婚約破棄されたので、もう誰の役にも立たないことにしました 〜静かな公爵家で、何もしない私の本当の人生が始まります〜

ふわふわ

文字の大きさ
31 / 39

第31話 それでも、手を伸ばす時は来ます

しおりを挟む
第31話 それでも、手を伸ばす時は来ます

 その変化は、
 音もなく、
 予告もなく訪れた。

 朝食を終え、
 庭に出ようとしたとき、
 使用人の一人が、
 いつもより硬い表情で近づいてきた。

「……エリシア様」

 声が、少しだけ低い。

「公爵様より、
 執務棟へ来てほしいとのことです」

(……珍しい)

 呼ばれること自体が、
 久しぶりだった。

 しかも、
 “用件”をぼかしたまま。

「分かりましたわ」

 私は、
 深呼吸を一つしてから、
 歩き出す。

 胸は、ざわついていない。

 以前の私なら、
 理由が分からない呼び出しは、
 不安の塊だった。

 責められるのではないか。
 期待に応えられなかったのではないか。

 でも今は。

(……何かが起きた、
 それだけですわね)

 執務棟に入ると、
 空気が、少しだけ張り詰めていた。

 走り回る使用人はいない。
 怒号もない。

 だが、
 どこか、
 “慎重さ”が増している。

 扉の前で一礼し、
 中に入る。

 アルトゥール・クロイツ公爵は、
 机に向かったまま、
 視線を上げた。

「来てくれたか」

「はい」

 室内には、
 もう一人、
 見慣れない文官が立っている。

 表情は硬く、
 しかし、焦ってはいない。

「状況を、
 簡単に説明する」

 アルトゥール公爵は、
 端的だった。

「隣接領との取引で、
 小さな齟齬が生じている」

「……小さな、ですか」

「今のところはな」

 彼は、
 言葉を選ぶことなく続ける。

「だが、
 このまま放置すれば、
 双方が“相手の非”を
 意識し始める」

 それは、
 静かな崩れ方の前兆だった。

 私は、
 黙って話を聞く。

「君に、
 判断を任せるつもりはない」

 アルトゥール公爵は、
 はっきりと言った。

「ただ、
 空気を見てほしい」

 その言葉に、
 私は少しだけ驚いた。

(……空気、ですか)

 解決策でも、
 決断でもない。

 “空気”。

「双方とも、
 正しさを主張するほど
 間違ってはいない」

「……ええ」

 だからこそ、
 厄介なのだ。

「君なら、
 どこで人が硬くなるか、
 分かるだろう」

 私は、
 ゆっくりと息を吸った。

(……前に出るわけでは、ありませんわね)

 判断を下す役ではない。
 責任を負う役でもない。

 でも。

(……見る、ことはできる)

 私は、
 静かに頷いた。

「お話だけ、
 伺わせてください」

 文官が、
 少しだけ肩の力を抜いた。

 彼は、
 取引の経緯を説明する。

 数字。
 日程。
 手続き。

 どれも、
 致命的な問題ではない。

 けれど、
 説明の端々に、
 小さな引っかかりがあった。

(……ここですわね)

 言葉の選び方。
 強調の仕方。
 省かれている部分。

 私は、
 ある一点で口を開いた。

「確認ですが……
 この変更は、
 “決定事項”ではなく、
 “提案”だったのですね」

 文官は、
 一瞬だけ言葉に詰まり、
 そして頷いた。

「……はい。
 そのつもりでした」

 アルトゥール公爵が、
 静かに言葉を足す。

「相手には、
 決定に聞こえた可能性があるな」

 文官の表情が、
 はっと変わる。

「……そうか」

 私は、
 それ以上言わなかった。

 指摘もしない。
 責めもしない。

 ただ、
 “見えたこと”を
 一つ置いただけだ。

 部屋の空気が、
 少しだけ緩む。

 問題は、
 まだ解決していない。

 でも、
 悪化する未来が、
 一つ消えた。

 話が終わり、
 文官が退出したあと、
 アルトゥール公爵は
 私を見た。

「……やはり、
 君を呼んで正解だった」

「私は、
 何も決めていません」

「それでいい」

 彼は、
 淡々と答える。

「手を伸ばすべき時と、
 伸ばさない時を、
 君は分かっている」

 その言葉に、
 胸の奥が、静かに震えた。

 前に出ない。
 背負わない。

 でも――
 見過ごさない。

 夜、部屋に戻り、
 私は椅子に腰を下ろした。

(……来ましたわね)

 “何もしない”だけでは、
 守れない瞬間。

 でも、
 全てを引き受ける必要もない瞬間。

 その境目に、
 私は立っていた。

 手を伸ばす時は、
 確かに来る。

 けれどそれは、
 自分を犠牲にするためではない。

 壊れない距離を保ったまま、
 必要な分だけ、
 そっと触れるため。

 灯りを落としながら、
 私は静かに思った。

 前に出ない私でも、
 目を閉じているわけではない。

 そして――
 伸ばした手は、
 まだ、
 ちゃんと私のものでした。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

