『婚約破棄された公爵令嬢は、王と交わらない道を選ぶ』

ふわふわ

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第30話 静かな臨界点

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第30話 静かな臨界点

 波紋は広がり、空白は守られ、線は引かれた。
 そのすべてが積み重なると、ある瞬間に臨界点が訪れる。
 派手な合図はない。歓声もない。
 ただ、戻らない一線を越えたと、皆が気づく瞬間だ。

 アルベルトは朝の定例を終え、机の上の一枚の紙を裏返した。
 そこには、特別な決裁事項はない。
 だが、欄外の注記が増えている。

――現場判断で解決。
――上申不要。
――基準内で完結。

(……越えたな)

 王が決めなくても、国が止まらない。
 それは、権威の低下ではない。
 成熟だ。

 老侯爵が、感慨深げに言う。

「陛下。最近、“陛下の判断待ち”が減りました」

「よいことだ」

「不安は……?」

「ない。判断が消えたのではない。分散しただけだ」

 王の仕事は、決め続けることではない。
 決めなくても回る状態を、守ることだ。

 午前中、予期せぬ事案が一つだけ上がった。
 基準がぶつかる、境界の案件。

 アルベルトは、すぐに答えを出さない。
 代わりに、二つの部署を呼び、同席させる。

「互いの理由を、先に言え」

 議論は短く、率直だった。
 最後に、彼は一言だけ添える。

「今回は、こちら。理由は共有した。次は、基準を更新する」

 決裁は軽く、責任は重く。
 それでいい。

 一方、領地。
 エレノアは、久しぶりに“何も起きない日”を迎えていた。
 会合もなく、急ぎの報告もない。

 侍女が、少し戸惑って言う。

「今日は……静かですね」

「ええ。いい兆候です」

 彼女は庭で腰を下ろし、風を感じる。

(動かなくても、進んでいる)

 臨界点とは、勢いではない。
 戻らない確かさだ。

 午後、他領からの問い合わせが一通届いた。
 内容は、以前なら即答を求められただろう案件。

 エレノアは、短く返す。

――判断は、そちらで。
――基準は共有済み。

 それで終わり。

 夕刻、王宮では若い官が笑みを浮かべた。

「最近、仕事が“怖くない”です」

 アルベルトは頷く。

「怖くないのは、逃げ道があるからだ。
 だが、責任は残る。忘れるな」

 同じ夕刻、領地の市場で、商人が言った。

「今は、無理をしなくていい」

 その言葉が、自然に出るようになった。

 夜。
 王宮の灯りは控えめで、会議は短い。
 領地の屋敷でも、静かな時間が流れる。

 アルベルトは、白紙を一枚、そっと引き出しに戻す。
 エレノアは、本を閉じ、栞を挟む。

 静かな臨界点を越えたあと、
 物事は急に変わらない。

 ただ、戻らない。

 王は、決めすぎない強さを手に入れ、
 公爵令嬢は、動かさない勇気を持つ。

 交わらぬ道は、ここで確かに分岐し、
 同時に、同じ地平へと続いていた。

 次に来るのは、試練ではない。
 確認だ。

 この国と、この領地が、
 一人の判断に頼らず、歩けるかどうか。

 答えは、すでに静かに出ていた。
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