞬間に理解している者は、まだ一人もいなかった。
エレノア・フォン・ヴァイスだけを除いては。
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