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第4話 戻らない歯車
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第4話 戻らない歯車
王太子アルベルトは、その朝、はっきりとした疲労を抱えたまま目を覚ました。
体が重い。眠ったはずなのに、頭が冴えない。それはここ数日、毎朝のように続いている感覚だった。
(……おかしい)
身支度を整えながら、彼は無意識に奥歯を噛みしめる。
婚約破棄をしてから、まだ数日しか経っていない。それなのに、王宮の政務は目に見えて滞り始めていた。
執務室に入った瞬間、アルベルトは小さく息を呑んだ。
「……また増えているな」
机の上に積まれた書類の山は、昨日よりもさらに高くなっている。
しかも、ただ量が増えただけではない。
同じ内容の報告書が重複していたり、決裁済みのものと未確認のものが混在していたりと、明らかに整理が行き届いていなかった。
「誰が、ここまで放置した?」
問いかけに、側近たちは一斉に視線を逸らす。
「……申し訳ありません、殿下。優先順位の判断がつかず……」
「判断?」
アルベルトの声が低くなる。
「判断がつかない理由は何だ」
「それは……」
側近の一人が、恐る恐る口を開いた。
「これまでは、エレノア様が事前に要点を整理し、殿下にお渡しする形でしたので……」
その名を聞いた瞬間、アルベルトは不快感を覚えた。
同時に、否定しきれない事実が胸に広がる。
(また、彼女か)
「……彼女はもう、ここにはいない」
自分に言い聞かせるように呟く。
「今後は、君たちで対応しろ」
「は、はい……」
返事はあった。だが、その声に確信はない。
午前中の政務は、ほとんど進まなかった。
財政報告では支出の内訳が曖昧なまま放置され、責任の所在も不明確。
貴族からの陳情は、背景事情が共有されておらず、判断を誤れば即座に不満を生む案件ばかりだった。
「なぜ、こんな初歩的な段階で止まる……」
アルベルトは机に肘をつき、額を押さえる。
思い返せば、以前は違った。
複雑な問題であっても、彼の前に出される頃には、すでに要点が整理され、選択肢が提示されていた。
――決断するだけでよかった。
(それを、誰がやっていた?)
答えは分かっている。
だが、認めたくなかった。
昼過ぎ、貴族院から再び使者が訪れた。
「殿下、昨日ご報告した伯爵家と侯爵家の件ですが……ついに表沙汰になりました」
「何だと?」
「双方が騎士団の介入を求め始めております。このままでは、王宮の裁定が必要かと」
アルベルトは思わず舌打ちした。
「なぜ、そこまで悪化した?」
「……これまでは、非公式の場で調整が行われておりましたので」
「誰が?」
分かりきった問いだった。
「……エレノア様です」
沈黙が落ちる。
アルベルトは椅子に深く腰を下ろし、しばらく言葉を失った。
(調整、整理、判断の補助……)
彼女は、王太子妃候補として表に立つことは少なかった。
だが、その分、王宮の裏側を支え続けていたのではないか。
(いや、だが――)
彼は首を振る。
(それでも、婚約破棄は正しい判断だったはずだ)
堅苦しく、感情に乏しい。
民の前に立つ妃としては、華がない。
そう思ってきた。
だが今、彼の前で崩れ始めているのは、確かに「現実」だった。
夕方、新たな婚約者候補の令嬢が訪れた。
明るい声で、無邪気に笑う。
「殿下、お疲れでしょう? あまり難しいことばかり考えなくてもよろしいのでは?」
「……そういうわけにはいかない」
「まあ。でも、殿下は王太子ですもの。周りが支えるべきですわ」
その言葉に、アルベルトは違和感を覚えた。
支えるとは何か。
ただ寄り添うことなのか。
それとも、責任を分担することなのか。
エレノアは、少なくとも後者だった。
(彼女は……支えていたのか)
夜。
執務を終えたアルベルトは、静まり返った廊下を歩く。
かつて、夜遅くまで灯りがともっていた一室の前で、彼は足を止めた。
エレノアが使っていた控室だ。
扉は閉ざされ、気配はない。
「……戻らない、か」
誰にともなく呟いた言葉は、虚しく廊下に消えた。
一方その頃、公爵家の屋敷では、エレノア・フォン・ヴァイスが暖炉の前で本を読んでいた。
急かされることも、誰かの失敗を補うこともない。
(静かで……いいですわね)
彼女はページをめくり、穏やかに微笑む。
王宮の歯車は、確実に噛み合わなくなっている。
だが、それを直す役目は、もう彼女のものではなかった。
戻らない歯車は、戻らない。
