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第7話 取り返しのつかない兆し
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第7話 取り返しのつかない兆し
王宮の朝は、かつてないほど騒がしかった。
廊下を行き交う文官たちの足取りは早く、誰もが落ち着きなく書類を抱えている。低い声で交わされる会話の端々には、「急ぎ」「至急」「確認不足」といった言葉が混じっていた。
王太子アルベルトは、その様子を執務室の扉口で一瞬だけ眺め、ゆっくりと中へ入った。
(……完全に、歯車がずれている)
それを認めるのは、正直なところ辛かった。
だが、もはや「一時的な混乱」で片づけられる段階ではないことを、彼自身が一番理解している。
机の上には、昨夜処理しきれなかった書類がそのまま残されていた。
その上に、さらに新しい書類が積み重ねられている。
「……説明してくれ」
集まっていた側近たちに向けて、アルベルトは静かに言った。
最初に口を開いたのは、外務担当の官だった。
「殿下。隣国より、再度の通達が届いております」
「再度?」
「はい。先日の抗議文への対応が遅れていることに、不満を示しておりまして……場合によっては、交易条件の見直しも検討するとのことです」
アルベルトは、思わず机に手をついた。
「なぜ、返答が遅れている?」
「文言の調整で意見がまとまらず……」
文言。
その一言で、胸に鈍い痛みが走る。
(以前は、迷うことなどなかった)
返書は常に迅速かつ的確だった。
相手国の慣例を踏まえ、余計な誤解を生まない表現が選ばれていた。
――誰が、それをやっていたのか。
「次は?」
アルベルトは、低い声で促した。
今度は、財務担当の官が前に出る。
「殿下、商会連合より正式な要請が出ております。王宮の方針が不透明なままでは、次期投資を見送らざるを得ない、と」
「見送る、だと?」
「はい。すでに一部の商会は、隣国へ軸足を移す動きを見せております」
アルベルトの喉が、ひくりと鳴った。
(投資が止まる……?)
それは、国の血流が滞ることを意味する。
「なぜ、ここまで話が進む前に――」
言いかけて、言葉を止めた。
(止めていたのは、誰だ)
問題が表に出る前に、芽を摘んでいた存在。
彼は、ようやくその輪郭をはっきりと意識し始めていた。
さらに、追い打ちをかけるように報告が続く。
「殿下。貴族院にて、次回会合で『王宮の意思決定体制』について議題に上げる動きが出ております」
「……私の判断が、議題になるというのか」
「形式上は、体制について、ですが……」
それが何を意味するのか、アルベルトには分かっていた。
自分への信頼が、もはや前提ではなくなっているということだ。
側近たちが退室した後、執務室には重い沈黙が残った。
アルベルトは椅子に深く腰を下ろし、天井を仰ぐ。
(どこで、間違えた)
婚約破棄そのものが、間違いだったとは思っていない。
彼女は堅く、華やかさに欠けていた。
それは今でも事実だ。
だが――
(私は、何を失った?)
その答えが、胸の奥で形を取り始めている。
昼過ぎ、アルベルトは無意識のうちに、ある書類を手に取っていた。
それは数か月前の案件の控えだ。
簡潔で、無駄がない。
論点が明確で、判断材料が整っている。
文末には、小さく添えられた一文。
「※本件については、両者の合意形成が可能と判断いたします」
その筆跡を、彼は見覚えがあった。
(……エレノア)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
彼女は、決して前に出なかった。
だが、後ろから全てを支えていた。
その事実を、今さらながら思い知らされる。
夕刻、新たな婚約者候補の令嬢が訪れた。
今日は、いつもの明るさがない。
「殿下……最近、王宮の雰囲気がよくありませんわ」
「そうか」
「皆、ピリピリしていて……わたくし、少し怖いのです」
彼女は不安げに微笑んだ。
アルベルトは、その笑顔を見つめながら思う。
(彼女は、悪くない)
ただ、支える力を持っていないだけだ。
夜。
アルベルトは、ついに決断した。
「……エレノアを」
小さく呟く。
「エレノア・フォン・ヴァイスを、呼び戻すべきなのか」
その言葉を口にした瞬間、胸に走ったのは安堵ではなかった。
強い抵抗と、遅すぎた後悔だ。
一方その頃、公爵家の屋敷では、エレノア・フォン・ヴァイスが静かに書簡を読んでいた。
差出人は、王宮の高官の一人。
「殿下が、貴女と話をしたいと」
エレノアは、しばらくその文面を眺めてから、そっと紙を折りたたんだ。
(……ついに、ですのね)
だが、胸は不思議なほど穏やかだった。
呼び戻そうとする声が上がることは、予想していた。
けれど――
(応じるかどうかは、別の話ですわ)
彼女は書簡を机に置き、紅茶を淹れる。
王宮では今、確かに「取り返しのつかない兆し」が形になり始めていた。
