5 / 40
第5話 助言なき裁定
しおりを挟む
第5話 助言なき裁定
王宮の会議室に集められた貴族たちの顔は、いつにも増して険しかった。
長い楕円形の卓を挟み、互いに鋭い視線を投げ合っている。伯爵家と侯爵家――いずれも古くから王家に仕えてきた名門同士であり、その対立は水面下で長くくすぶっていた。
王太子アルベルトは、議長席に座りながら、その光景を見渡す。
胸の奥に、言い知れぬ重圧がのしかかっていた。
(本来なら、ここまで拗れる前に……)
そう思いかけて、言葉を飲み込む。
“本来なら”という考えそのものが、ここ数日、彼の頭を悩ませていた。
「では、殿下。裁定を」
貴族院の代表が促す。
アルベルトは、手元の書類に視線を落とした。
領地境界を巡る争い。
鉱山の採掘権。
過去の合意文書の解釈。
どれも一筋縄ではいかない問題だ。
以前であれば、この場に出る前に、論点は整理され、落としどころも複数用意されていたはずだった。
(だが、今は……)
書類には、生の主張が並んでいるだけだ。
どちらの言い分にも一理があり、どちらにも落とし穴がある。
「殿下?」
再び声をかけられ、アルベルトは顔を上げた。
「……意見を聞こう」
その言葉を合図に、伯爵家側が勢いよく立ち上がる。
「我が家は、三代前よりこの鉱山の管理を任されてきました。今さら侯爵家が権利を主張するのは筋が通りません!」
続いて、侯爵家側も黙ってはいない。
「管理を任されていただけで、正式な所有権があるとは聞いておりません。我が家の文書には、明確に王家からの許可が――」
声が重なり、会議室は一気に騒然となる。
アルベルトは、思わず眉をひそめた。
(止めねば)
そう思うのに、どこから手を付けるべきか分からない。
以前なら、ここで静かな声が割って入り、論点を一つずつ切り分けていた。
(……エレノアなら)
その名が浮かんだ瞬間、彼は奥歯を噛みしめた。
「静粛に!」
アルベルトは声を張り上げる。
「感情論ではなく、事実に基づいて話せ」
一瞬、場が静まる。
だが、それも束の間だった。
「事実を申しております!」
「それは貴殿の解釈でしょう!」
再び言い争いが始まる。
アルベルトは、深く息を吸った。
そして、勢いで言葉を選ぶ。
「……よい。今回の件については、当面、伯爵家の管理を継続とする」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
「殿下、それでは――」
「異議ありです!」
侯爵家側から、怒りを含んだ声が上がる。
「理由は明白だ。これまでの実績がある」
アルベルトは、そう言い切った。
だが、その理由が十分でないことを、彼自身が一番理解していた。
会議は、不満と疑念を残したまま終了した。
貴族たちは形式的な礼をとりながらも、目には明らかな不服の色を宿している。
会議室を出た後、側近が恐る恐る声をかけた。
「殿下……侯爵家は、納得しておりません。このままでは、別の形で問題が表に出るかと」
「分かっている」
アルベルトは、短く答えた。
(分かっている、が……)
執務室に戻ると、彼は椅子に深く腰を下ろした。
胸の奥が、ずしりと重い。
――失敗だ。
それを認めざるを得なかった。
(以前なら、あの裁定にはならなかった)
エレノアは、必ず両家の面子を保つ案を提示してきた。
一方を立てつつ、もう一方にも見返りを用意する。
争いを「勝ち負け」にしない。それが、彼女のやり方だった。
(私は……決断しただけだ)
決断することが、王太子の役目だと思っていた。
だが、決断に至るまでの道筋を整える者がいなければ、その決断はただの独断に過ぎない。
夕刻、新たな婚約者候補の令嬢が、明るい声で執務室に入ってきた。
「殿下、今日は大変でしたでしょう? でも、堂々と裁定なさるお姿、とても素敵でしたわ」
「……そう、見えたか」
「ええ! さすが王太子殿下ですわ」
その無邪気な賞賛に、アルベルトは曖昧に微笑んだ。
だが、胸の奥の重さは、少しも軽くならない。
(彼女は、問題を解決したと本気で思っている)
それが、何よりも不安だった。
夜。
王宮の廊下は静まり返っている。
アルベルトは、またしても無意識に、あの控室の前に立っていた。
エレノアが使っていた部屋。
扉は、今日も閉ざされたままだ。
「……助言が、必要だったのか」
その呟きは、誰にも聞かれなかった。
一方、公爵家の屋敷では、エレノア・フォン・ヴァイスが夕食後の紅茶を楽しんでいた。
穏やかな時間。
誰からも呼び出されず、誰のためにも決断しなくていい時間。
(裁定、うまくいったかしら)
ふと、そんな考えがよぎる。