それが現実だと、王太子アルベルトが完全に理解する日は、まだ少し先のことだった。
王太子アルベルトは、その朝、はっきりとした疲労を抱えたまま目を覚ました。
体が重い。眠ったはずなのに、頭が冴えない。それはここ数日、毎朝のように続いている感覚だった。
(……おかしい)
身支度を整えながら、彼は無意識に奥歯を噛みしめる。
婚約破棄をしてから、まだ数日しか経っていない。それなのに、王宮の政務は目に見えて滞り始めていた。
執務室に入った瞬間、アルベルトは小さく息を呑んだ。
「……また増えているな」
机の上に積まれた書類の山は、昨日よりもさらに高くなっている。
しかも、ただ量が増えただけではない。
同じ内容の報告書が重複していたり、決裁済みのものと未確認のものが混在していたりと、明らかに整理が行き届いていなかった。
「誰が、ここまで放置した?」
問いかけに、側近たちは一斉に視線を逸らす。
「……申し訳ありません、殿下。優先順位の判断がつかず……」
「判断?」
アルベルトの声が低くなる。
「判断がつかない理由は何だ」
「それは……」
側近の一人が、恐る恐る口を開いた。
「これまでは、エレノア様が事前に要点を整理し、殿下にお渡しする形でしたので……」
その名を聞いた瞬間、アルベルトは不快感を覚えた。
同時に、否定しきれない事実が胸に広がる。
(また、彼女か)
「……彼女はもう、ここにはいない」
自分に言い聞かせるように呟く。
「今後は、君たちで対応しろ」
「は、はい……」
返事はあった。だが、その声に確信はない。
午前中の政務は、ほとんど進まなかった。
財政報告では支出の内訳が曖昧なまま放置され、責任の所在も不明確。
貴族からの陳情は、背景事情が共有されておらず、判断を誤れば即座に不満を生む案件ばかりだった。
「なぜ、こんな初歩的な段階で止まる……」
アルベルトは机に肘をつき、額を押さえる。
思い返せば、以前は違った。
複雑な問題であっても、彼の前に出される頃には、すでに要点が整理され、選択肢が提示されていた。
――決断するだけでよかった。
(それを、誰がやっていた?)
答えは分かっている。
だが、認めたくなかった。
昼過ぎ、貴族院から再び使者が訪れた。
「殿下、昨日ご報告した伯爵家と侯爵家の件ですが……ついに表沙汰になりました」
「何だと?」
「双方が騎士団の介入を求め始めております。このままでは、王宮の裁定が必要かと」
アルベルトは思わず舌打ちした。
「なぜ、そこまで悪化した?」
「……これまでは、非公式の場で調整が行われておりましたので」
「誰が?」
分かりきった問いだった。
「……エレノア様です」
沈黙が落ちる。
アルベルトは椅子に深く腰を下ろし、しばらく言葉を失った。
(調整、整理、判断の補助……)
彼女は、王太子妃候補として表に立つことは少なかった。
だが、その分、王宮の裏側を支え続けていたのではないか。
(いや、だが――)
彼は首を振る。
(それでも、婚約破棄は正しい判断だったはずだ)
堅苦しく、感情に乏しい。
民の前に立つ妃としては、華がない。
そう思ってきた。
だが今、彼の前で崩れ始めているのは、確かに「現実」だった。
夕方、新たな婚約者候補の令嬢が訪れた。
明るい声で、無邪気に笑う。
「殿下、お疲れでしょう? あまり難しいことばかり考えなくてもよろしいのでは?」
「……そういうわけにはいかない」
「まあ。でも、殿下は王太子ですもの。周りが支えるべきですわ」
その言葉に、アルベルトは違和感を覚えた。
支えるとは何か。
ただ寄り添うことなのか。
それとも、責任を分担することなのか。
エレノアは、少なくとも後者だった。
(彼女は……支えていたのか)
夜。
執務を終えたアルベルトは、静まり返った廊下を歩く。
かつて、夜遅くまで灯りがともっていた一室の前で、彼は足を止めた。
エレノアが使っていた控室だ。
扉は閉ざされ、気配はない。
「……戻らない、か」
誰にともなく呟いた言葉は、虚しく廊下に消えた。
一方その頃、公爵家の屋敷では、エレノア・フォン・ヴァイスが暖炉の前で本を読んでいた。
急かされることも、誰かの失敗を補うこともない。
(静かで……いいですわね)
彼女はページをめくり、穏やかに微笑む。
王宮の歯車は、確実に噛み合わなくなっている。
だが、それを直す役目は、もう彼女のものではなかった。
戻らない歯車は、戻らない。
それが現実だと、王太子アルベルトが完全に理解する日は、まだ少し先のことだった。
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