9 / 39
第9話 評価され始める名
しおりを挟む
第9話 評価され始める名
辺境での生活が始まって、まだ一週間も経っていない。
それでも、ミディア・バイエルンは、この地の空気に驚くほど早く馴染みつつあった。朝は早く、日が昇る前から人が動く。政庁の廊下には、眠気よりも実務への集中が満ちており、誰もが必要な言葉だけを交わす。
机に向かい、帳簿を確認しながら、ミディアは静かに息を吐いた。
「……数字は、嘘をつきませんね」
昨夜まとめた簡易報告書には、北側集落の物流停滞と、その原因、そして暫定的な改善案が記されている。どれも、現地で見聞きした事実に基づくものだ。理想論は入れていない。できることと、できないことを、はっきりと分けた。
扉が、控えめにノックされる。
「入ってください」
入ってきたのは、若い事務官だった。緊張した面持ちで、書類を抱えている。
「バイエルン様……いえ、ミディア様。こちら、昨日の指示に基づいて整理したものです」
差し出された紙束に、ミディアは目を落とす。輸送経路の一覧と、各集落ごとの消費量。粗はあるが、短時間でよくまとめられている。
「ありがとうございます。とても助かります」
そう言うと、事務官は目を丸くした。
「い、いえ……その……」
言葉に詰まる彼に、ミディアは柔らかく微笑んだ。
「次は、消費の変動が大きい季節を書き足してみてください。冬前と、収穫期ですね」
「は、はい!」
彼は、少し顔を明るくして部屋を出ていった。
――評価される、というのは、こういうことなのかもしれない。
ミディアは、ふと思う。王宮では、どれほど資料を整えても、それが誰かの「功績」として処理されることが多かった。だが、ここでは違う。自分の言葉が、そのまま人を動かす。
午前中の会議は短かった。集落間の共同備蓄案について、簡単な検討が行われる。反対意見も出たが、感情的なものは少ない。
「距離がある、という懸念は理解できます」
ミディアは、地図を指し示しながら言った。
「ですが、現状では、各集落が単独で備蓄を維持する方が、負担が大きい。人手と物資を分散させるより、集約した方が、結果的に守れる量は増えます」
会議室が静まる。
数人の職員が、資料を見直し、互いに小声で確認を始めた。
「……確かに」
「数字上は、その方が合理的だな」
そんな声が、ぽつぽつと上がる。
アイロス・アルツハイムは、会議の端で腕を組み、黙って聞いていた。やがて、短く言う。
「試験的に、二か所でやってみよう」
即断だった。
「問題が出れば、修正する。出なければ、拡大する」
誰も異を唱えない。決定は、自然に受け入れられた。
会議が終わると、職員たちはそれぞれの持ち場に戻っていく。ミディアは、資料を片付けながら、内心で小さく息を吐いた。
――話が、通る。
それだけのことが、これほど心を軽くするとは思わなかった。
昼過ぎ、アイロスが声をかけてきた。
「時間はありますか」
「ええ。何か問題が?」
「いえ。むしろ、その逆です」
彼は、執務室の窓を開け、外を示した。政庁の前では、職員たちが慌ただしく動き、書類や荷を運んでいる。
「今朝から、皆の動きが早い」
ミディアは、その様子を眺めた。
「理由は、単純だと思います」
「聞かせてください」
「自分たちの仕事が、意味を持つと実感できたからです」
アイロスは、少しだけ眉を上げた。
「……自覚は?」
「いいえ」
ミディアは、正直に答えた。
「私は、ただ現実を整理しただけです」
アイロスは、短く笑った。ほんの一瞬の、気づかなければ見逃すような表情。
「それができる人間は、意外と少ない」
その言葉に、ミディアは返事をしなかった。ただ、視線を外に向ける。
夕方、村からの使いが政庁を訪れた。北側集落の村長だ。慣れない様子で、帽子を手に持ち、深々と頭を下げる。
「……先ほどは、ありがとうございました」
誰に向けた言葉なのか、迷っているようだった。
「こちらこそ。状況を教えてくださって、助かりました」
ミディアが答えると、村長は驚いたように顔を上げた。
「いえ、その……王都のお役人様は、もっと、こう……」
言葉を濁す彼に、ミディアは首を振る。
