『婚約破棄された公爵令嬢は、王と交わらない道を選ぶ』

ふわふわ

文字の大きさ
1 / 40

1話 お役目終了ですわ。

しおりを挟む
1話 お役目終了ですわ。

 その日、王宮の大広間には、朝から重苦しい空気が漂っていた。
 壁に飾られた王家の紋章はいつもと変わらないはずなのに、どこかよそよそしく見える。集められた貴族たちは、互いに視線を交わしながらも、誰一人として大きな声を出そうとはしなかった。

 エレノア・フォン・ヴァイスは、壁際に静かに立っていた。
 公爵家の令嬢であり、王太子アルベルトの婚約者――それが、今朝までの彼女の立場だ。

 しかし、今日この場に呼ばれた理由を、彼女はすでに理解している。

(ついに、この日が来たのね)

 不思議と、胸は静かだった。
 怒りも、悲しみも、焦りもない。ただ、長く続いていた役目が終わる予感だけが、淡く胸に広がっている。

 エレノアは、これまで王宮で目立つ存在ではなかった。
 華やかな舞踏会で注目を集めることもなければ、愛想の良い笑顔で貴族たちに囲まれることもない。けれどその代わりに、彼女は常に「裏側」にいた。

 財政報告書の数字の整合性を確認すること。
 貴族間の利害が衝突する前に、それとなく調整役を務めること。
 外交文書の文言を何度も精査し、たった一語の違いが問題を生まないよう修正すること。

 それらはすべて、誰かがやらなければならない仕事だった。
 だが、その誰かがエレノアであることを、王宮の人間は「当たり前」だと思っていた。

「――静粛に」

 王太子アルベルトの声が響き渡り、大広間のざわめきが一斉に収まる。
 堂々とした立ち姿。自信に満ちた表情。自分がこの場の主役であると疑いもしない態度。

 エレノアは、そっと視線を上げた。

「本日、皆を集めたのは他でもない。重要な発表があるからだ」

 貴族たちの視線が、王太子からエレノアへ、そして再び王太子へと行き交う。
 アルベルトは一瞬だけエレノアを見たが、すぐに興味を失ったかのように前を向いた。

「私は――エレノア・フォン・ヴァイスとの婚約を、ここに破棄する」

 空気が凍りついた。

 予想していたとはいえ、その言葉がはっきりと告げられた瞬間、何人かの貴族が息を呑むのが分かった。
 視線が一斉にエレノアへと集まる。

 泣くだろうか。
 取り乱すだろうか。
 あるいは、王太子に縋るだろうか。

 そんな期待と好奇心が混ざった視線の中で、エレノアは微動だにしなかった。

「理由は簡単だ」

 アルベルトは、あくまで軽やかに続ける。

「彼女は堅苦しく、融通が利かない。王太子妃として必要な、華やかさと柔軟さに欠けている」

 その言葉に、何人かの貴族が小さく顔をしかめた。
 彼らは知っている。エレノアがいなければ、王宮の実務が滞っていたことを。

 だが、それを口にする者はいない。
 ここは、王太子の場なのだから。

「私は、もっと民に寄り添い、愛される女性を選びたい」

 アルベルトの隣には、愛らしい笑みを浮かべた若い令嬢が立っていた。
 彼女は少し誇らしげに胸を張り、周囲の視線を浴びている。

 その光景を前にしても、エレノアの心は不思議なほど静かだった。

「……承知いたしました」

 凛とした声が、大広間に落ちる。

 あまりにも落ち着いたその返答に、ざわめきが止まった。
 エレノアは一歩前に出て、王太子をまっすぐに見据える。

「婚約破棄、お受けいたしますわ」

「……ずいぶんあっさりしているな」

 アルベルトは拍子抜けしたように眉を上げた。
 エレノアは、わずかに微笑む。

「ええ。これで、私の役目は終わりですもの」

「役目?」

「王太子殿下の婚約者としての役目です」

 それは、決別の言葉だった。
 けれどアルベルトは、その意味を深く考えなかった。

「そうか。なら、これで君は自由だ」

「ありがとうございます」

 完璧な礼。
 非の打ちどころのない所作。

 だがその内側で、エレノアは確かに感じていた。

(もう、助言もしなくていい)
(もう、尻拭いもしなくていい)
(もう、誰かの失敗を黙って背負わなくていい)

 それは解放だった。

 大広間を後にしながら、彼女は一度も振り返らなかった。
 その背中を、誰も呼び止めない。

 廊下を歩きながら、エレノアは静かに息を吐いた。

(これからは、何もしませんわ)

 それは投げやりな言葉ではない。
 責任を果たし続けてきた者が、ようやく自分の人生を取り戻すための、明確な決断だった。

 この日を境に、王宮は少しずつ歯車を狂わせていく。
 だがそれを、今この瞬間に理解している者は、まだ一人もいなかった。

 エレノア・フォン・ヴァイスだけを除いては。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

お姫様は死に、魔女様は目覚めた

悠十
恋愛
 とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。  しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。  そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして…… 「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」  姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。 「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」  魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……

完結 私は何を見せられているのでしょう?

音爽(ネソウ)
恋愛
「あり得ない」最初に出た言葉がそれだった

病弱な幼馴染を守る彼との婚約を解消、十年の恋を捨てて結婚します

佐藤 美奈
恋愛
セフィーナ・グラディウスという貴族の娘が、婚約者であるアルディン・オルステリア伯爵令息との関係に苦悩し、彼の優しさが他の女性に向けられることに心を痛める。 セフィーナは、アルディンが幼馴染のリーシャ・ランスロット男爵令嬢に特別な優しさを注ぐ姿を見て、自らの立場に苦しみながらも、理想的な婚約者を演じ続ける日々を送っていた。 婚約して十年間、心の中で自分を演じ続けてきたが、それももう耐えられなくなっていた。

婚約者から妾になれと言われた私は、婚約を破棄することにしました

天宮有
恋愛
公爵令嬢の私エミリーは、婚約者のアシェル王子に「妾になれ」と言われてしまう。 アシェルは子爵令嬢のキアラを好きになったようで、妾になる原因を私のせいにしたいようだ。 もうアシェルと関わりたくない私は、妾にならず婚約破棄しようと決意していた。

〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?

ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」 その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。 「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」

婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!

みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。 幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、 いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。 そして――年末の舞踏会の夜。 「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」 エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、 王国の均衡は揺らぎ始める。 誇りを捨てず、誠実を貫く娘。 政の闇に挑む父。 陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。 そして――再び立ち上がる若き王女。 ――沈黙は逃げではなく、力の証。 公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。 ――荘厳で静謐な政略ロマンス。 (本作品は小説家になろうにも掲載中です)

婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】

恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。 果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?

【完結済】結婚式の翌日、私はこの結婚が白い結婚であることを知りました。

鳴宮野々花@書籍4作品発売中
恋愛
 共に伯爵家の令嬢と令息であるアミカとミッチェルは幸せな結婚式を挙げた。ところがその夜ミッチェルの体調が悪くなり、二人は別々の寝室で休むことに。  その翌日、アミカは偶然街でミッチェルと自分の友人であるポーラの不貞の事実を知ってしまう。激しく落胆するアミカだったが、侯爵令息のマキシミリアーノの助けを借りながら二人の不貞の証拠を押さえ、こちらの有責にされないように離婚にこぎつけようとする。  ところが、これは白い結婚だと不貞の相手であるポーラに言っていたはずなのに、日が経つごとにミッチェルの様子が徐々におかしくなってきて───

処理中です...