だが、すぐに首を振った。
(考える必要はありませんわね)
もう、助言する立場ではない。
助言なき裁定がどんな結果を招こうと、それは彼女の責任ではない。
エレノアは、静かにカップを置いた。
王宮では今、確かに“決断”が下された。
だがそれは、王宮を支えてきた見えない土台が、また一つ崩れ落ちた瞬間でもあった。
王宮の会議室に集められた貴族たちの顔は、いつにも増して険しかった。
長い楕円形の卓を挟み、互いに鋭い視線を投げ合っている。伯爵家と侯爵家――いずれも古くから王家に仕えてきた名門同士であり、その対立は水面下で長くくすぶっていた。
王太子アルベルトは、議長席に座りながら、その光景を見渡す。
胸の奥に、言い知れぬ重圧がのしかかっていた。
(本来なら、ここまで拗れる前に……)
そう思いかけて、言葉を飲み込む。
“本来なら”という考えそのものが、ここ数日、彼の頭を悩ませていた。
「では、殿下。裁定を」
貴族院の代表が促す。
アルベルトは、手元の書類に視線を落とした。
領地境界を巡る争い。
鉱山の採掘権。
過去の合意文書の解釈。
どれも一筋縄ではいかない問題だ。
以前であれば、この場に出る前に、論点は整理され、落としどころも複数用意されていたはずだった。
(だが、今は……)
書類には、生の主張が並んでいるだけだ。
どちらの言い分にも一理があり、どちらにも落とし穴がある。
「殿下?」
再び声をかけられ、アルベルトは顔を上げた。
「……意見を聞こう」
その言葉を合図に、伯爵家側が勢いよく立ち上がる。
「我が家は、三代前よりこの鉱山の管理を任されてきました。今さら侯爵家が権利を主張するのは筋が通りません!」
続いて、侯爵家側も黙ってはいない。
「管理を任されていただけで、正式な所有権があるとは聞いておりません。我が家の文書には、明確に王家からの許可が――」
声が重なり、会議室は一気に騒然となる。
アルベルトは、思わず眉をひそめた。
(止めねば)
そう思うのに、どこから手を付けるべきか分からない。
以前なら、ここで静かな声が割って入り、論点を一つずつ切り分けていた。
(……エレノアなら)
その名が浮かんだ瞬間、彼は奥歯を噛みしめた。
「静粛に!」
アルベルトは声を張り上げる。
「感情論ではなく、事実に基づいて話せ」
一瞬、場が静まる。
だが、それも束の間だった。
「事実を申しております!」
「それは貴殿の解釈でしょう!」
再び言い争いが始まる。
アルベルトは、深く息を吸った。
そして、勢いで言葉を選ぶ。
「……よい。今回の件については、当面、伯爵家の管理を継続とする」
その瞬間、会議室の空気が凍りついた。
「殿下、それでは――」
「異議ありです!」
侯爵家側から、怒りを含んだ声が上がる。
「理由は明白だ。これまでの実績がある」
アルベルトは、そう言い切った。
だが、その理由が十分でないことを、彼自身が一番理解していた。
会議は、不満と疑念を残したまま終了した。
貴族たちは形式的な礼をとりながらも、目には明らかな不服の色を宿している。
会議室を出た後、側近が恐る恐る声をかけた。
「殿下……侯爵家は、納得しておりません。このままでは、別の形で問題が表に出るかと」
「分かっている」
アルベルトは、短く答えた。
(分かっている、が……)
執務室に戻ると、彼は椅子に深く腰を下ろした。
胸の奥が、ずしりと重い。
――失敗だ。
それを認めざるを得なかった。
(以前なら、あの裁定にはならなかった)
エレノアは、必ず両家の面子を保つ案を提示してきた。
一方を立てつつ、もう一方にも見返りを用意する。
争いを「勝ち負け」にしない。それが、彼女のやり方だった。
(私は……決断しただけだ)
決断することが、王太子の役目だと思っていた。
だが、決断に至るまでの道筋を整える者がいなければ、その決断はただの独断に過ぎない。
夕刻、新たな婚約者候補の令嬢が、明るい声で執務室に入ってきた。
「殿下、今日は大変でしたでしょう? でも、堂々と裁定なさるお姿、とても素敵でしたわ」
「……そう、見えたか」
「ええ! さすが王太子殿下ですわ」
その無邪気な賞賛に、アルベルトは曖昧に微笑んだ。
だが、胸の奥の重さは、少しも軽くならない。
(彼女は、問題を解決したと本気で思っている)
それが、何よりも不安だった。
夜。
王宮の廊下は静まり返っている。
アルベルトは、またしても無意識に、あの控室の前に立っていた。
エレノアが使っていた部屋。
扉は、今日も閉ざされたままだ。
「……助言が、必要だったのか」
その呟きは、誰にも聞かれなかった。