そしてその兆しは、アルベルトが想像する以上に、深く、重いものだった。
王宮の朝は、かつてないほど騒がしかった。
廊下を行き交う文官たちの足取りは早く、誰もが落ち着きなく書類を抱えている。低い声で交わされる会話の端々には、「急ぎ」「至急」「確認不足」といった言葉が混じっていた。
王太子アルベルトは、その様子を執務室の扉口で一瞬だけ眺め、ゆっくりと中へ入った。
(……完全に、歯車がずれている)
それを認めるのは、正直なところ辛かった。
だが、もはや「一時的な混乱」で片づけられる段階ではないことを、彼自身が一番理解している。
机の上には、昨夜処理しきれなかった書類がそのまま残されていた。
その上に、さらに新しい書類が積み重ねられている。
「……説明してくれ」
集まっていた側近たちに向けて、アルベルトは静かに言った。
最初に口を開いたのは、外務担当の官だった。
「殿下。隣国より、再度の通達が届いております」
「再度?」
「はい。先日の抗議文への対応が遅れていることに、不満を示しておりまして……場合によっては、交易条件の見直しも検討するとのことです」
アルベルトは、思わず机に手をついた。
「なぜ、返答が遅れている?」
「文言の調整で意見がまとまらず……」
文言。
その一言で、胸に鈍い痛みが走る。
(以前は、迷うことなどなかった)
返書は常に迅速かつ的確だった。
相手国の慣例を踏まえ、余計な誤解を生まない表現が選ばれていた。
――誰が、それをやっていたのか。
「次は?」
アルベルトは、低い声で促した。
今度は、財務担当の官が前に出る。
「殿下、商会連合より正式な要請が出ております。王宮の方針が不透明なままでは、次期投資を見送らざるを得ない、と」
「見送る、だと?」
「はい。すでに一部の商会は、隣国へ軸足を移す動きを見せております」
アルベルトの喉が、ひくりと鳴った。
(投資が止まる……?)
それは、国の血流が滞ることを意味する。
「なぜ、ここまで話が進む前に――」
言いかけて、言葉を止めた。
(止めていたのは、誰だ)
問題が表に出る前に、芽を摘んでいた存在。
彼は、ようやくその輪郭をはっきりと意識し始めていた。
さらに、追い打ちをかけるように報告が続く。
「殿下。貴族院にて、次回会合で『王宮の意思決定体制』について議題に上げる動きが出ております」
「……私の判断が、議題になるというのか」
「形式上は、体制について、ですが……」
それが何を意味するのか、アルベルトには分かっていた。
自分への信頼が、もはや前提ではなくなっているということだ。
側近たちが退室した後、執務室には重い沈黙が残った。
アルベルトは椅子に深く腰を下ろし、天井を仰ぐ。
(どこで、間違えた)
婚約破棄そのものが、間違いだったとは思っていない。
彼女は堅く、華やかさに欠けていた。
それは今でも事実だ。
だが――
(私は、何を失った?)
その答えが、胸の奥で形を取り始めている。
昼過ぎ、アルベルトは無意識のうちに、ある書類を手に取っていた。
それは数か月前の案件の控えだ。
簡潔で、無駄がない。
論点が明確で、判断材料が整っている。
文末には、小さく添えられた一文。
「※本件については、両者の合意形成が可能と判断いたします」
その筆跡を、彼は見覚えがあった。
(……エレノア)
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
彼女は、決して前に出なかった。
だが、後ろから全てを支えていた。
その事実を、今さらながら思い知らされる。
夕刻、新たな婚約者候補の令嬢が訪れた。
今日は、いつもの明るさがない。
「殿下……最近、王宮の雰囲気がよくありませんわ」
「そうか」
「皆、ピリピリしていて……わたくし、少し怖いのです」
彼女は不安げに微笑んだ。
アルベルトは、その笑顔を見つめながら思う。
(彼女は、悪くない)
ただ、支える力を持っていないだけだ。
夜。
アルベルトは、ついに決断した。
「……エレノアを」
小さく呟く。
「エレノア・フォン・ヴァイスを、呼び戻すべきなのか」
その言葉を口にした瞬間、胸に走ったのは安堵ではなかった。
強い抵抗と、遅すぎた後悔だ。
一方その頃、公爵家の屋敷では、エレノア・フォン・ヴァイスが静かに書簡を読んでいた。
差出人は、王宮の高官の一人。
「殿下が、貴女と話をしたいと」
エレノアは、しばらくその文面を眺めてから、そっと紙を折りたたんだ。
(……ついに、ですのね)
だが、胸は不思議なほど穏やかだった。
呼び戻そうとする声が上がることは、予想していた。
けれど――
(応じるかどうかは、別の話ですわ)
彼女は書簡を机に置き、紅茶を淹れる。
王宮では今、確かに「取り返しのつかない兆し」が形になり始めていた。
そしてその兆しは、アルベルトが想像する以上に、深く、重いものだった。
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