「私は、決める立場ではありません。伝える立場です」
村長は、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。なら、正直に話します」
その後の会話は、短くも濃いものだった。収穫量、冬の備え、人手の不安。どれも、報告書には書き切れない、生の声だ。
村長が帰った後、政庁の中に、微妙な変化が生まれていた。職員たちの視線が、以前よりも真っ直ぐになっている。
「……ミディア様」
先ほどの事務官が、廊下で声をかけてきた。
「村の方が、『話を聞いてもらえた』と喜んでいました」
ミディアは、少しだけ目を細めた。
「それなら、よかったです」
それ以上の言葉は、必要なかった。
夜、宿舎に戻ると、疲労が遅れて押し寄せてきた。椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。
――私は、評価され始めている。
そう自覚した瞬間、胸の奥に、微かな戸惑いが生まれる。王宮では、評価は重荷だった。期待と役割が、必ずセットでついてきたからだ。
だが、ここでは違う。
評価は、仕事の結果に対するもの。
人として、誰かの所有物になるわけではない。
「……悪くないですね」
再び、その言葉が口をついた。
窓の外では、辺境の夜が静かに広がっている。遠くで、焚き火の明かりが揺れていた。
ミディア・バイエルンという名は、まだ小さな波紋にすぎない。
だが、その波紋は、確実に広がり始めていた。
それを、まだ王都の誰も知らない。
辺境での生活が始まって、まだ一週間も経っていない。
それでも、ミディア・バイエルンは、この地の空気に驚くほど早く馴染みつつあった。朝は早く、日が昇る前から人が動く。政庁の廊下には、眠気よりも実務への集中が満ちており、誰もが必要な言葉だけを交わす。
机に向かい、帳簿を確認しながら、ミディアは静かに息を吐いた。
「……数字は、嘘をつきませんね」
昨夜まとめた簡易報告書には、北側集落の物流停滞と、その原因、そして暫定的な改善案が記されている。どれも、現地で見聞きした事実に基づくものだ。理想論は入れていない。できることと、できないことを、はっきりと分けた。
扉が、控えめにノックされる。
「入ってください」
入ってきたのは、若い事務官だった。緊張した面持ちで、書類を抱えている。
「バイエルン様……いえ、ミディア様。こちら、昨日の指示に基づいて整理したものです」
差し出された紙束に、ミディアは目を落とす。輸送経路の一覧と、各集落ごとの消費量。粗はあるが、短時間でよくまとめられている。
「ありがとうございます。とても助かります」
そう言うと、事務官は目を丸くした。
「い、いえ……その……」
言葉に詰まる彼に、ミディアは柔らかく微笑んだ。
「次は、消費の変動が大きい季節を書き足してみてください。冬前と、収穫期ですね」
「は、はい!」
彼は、少し顔を明るくして部屋を出ていった。
――評価される、というのは、こういうことなのかもしれない。
ミディアは、ふと思う。王宮では、どれほど資料を整えても、それが誰かの「功績」として処理されることが多かった。だが、ここでは違う。自分の言葉が、そのまま人を動かす。
午前中の会議は短かった。集落間の共同備蓄案について、簡単な検討が行われる。反対意見も出たが、感情的なものは少ない。
「距離がある、という懸念は理解できます」
ミディアは、地図を指し示しながら言った。
「ですが、現状では、各集落が単独で備蓄を維持する方が、負担が大きい。人手と物資を分散させるより、集約した方が、結果的に守れる量は増えます」
会議室が静まる。
数人の職員が、資料を見直し、互いに小声で確認を始めた。
「……確かに」
「数字上は、その方が合理的だな」
そんな声が、ぽつぽつと上がる。
アイロス・アルツハイムは、会議の端で腕を組み、黙って聞いていた。やがて、短く言う。
「試験的に、二か所でやってみよう」
即断だった。
「問題が出れば、修正する。出なければ、拡大する」
誰も異を唱えない。決定は、自然に受け入れられた。