好きだった幼馴染みに再会→婚約者を捨ててプロポーズした侯爵令息

星森
恋愛
侯爵家の令息エドモンドは、幼い頃に結婚を誓い合った幼馴染コレットへの執着を捨てられずにいた。 しかし再会した彼女は自分を避け、公爵令息アランと親しくする姿ばかりが目に入る。 嫉妬と焦燥に駆られたエドモンドは、ついに“ある計画”に手を染めてしまう。 偶然を装った救出劇、強引な求愛、婚約破棄── すべてはコレットを取り戻すためだった。 そして2人は……? ⚠️本作はAIが生成した文章を一部に使っています。

王太子に婚約破棄されてから一年、今更何の用ですか?

克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しいます。 ゴードン公爵家の長女ノヴァは、辺境の冒険者街で薬屋を開業していた。ちょうど一年前、婚約者だった王太子が平民娘相手に恋の熱病にかかり、婚約を破棄されてしまっていた。王太子の恋愛問題が王位継承問題に発展するくらいの大問題となり、平民娘に負けて社交界に残れないほどの大恥をかかされ、理不尽にも公爵家を追放されてしまったのだ。ようやく傷心が癒えたノヴァのところに、やつれた王太子が現れた。

善人ぶった姉に奪われ続けてきましたが、逃げた先で溺愛されて私のスキルで領地は豊作です

しろこねこ
ファンタジー
「あなたのためを思って」という一見優しい伯爵家の姉ジュリナに虐げられている妹セリナ。醜いセリナの言うことを家族は誰も聞いてくれない。そんな中、唯一差別しない家庭教師に貴族子女にははしたないとされる魔法を教わるが、親切ぶってセリナを孤立させる姉。植物魔法に目覚めたセリナはペット?のヴィリオをともに家を出て南の辺境を目指す。

虚弱で大人しい姉のことが、婚約者のあの方はお好きなようで……

くわっと
恋愛
21.05.23完結 ーー 「ごめんなさい、姉が私の帰りを待っていますのでーー」 差し伸べられた手をするりとかわす。 これが、公爵家令嬢リトアの婚約者『でも』あるカストリアの決まり文句である。 決まり文句、というだけで、その言葉には嘘偽りはない。 彼の最愛の姉であるイデアは本当に彼の帰りを待っているし、婚約者の一人でもあるリトアとの甘い時間を終わらせたくないのも本当である。 だが、本当であるからこそ、余計にタチが悪い。 地位も名誉も権力も。 武力も知力も財力も。 全て、とは言わないにしろ、そのほとんどを所有しているこの男のことが。 月並みに好きな自分が、ただただみっともない。 けれど、それでも。 一緒にいられるならば。 婚約者という、その他大勢とは違う立場にいられるならば。 それだけで良かった。 少なくとも、その時は。

壊れていく音を聞きながら

夢窓(ゆめまど)
恋愛
結婚してまだ一か月。 妻の留守中、夫婦の家に突然やってきた母と姉と姪 何気ない日常のひと幕が、 思いもよらない“ひび”を生んでいく。 母と嫁、そしてその狭間で揺れる息子。 誰も気づきがないまま、 家族のかたちが静かに崩れていく――。 壊れていく音を聞きながら、 それでも誰かを思うことはできるのか。

【完結】冤罪で殺された王太子の婚約者は100年後に生まれ変わりました。今世では愛し愛される相手を見つけたいと思っています。

金峯蓮華
恋愛
どうやら私は階段から突き落とされ落下する間に前世の記憶を思い出していたらしい。 前世は冤罪を着せられて殺害されたのだった。それにしても酷い。その後あの国はどうなったのだろう? 私の願い通り滅びたのだろうか? 前世で冤罪を着せられ殺害された王太子の婚約者だった令嬢が生まれ変わった今世で愛し愛される相手とめぐりあい幸せになるお話。 緩い世界観の緩いお話しです。 ご都合主義です。 *タイトル変更しました。すみません。

今まで尽してきた私に、妾になれと言うんですか…?

水垣するめ
恋愛
主人公伯爵家のメアリー・キングスレーは公爵家長男のロビン・ウィンターと婚約していた。 メアリーは幼い頃から公爵のロビンと釣り合うように厳しい教育を受けていた。 そして学園に通い始めてからもロビンのために、生徒会の仕事を請け負い、尽していた。 しかしある日突然、ロビンは平民の女性を連れてきて「彼女を正妻にする!」と宣言した。 そしえメアリーには「お前は妾にする」と言ってきて…。 メアリーはロビンに失望し、婚約破棄をする。 婚約破棄は面子に関わるとロビンは引き留めようとしたが、メアリーは婚約破棄を押し通す。 そしてその後、ロビンのメアリーに対する仕打ちを知った王子や、周囲の貴族はロビンを責め始める…。 ※小説家になろうでも掲載しています。

処理中です...