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2話 静かな違和感
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2話 静かな違和感
婚約破棄の翌朝、王太子アルベルトはいつもより遅く目を覚ました。
目覚めが悪いわけではない。ただ、胸の奥に薄い霧のようなものがかかっている感覚があった。
(気のせいだろう)
寝台から起き上がり、侍従に身支度を任せながら、彼は昨日の出来事を思い返す。
公の場での婚約破棄。
貴族たちのざわめき。
そして、エレノアの――あまりにも落ち着いた表情。
(あっさりしすぎていたな)
拍子抜けしたのは事実だった。
泣き縋るか、怒りをぶつけるか、少なくとも動揺は見せると思っていたのに、彼女はまるで長年続けてきた役目を終えた書記のように、淡々と受け入れた。
「まあいい。終わったことだ」
アルベルトは自分にそう言い聞かせ、執務室へ向かった。
扉を開けた瞬間、彼は小さく眉をひそめた。
「……?」
机の上が、妙に雑然としている。
昨日まで、書類は用途ごとにきっちり分類され、優先度順に整えられていたはずだった。
それが今日は、封の色も違えば内容も異なる書類が、無秩序に積まれている。
「これは、どういうことだ?」
アルベルトの問いに、側近の一人が困惑した顔で答える。
「そ、それが……今朝から確認しておりますが、どれを先に処理すべきか判断がつかず……」
「判断がつかない?」
思わず声が強くなる。
「今まで通りでいいだろう」
「今まで、というのは……」
側近は言葉を濁した。
その沈黙が、妙に長く感じられる。
「……エレノア様がいらっしゃった頃は、すでに整理された状態で机に並んでおりましたので……」
アルベルトは、そこで初めてはっきりとした違和感を覚えた。
(そういえば……)
書類の整理。
提出の順番。
誰が何を担当しているかの把握。
それらは、彼が直接指示していたわけではない。
気づけば、常に「整った状態」で目の前に用意されていただけだった。
「……それくらい、君たちで何とかできるだろう」
少し苛立ちを隠せない声で言うと、側近は慌てて頭を下げた。
「は、はい。すぐに対応いたします」
だが、その言葉に自信はなかった。
午前中の執務は、驚くほど進まなかった。
財政関係の報告書は数字が噛み合わず、どこを修正すべきか分からない。
貴族からの陳情は、背景事情が不明で、軽く扱っていいのか慎重になるべきか判断できない。
「以前は、こんなことはなかったはずだ」
アルベルトは苛立ちを募らせながら、机を指で叩いた。
昼前、外務官が慌てた様子で駆け込んでくる。
「殿下、大変です。隣国への返書の件ですが……」
「何だ?」
「文言の一部が先方の慣例に反している可能性がありまして……先ほど、先方の使者から不快感を示す連絡が」
「なぜ、そんな初歩的なミスが起きる?」
アルベルトは思わず立ち上がった。
「これまで問題になったことなど、一度も――」
言いかけて、言葉が止まる。
(……一度も、なかった?)
その「一度も」を支えていたのは、誰だったのか。
午後になると、別の問題が持ち込まれた。
二つの有力貴族家が、同じ利権を巡って衝突寸前だという。
「調停役は誰が?」
「それが……以前はエレノア様が事前に動かれていたため、表立った衝突にはならず……」
また、その名前だ。
アルベルトは、無意識のうちに舌打ちしそうになるのを堪えた。
「……彼女は、もう関係ない」
そう言い切ったものの、胸の奥に小さな棘が刺さる。
(だが、これは一時的な混乱だ)
彼は自分に言い聞かせる。
人が変われば、やり方も変わる。
それだけのことだ。
夕方、執務室を訪れた新しい想い人――愛らしい令嬢は、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「殿下、少しお疲れのようですわ。そんなに難しい顔をなさらなくても」
「ああ……そうだな」
アルベルトは、無理に微笑み返す。
「政務というのは、意外と大変なのですのね。でも、殿下ならきっと大丈夫ですわ」
その言葉は優しかった。
だが、どこか軽い。
彼はふと、エレノアの横顔を思い出した。
書類に目を落とし、黙々と確認を続ける姿。
余計な言葉を挟まず、必要なことだけを淡々と伝えてくる声。
(……いや、考える必要はない)
アルベルトは首を振った。
夜、執務を終えた彼は、疲労感に包まれていた。
これほど何も進まない一日を過ごした記憶がない。
(おかしいな)
胸に残るのは、はっきりとした不安ではない。
ただ、歯車が微妙に噛み合っていない感覚。
その原因が何であるか、彼はまだ認めようとしなかった。
一方その頃――
王宮から離れた公爵家の屋敷で、エレノア・フォン・ヴァイスは静かに紅茶を口にしていた。
書類も、相談事も、誰かのための助言もない。
(……驚くほど、静かですわ)
それは、心地よい静けさだった。
彼女が何もしないことによって生まれた歪みが、