会議が終わると、職員たちはそれぞれの持ち場に戻っていく。ミディアは、資料を片付けながら、内心で小さく息を吐いた。
――話が、通る。
それだけのことが、これほど心を軽くするとは思わなかった。
昼過ぎ、アイロスが声をかけてきた。
「時間はありますか」
「ええ。何か問題が?」
「いえ。むしろ、その逆です」
彼は、執務室の窓を開け、外を示した。政庁の前では、職員たちが慌ただしく動き、書類や荷を運んでいる。
「今朝から、皆の動きが早い」
ミディアは、その様子を眺めた。
「理由は、単純だと思います」
「聞かせてください」
「自分たちの仕事が、意味を持つと実感できたからです」
アイロスは、少しだけ眉を上げた。
「……自覚は?」
「いいえ」
ミディアは、正直に答えた。
「私は、ただ現実を整理しただけです」
アイロスは、短く笑った。ほんの一瞬の、気づかなければ見逃すような表情。
「それができる人間は、意外と少ない」
その言葉に、ミディアは返事をしなかった。ただ、視線を外に向ける。
夕方、村からの使いが政庁を訪れた。北側集落の村長だ。慣れない様子で、帽子を手に持ち、深々と頭を下げる。
「……先ほどは、ありがとうございました」
誰に向けた言葉なのか、迷っているようだった。
「こちらこそ。状況を教えてくださって、助かりました」
ミディアが答えると、村長は驚いたように顔を上げた。
「いえ、その……王都のお役人様は、もっと、こう……」
言葉を濁す彼に、ミディアは首を振る。
「私は、決める立場ではありません。伝える立場です」
村長は、しばらく考え込んだ後、ゆっくりと頷いた。
「……分かりました。なら、正直に話します」
その後の会話は、短くも濃いものだった。収穫量、冬の備え、人手の不安。どれも、報告書には書き切れない、生の声だ。
村長が帰った後、政庁の中に、微妙な変化が生まれていた。職員たちの視線が、以前よりも真っ直ぐになっている。
「……ミディア様」
先ほどの事務官が、廊下で声をかけてきた。
「村の方が、『話を聞いてもらえた』と喜んでいました」
ミディアは、少しだけ目を細めた。
「それなら、よかったです」
それ以上の言葉は、必要なかった。
夜、宿舎に戻ると、疲労が遅れて押し寄せてきた。椅子に腰を下ろし、深く息を吐く。
――私は、評価され始めている。
そう自覚した瞬間、胸の奥に、微かな戸惑いが生まれる。王宮では、評価は重荷だった。期待と役割が、必ずセットでついてきたからだ。
だが、ここでは違う。
評価は、仕事の結果に対するもの。
人として、誰かの所有物になるわけではない。
「……悪くないですね」
再び、その言葉が口をついた。
窓の外では、辺境の夜が静かに広がっている。遠くで、焚き火の明かりが揺れていた。
ミディア・バイエルンという名は、まだ小さな波紋にすぎない。
だが、その波紋は、確実に広がり始めていた。
それを、まだ王都の誰も知らない。
4
あなたにおすすめの小説
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
復讐のための五つの方法
炭田おと
恋愛
皇后として皇帝カエキリウスのもとに嫁いだイネスは、カエキリウスに愛人ルジェナがいることを知った。皇宮ではルジェナが権威を誇示していて、イネスは肩身が狭い思いをすることになる。
それでも耐えていたイネスだったが、父親に反逆の罪を着せられ、家族も、彼女自身も、処断されることが決まった。
グレゴリウス卿の手を借りて、一人生き残ったイネスは復讐を誓う。
72話で完結です。
私を利用するための婚約だと気付いたので、別れるまでチクチク攻撃することにしました
柚木ゆず
恋愛
※22日、本編は完結となりました。明日(23日)より、番外編を投稿させていただきます。
そちらでは、レオが太っちょレオを捨てるお話と、もう一つ別のお話を描く予定となっております。
婚約者であるエリックの卑劣な罠を知った、令嬢・リナ。
リナはエリックと別れる日まで、何も知らないフリをしてチクチク攻撃することにしたのでした。
【完結】陛下、花園のために私と離縁なさるのですね?