一方、公爵家の屋敷では、エレノア・フォン・ヴァイスが夕食後の紅茶を楽しんでいた。
穏やかな時間。
誰からも呼び出されず、誰のためにも決断しなくていい時間。
(裁定、うまくいったかしら)
ふと、そんな考えがよぎる。
だが、すぐに首を振った。
(考える必要はありませんわね)
もう、助言する立場ではない。
助言なき裁定がどんな結果を招こうと、それは彼女の責任ではない。
エレノアは、静かにカップを置いた。
王宮では今、確かに“決断”が下された。
だがそれは、王宮を支えてきた見えない土台が、また一つ崩れ落ちた瞬間でもあった。
0
あなたにおすすめの小説
お姫様は死に、魔女様は目覚めた
悠十
恋愛
とある大国に、小さいけれど豊かな国の姫君が側妃として嫁いだ。
しかし、離宮に案内されるも、離宮には侍女も衛兵も居ない。ベルを鳴らしても、人を呼んでも誰も来ず、姫君は長旅の疲れから眠り込んでしまう。
そして、深夜、姫君は目覚め、体の不調を感じた。そのまま気を失い、三度目覚め、三度気を失い、そして……
「あ、あれ? えっ、なんで私、前の体に戻ってるわけ?」
姫君だった少女は、前世の魔女の体に魂が戻ってきていた。
「えっ、まさか、あのまま死んだ⁉」
魔女は慌てて遠見の水晶を覗き込む。自分の――姫君の体は、嫁いだ大国はいったいどうなっているのか知るために……
病弱な幼馴染を守る彼との婚約を解消、十年の恋を捨てて結婚します
佐藤 美奈
恋愛
セフィーナ・グラディウスという貴族の娘が、婚約者であるアルディン・オルステリア伯爵令息との関係に苦悩し、彼の優しさが他の女性に向けられることに心を痛める。
セフィーナは、アルディンが幼馴染のリーシャ・ランスロット男爵令嬢に特別な優しさを注ぐ姿を見て、自らの立場に苦しみながらも、理想的な婚約者を演じ続ける日々を送っていた。
婚約して十年間、心の中で自分を演じ続けてきたが、それももう耐えられなくなっていた。
婚約者から妾になれと言われた私は、婚約を破棄することにしました
天宮有
恋愛
公爵令嬢の私エミリーは、婚約者のアシェル王子に「妾になれ」と言われてしまう。
アシェルは子爵令嬢のキアラを好きになったようで、妾になる原因を私のせいにしたいようだ。
もうアシェルと関わりたくない私は、妾にならず婚約破棄しようと決意していた。
〈完結〉だってあなたは彼女が好きでしょう?
ごろごろみかん。
恋愛
「だってあなたは彼女が好きでしょう?」
その言葉に、私の婚約者は頷いて答えた。
「うん。僕は彼女を愛している。もちろん、きみのことも」
婚約破棄を申し入れたのは、父です ― 王子様、あなたの企みはお見通しです!
みかぼう。
恋愛
公爵令嬢クラリッサ・エインズワースは、王太子ルーファスの婚約者。
幼い日に「共に国を守ろう」と誓い合ったはずの彼は、
いま、別の令嬢マリアンヌに微笑んでいた。
そして――年末の舞踏会の夜。
「――この婚約、我らエインズワース家の名において、破棄させていただきます!」
エインズワース公爵が力強く宣言した瞬間、
王国の均衡は揺らぎ始める。
誇りを捨てず、誠実を貫く娘。
政の闇に挑む父。
陰謀を暴かんと手を伸ばす宰相の子。
そして――再び立ち上がる若き王女。
――沈黙は逃げではなく、力の証。
公爵令嬢の誇りが、王国の未来を変える。
――荘厳で静謐な政略ロマンス。
(本作品は小説家になろうにも掲載中です)
婚約破棄を伝えられて居るのは帝国の皇女様ですが…国は大丈夫でしょうか【完結】
繭
恋愛
卒業式の最中、王子が隣国皇帝陛下の娘で有る皇女に婚約破棄を突き付けると言う、前代未聞の所業が行われ阿鼻叫喚の事態に陥り、卒業式どころでは無くなる事から物語は始まる。
果たして王子の国は無事に国を維持できるのか?
【完結済】結婚式の翌日、私はこの結婚が白い結婚であることを知りました。
鳴宮野々花@書籍4作品発売中
恋愛
共に伯爵家の令嬢と令息であるアミカとミッチェルは幸せな結婚式を挙げた。ところがその夜ミッチェルの体調が悪くなり、二人は別々の寝室で休むことに。
その翌日、アミカは偶然街でミッチェルと自分の友人であるポーラの不貞の事実を知ってしまう。激しく落胆するアミカだったが、侯爵令息のマキシミリアーノの助けを借りながら二人の不貞の証拠を押さえ、こちらの有責にされないように離婚にこぎつけようとする。
ところが、これは白い結婚だと不貞の相手であるポーラに言っていたはずなのに、日が経つごとにミッチェルの様子が徐々におかしくなってきて───
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる