『婚約破棄された公爵令嬢は、王と交わらない道を選ぶ』

ふわふわ

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3話 崩れ始めた日常

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3話 崩れ始めた日常

 その日の朝、王宮の空気は前日よりもさらに重く感じられた。
 王太子アルベルトは、執務室へ向かう廊下を歩きながら、無意識のうちに眉間に皺を寄せていた。

(昨日は、少し混乱があっただけだ)

 そう自分に言い聞かせてはいるものの、胸の奥に残る違和感は消えていない。
 婚約破棄をしてから、まだ二日。
 たったそれだけの時間で、王宮の調子がここまで狂うはずがない――本来なら。

 執務室の扉を開けた瞬間、アルベルトは思わず足を止めた。

「……これは」

 机の上に積まれた書類は、昨日よりも明らかに増えている。
 しかも、ただ量が多いだけではない。
 財政、外交、貴族からの陳情、騎士団関連の報告書――本来であれば別々に管理されているはずのものが、無秩序に積み重なっていた。

「誰が、こうした?」

 苛立ちを隠さない声で問うと、側近の一人が青ざめた顔で答える。

「そ、それが……整理しようにも、基準が分からず……」

「基準?」

 アルベルトは低く唸った。

「これまで、どうしていた?」

「……エレノア様が、事前に重要度を判断し、こちらへ回してくださっておりました」

 また、その名前だ。

 アルベルトは、はっきりと舌打ちした。

「彼女はもう、ここにはいない。いつまでも過去に頼るな」

「は、はい……」

 側近は頭を下げたものの、その声は弱々しい。

 午前中、アルベルトは一つ一つの書類に目を通そうとした。
 だが、すぐに限界が来る。

「数字が合わない……いや、どこから見ればいい?」

 財政報告書を前に、彼は思わず呟いた。
 これまで、数字の整合性が取れた状態で提出されるのが当たり前だった。
 不明瞭な点はすでに修正され、補足説明まで添えられていた。

 それが今は、生の数字が並んでいるだけだ。

「財務官を呼べ」

 呼び出された財務官は、額に汗を浮かべながら説明を始めた。

「こ、こちらが今月分の収支でして……」

「だから、それは分かっている。その上で、どこが問題なのかを言え」

「そ、それが……判断が難しく……」

 言葉に詰まる財務官を前に、アルベルトは強く息を吐いた。

(以前は、こんなことはなかった)

 その事実が、じわじわと胸に広がる。

 昼前、今度は貴族院からの使者が現れた。

「殿下、伯爵家と侯爵家の間で、領地境界を巡る問題が表面化しております」

「なぜ、今になって?」

「これまでは、水面下で調整が行われておりましたが……」

 言いよどむ使者に、アルベルトは嫌な予感を覚える。

「その調整役は?」

「……エレノア様です」

 その瞬間、執務室の空気が凍りついた。

 アルベルトは、思わず椅子の背に体重を預ける。

(調整、財政、書類……すべて、彼女が?)

 だが、すぐに首を振った。

(いや、それは大げさだ。彼女一人に、そんなことができるはずがない)

 自分にそう言い聞かせることで、かろうじて平静を保つ。

 午後になると、さらに事態は悪化した。
 外交部から、緊急の報告がもたらされたのだ。

「隣国より、正式な抗議文が届きました」

「抗議?」

「先日の返書において、我が国が相手国の立場を軽視していると受け取られたようで……」

 アルベルトは、思わず立ち上がった。

「なぜ、そんな重大な文書を事前に確認しなかった?」

「確認は……いたしました。ただ、慣例に関する細かな配慮が不足していた可能性が……」

 以前なら、あり得なかった失態だ。

 アルベルトの脳裏に、ある光景が浮かぶ。
 深夜まで灯る明かりの下、エレノアが一人、外交文書を読み込んでいた姿。
 何度も修正を重ね、慎重すぎるほど慎重に言葉を選んでいた。

(……あれは、無駄ではなかったのか)

 初めて、そんな疑念が芽生える。

 夕刻、新たな婚約者候補の令嬢が、執務室を訪れた。
 彼女は明るい声で言う。

「殿下、難しいお顔をなさっておりますわね。政務なんて、周りに任せてしまえばよろしいのでは?」

「……そう簡単なものではない」

「まあ。でも、愛があれば乗り越えられますわ」

 その言葉に、アルベルトは返す言葉を失った。

 エレノアは、そんなことを言わなかった。
 感情論で物事を片付けようとはしなかった。
 ただ、必要なことを、必要なだけやっていただけだ。

(彼女は……王太子妃に向いていなかった?)

 そう思ってきたはずなのに。

(本当に、そうだったのか?)

 夜、執務室を出る頃には、アルベルトは強い疲労に包まれていた。
 進んだ仕事は、驚くほど少ない。

 廊下を歩きながら、彼はふと立ち止まる。
 以前、エレノアがよく使っていた小さな控室の前だった。

 扉は閉ざされ、灯りは消えている。

 そこに、彼女はいない。

 ――それだけの事実が、胸に重くのしかかった。

 一方その頃。
 王宮から離れた公爵家の屋敷で、エレノア・フォン・ヴァイスは、庭を散策していた。

 風は穏やかで、花の香りが心地よい。

(王宮にいた頃には、こんな時間はなかったわね)

 彼女は足を止め、空を見上げる。

 何もしていない。
 けれど、それが罪だと思う気持ちは、もうなかった。

 自分の役目は終えた。
 それだけのことだ。

 そして――
 エレノアがいない王宮の日常は、確実に崩れ始めていた。
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