紺
ファンタジー
ルスダン王国の王、ギルバートは今日も執務を妻である王妃に押し付け後宮へと足繁く通う。ご自慢の後宮には3人の側室がいてギルバートは美しくて愛らしい彼女たちにのめり込んでいった。
世継ぎとなる子供たちも生まれ、あとは彼女たちと後宮でのんびり過ごそう。だがある日うるさい妻は後宮を取り壊すと言い出した。ならばいっそ、お前がいなくなれば……。
ざまぁ必須、微ファンタジーです。
【完結】貴方の後悔など、聞きたくありません。
なか
恋愛
学園に特待生として入学したリディアであったが、平民である彼女は貴族家の者には目障りだった。
追い出すようなイジメを受けていた彼女を救ってくれたのはグレアルフという伯爵家の青年。
優しく、明るいグレアルフは屈託のない笑顔でリディアと接する。
誰にも明かさずに会う内に恋仲となった二人であったが、
リディアは知ってしまう、グレアルフの本性を……。
全てを知り、死を考えた彼女であったが、
とある出会いにより自分の価値を知った時、再び立ち上がる事を選択する。
後悔の言葉など全て無視する決意と共に、生きていく。
冷遇妻に家を売り払われていた男の裁判
七辻ゆゆ
ファンタジー
婚姻後すぐに妻を放置した男が二年ぶりに帰ると、家はなくなっていた。
「では開廷いたします」
家には10億の価値があったと主張し、妻に離縁と損害賠償を求める男。妻の口からは二年の事実が語られていく。
婚約破棄されたのでファンシーショップ始めました。 ― 元婚約者が、お人形さんを側室にしようとして大恥をかきました ―
鷹 綾
恋愛
隣国の王子から「政略的にも個人的にも魅力を感じない」と婚約破棄された、ファンタジア王国第三女王タナー。
泣きも怒りもせず、彼女が考えたのは――「いつか王宮の庇護がなくなっても困らない生き方」だった。
まだ八歳。
それでも先を見据え、タナーは王都の片隅で小さなファンシーショップを開くことを決意する。
並ぶのは、かわいい雑貨。
そして、かわいい魔法の雑貨。
お茶を淹れてくれるクマのぬいぐるみ店員《テイデイ・バトラー》、
冷めないティーカップ、
時間になると小鳥が飛び出すアンティーク時計――。
静かに広がる評判の裏で、
かつての元婚約者は「お人形さんを側室にしようとして」赤っ恥をかくことに。
ざまぁは控えめ、日常はやさしく。
かわいいものに囲まれながら、女王は今日も穏やかにお店を開けています。
---
この文面は
✔ アルファポリス向け文字数
✔ 女子読者に刺さるワード配置
✔ ネタバレしすぎない
✔ ほのぼの感キープ
を全部満たしています。
次は
👉 タグ案
👉 ランキング用超短縮あらすじ(100字)
どちらにしますか?
婚約者が選んだのは私から魔力を盗んだ妹でした
今川幸乃
恋愛
バートン伯爵家のミアの婚約者、パーシーはいつも「魔法が使える人がいい」とばかり言っていた。
実はミアは幼いころに水の精霊と親しくなり、魔法も得意だった。
妹のリリーが怪我した時に母親に「リリーが可哀想だから魔法ぐらい譲ってあげなさい」と言われ、精霊を譲っていたのだった。
リリーはとっくに怪我が治っているというのにずっと仮病を使っていて一向に精霊を返すつもりはない。
それでもミアはずっと我慢していたが、ある日パーシーとリリーが仲良くしているのを見かける。
パーシーによると「怪我しているのに頑張っていてすごい」ということらしく、リリーも満更ではなさそうだった。
そのためミアはついに彼女から精霊を取り戻すことを決意する。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる