白い仮面の結婚を捨てた私が、裁かれない場所を作るまで

ふわふわ

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第30話 名付けない誓約

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第30話 名付けない誓約

 

 第三の場所は、
 まだ名前を持たなかった。

 

 それは意図的だった。

 

「名前を付けた瞬間、
 役割が固定される」

 

 ジェシカは、
 古い石造りの建物の中を歩きながら言った。

 

 高い天井。
 かつて書庫だった名残の棚。
 埃の匂い。

 

「ここは、
 何になるんですか」

 

 年若い女性が、
 不安そうに尋ねる。

 

「まだ、
 何にもなりません」

 

 ジェシカは、
 歩みを止めて振り返った。

 

「なる“前”の場所です」

 

 それは、
 制度の言葉では説明できない状態。

 

 だからこそ――
 制度の外に置く必要があった。

 

 最初の誓約は、
 驚くほど短かった。

 

 ここで語ったことは、
 ここで消さない。
 だが、
 外に出す義務もない。

 

 署名も、印章もない。

 

 誓うのは、
 相手ではなく、
 場所そのもの。

 

 補佐官が、低く言った。

「これでは、
 責任の所在が曖昧だ」

 

「ええ」

 

 ジェシカは、頷いた。

 

「だから、
 責任を押し付けられない」

 

 沈黙。

 

 それは、
 制度に慣れた者ほど
 不安になる構造だった。

 

「ここで、
 誰が何を決めるんですか」

 

「誰も」

 

 即答。

 

「決めたい人が、
 決めるだけ」

 

 午後。

 最初の“集まり”が行われた。

 

 議題はない。
 司会もいない。

 

 ただ、
 円になるように
 椅子が並べられている。

 

 しばらく、
 誰も口を開かなかった。

 

 年若い女性が、
 ようやく言った。

 

「……
 拒否したあと、
 毎朝、
 息がしづらかった」

 

 それだけ。

 

 理由も、説明もない。

 

 誰も、
 評価しない。

 

 ただ、
 聞いた。

 

 次に、
 法務院の補佐官が口を開く。

 

「私は、
 制度を守る側です」

 

 一拍、置いて。

 

「それでも、
 守れなかった人が
 いると知っている」

 

 それ以上、
 言葉は続かなかった。

 

 ジェシカは、
 何も言わない。

 

 この場所では、
 彼女もまた、
 ただの一人だった。

 

 夕方。

 誰かが言った。

 

「……
 ここ、
 戻ってきてもいいですか」

 

 それは、
 許可を求める言葉ではない。

 

 確認だった。

 

 ジェシカは、
 静かに頷いた。

 

「いつでも」

 

 その日、
 誰も“結論”を持ち帰らなかった。

 

 だが。

 

 誰も、
 何かを置いていった。

 

 夜。

 アルヴィンが、
 屋敷で言った。

 

「敵が、
 動くぞ」

 

「ええ」

 

 ジェシカは、
 窓の外を見る。

 

「名前のないものは、
 一番、怖がられる」

 

 だから、
 潰されるか、
 奪われる。

 

 だが――

 

 名前を付けなければ、
 奪えない。

 

 制度は、
 分類できないものを
 扱えない。

 

 白い仮面は、
 まだ割れていない。

 

 だが。

 

 仮面の外でも内でもない場所で、
 人が呼吸を始めた。

 

 それだけで――
 十分な、
 変化だった。
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