今まさに王宮で広がり始めていることを、
エレノアはまだ知る由もない。
――ただ、もう振り返るつもりはなかった。
婚約破棄の翌朝、王太子アルベルトはいつもより遅く目を覚ました。
目覚めが悪いわけではない。ただ、胸の奥に薄い霧のようなものがかかっている感覚があった。
(気のせいだろう)
寝台から起き上がり、侍従に身支度を任せながら、彼は昨日の出来事を思い返す。
公の場での婚約破棄。
貴族たちのざわめき。
そして、エレノアの――あまりにも落ち着いた表情。
(あっさりしすぎていたな)
拍子抜けしたのは事実だった。
泣き縋るか、怒りをぶつけるか、少なくとも動揺は見せると思っていたのに、彼女はまるで長年続けてきた役目を終えた書記のように、淡々と受け入れた。
「まあいい。終わったことだ」
アルベルトは自分にそう言い聞かせ、執務室へ向かった。
扉を開けた瞬間、彼は小さく眉をひそめた。
「……?」
机の上が、妙に雑然としている。
昨日まで、書類は用途ごとにきっちり分類され、優先度順に整えられていたはずだった。
それが今日は、封の色も違えば内容も異なる書類が、無秩序に積まれている。
「これは、どういうことだ?」
アルベルトの問いに、側近の一人が困惑した顔で答える。
「そ、それが……今朝から確認しておりますが、どれを先に処理すべきか判断がつかず……」
「判断がつかない?」
思わず声が強くなる。
「今まで通りでいいだろう」
「今まで、というのは……」
側近は言葉を濁した。
その沈黙が、妙に長く感じられる。
「……エレノア様がいらっしゃった頃は、すでに整理された状態で机に並んでおりましたので……」
アルベルトは、そこで初めてはっきりとした違和感を覚えた。
(そういえば……)
書類の整理。
提出の順番。
誰が何を担当しているかの把握。
それらは、彼が直接指示していたわけではない。
気づけば、常に「整った状態」で目の前に用意されていただけだった。
「……それくらい、君たちで何とかできるだろう」
少し苛立ちを隠せない声で言うと、側近は慌てて頭を下げた。
「は、はい。すぐに対応いたします」
だが、その言葉に自信はなかった。
午前中の執務は、驚くほど進まなかった。
財政関係の報告書は数字が噛み合わず、どこを修正すべきか分からない。
貴族からの陳情は、背景事情が不明で、軽く扱っていいのか慎重になるべきか判断できない。
「以前は、こんなことはなかったはずだ」
アルベルトは苛立ちを募らせながら、机を指で叩いた。
昼前、外務官が慌てた様子で駆け込んでくる。
「殿下、大変です。隣国への返書の件ですが……」
「何だ?」
「文言の一部が先方の慣例に反している可能性がありまして……先ほど、先方の使者から不快感を示す連絡が」
「なぜ、そんな初歩的なミスが起きる?」
アルベルトは思わず立ち上がった。
「これまで問題になったことなど、一度も――」
言いかけて、言葉が止まる。
(……一度も、なかった?)
その「一度も」を支えていたのは、誰だったのか。
午後になると、別の問題が持ち込まれた。
二つの有力貴族家が、同じ利権を巡って衝突寸前だという。
「調停役は誰が?」
「それが……以前はエレノア様が事前に動かれていたため、表立った衝突にはならず……」
また、その名前だ。
アルベルトは、無意識のうちに舌打ちしそうになるのを堪えた。
「……彼女は、もう関係ない」
そう言い切ったものの、胸の奥に小さな棘が刺さる。
(だが、これは一時的な混乱だ)
彼は自分に言い聞かせる。
人が変われば、やり方も変わる。
それだけのことだ。
夕方、執務室を訪れた新しい想い人――愛らしい令嬢は、柔らかな笑みを浮かべて言った。
「殿下、少しお疲れのようですわ。そんなに難しい顔をなさらなくても」
「ああ……そうだな」
アルベルトは、無理に微笑み返す。
「政務というのは、意外と大変なのですのね。でも、殿下ならきっと大丈夫ですわ」
その言葉は優しかった。
だが、どこか軽い。
彼はふと、エレノアの横顔を思い出した。
書類に目を落とし、黙々と確認を続ける姿。
余計な言葉を挟まず、必要なことだけを淡々と伝えてくる声。
(……いや、考える必要はない)
アルベルトは首を振った。
夜、執務を終えた彼は、疲労感に包まれていた。
これほど何も進まない一日を過ごした記憶がない。
(おかしいな)
胸に残るのは、はっきりとした不安ではない。
ただ、歯車が微妙に噛み合っていない感覚。
その原因が何であるか、彼はまだ認めようとしなかった。
一方その頃――
王宮から離れた公爵家の屋敷で、エレノア・フォン・ヴァイスは静かに紅茶を口にしていた。
書類も、相談事も、誰かのための助言もない。
(……驚くほど、静かですわ)
それは、心地よい静けさだった。
彼女が何もしないことによって生まれた歪みが、
今まさに王宮で広がり始めていることを、
エレノアはまだ知る由もない。
――ただ、もう振り返るつもりはなかった。
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