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「瀬乃生くーん、ここの見積りやり直してー」
「あ、はいっ」
瀧はデスクから顔を上げると声を掛けてきた先輩社員から見積書を受け取りに立ち上がる。
「そいえば今日、藤沢商事と合コンあるけど行く?一人ドタキャンでさー、メンバー足りないのよ」
「あー、いや。すいません」
「いーの、いーの、瀬乃生くん誘った俺が悪い」
先輩社員のちらりとした視線を左手の指輪で受けると瀧は曇りのない明るい笑顔でこたえる。
「未練たらしいですよね」
「いやー、瀬乃生くんみたいなイケメンなら俺も待たれたーい」
先輩社員は笑いながらもう行っていいよと手のひらを振りながらパソコンに向き直り仕事に戻る。
瀧は今年の五月で23歳になる。
ヒューと別れてから丸二年が経とうとしていた。
あの別れの日から数ヶ月間は鳴らないスマホを見つめ、連絡を取ろうとしてスマホを手に取るが、ヒューの言った言葉のひとつひとつを思い出しては反芻し、ヒューがあの時何を言いかけたのかを考えて、やっぱり連絡をするのを止めて‥。を繰り返す日々が続いた。
あの時、ヒューは時間が欲しいと言った。瀧とは一緒に暮らす自信が無いとも。
だから瀧は待とうと思った。自分の気が済むまで。外せない結婚指輪も、いつか蛇が脱皮する様にするりと抜ける日が来るのだと思って。
大学を卒業し、ショッピングモールの企画営業職に就いた新入社員の瀧は周りの同僚からその見た目の良さに二度見されたあと左手の指輪に気付かれよく話題にされていた。
瀧も今はもう躊躇うことなく指輪の経緯を話すことが出来た。
大学時代に結婚指輪を渡した人がいたこと。別れてしまった今も指輪を外せないでいること。
女々しいと裏で笑われようと瀧は平気だった。ヒューという存在が心にまだいることは決して揺るがない事実だったからだ。
よく晴れた日曜、今も実家で暮らしている瀧はスーツのネクタイを整えるとリビングに顔を出した。
「ねーちゃん、まだ?」
「ねえ、ほんと。あの子遅いわあ」
茗子も上品なワンピースで和彦もスーツと二人ともしっかりとした出立ちだ。
「わー、遅れそう!」
そこへバタバタと二階から降りてくる静湖も華やかに身なりを整えている。
「タクシー待ってるわよ。早く行きましょ」
「相手方に静湖のずぼらがバレないうちになあ」
茗子と和彦が腰掛けていたダイニングの椅子から立ち上がる。
静湖は昨年の冬に伴侶となる相手に出会い、早々に結婚することを決め、今日はその相手の家族と瀧の家族とで初顔合わせだ。
タクシーに乗り込んだあと隣のシートに座る静湖が瀧の指輪に気付くとしょうがないなあ、と小さなため息吐きながらいつもより優しい口調で話しかける。
「たーきー、それ、外してってよ」
静湖は瀧の指輪を目で指す。
「相手の両親に弟さんは結婚してるんですか?なんて突っ込まれたら返し様がないでしょ」
「はいはい」
瀧は素直に指輪を外すとスーツの胸ポケットに仕舞い込んだ。
タクシーが目的のホテルに止まり、瀧の家族たちはホテル内の料亭へ向かうと店の入り口に居るスタッフに声を掛ける。その後ろで新たに人の入ってくる気配があり、別のスタッフが対応するために瀧の横を通り過ぎると忘れもしない声が瀧の耳に届いた。
「予約したアンドロシュだが」
瀧の身体は勝手に反応してしまい声の方へ振り向いた。そこにはヒューと30代前半くらいのフレームレスの眼鏡を掛けた穏やかで知的な男がいた。
ヒューもすぐに瀧に気付くと目を見開き驚いた様子だったが、拳を口に当てこほんと息を吐くと瀧の名を呼んだ。
その声は少し震えて掠れていて、瀧の胸は締め付けられた。
瀧の様子とヒューの存在に気が付いた静湖は「あんたは腹が痛くなってトイレに籠ってるってことにしとくらから」と言い残すと両親と共に店の奥に入って行った。
瀧はヒューの隣にいる男をちらりと覗く。
今の恋人だろうか。大人で知的な男だ。落ち着いていて、ただ二人の様子をじっと見ている。
平静を装って声を掛けるが瀧の心の中は穏やかではない。
「久しぶり、ヒュー元気だった?」
ヒューはふらりと熱に浮かされたようにこちらに寄ると瀧の左手を取り両手でそれを包み込むと頬ずりしそうな勢いで自らの顔に近づけた。
「瀧‥‥!」
握るヒューの手の感触の中に硬さを感じて見れば彼の左手の薬指には瀧が贈った結婚指輪が嵌ったままだった。
胸に熱いものが込み上げできて瀧はそれを飲み込んだ。鼓動が速くなっているのが自分でも分かる。何か言わなければならない気がしたが、込み上げる熱に押しつぶされそうで言葉が出てこなかった。
「ヒュー、今日の食事は延期にしましょう。また後日改めて」
二人の沈黙を眼鏡の男が破った。ヒューは瀧の手を離さないまま男の方へ向く。
「ああ、すまない。助かる。彼は瀬乃生瀧。私と婚約してた人だ」
婚約してた人。過去形の紹介に瀧はわかっているはずなのに胸が痛かった。
「野田です。はじめまして。色々お話し伺いたいけれど、それはまた別の機会に。では」
それだけ言うと野田はあっさり帰ってしまった。少し拍子抜けしているとヒューが瀧の手を引いた。
「瀧、ちょっと歩かない?」
ホテルに併設する日本庭園は美しく手入れされており新緑の季節の今は緑が眩しい。
木漏れ日の落ちる大きな樹木の下でヒューは立ち止まる。
「その、瀧にずっと会いたかった」
「‥‥うん」
「でも、会いに行けなくて」
ヒューは握っていた瀧の手を再び顔に寄せると瀧の指先をそっと持つ。
差し出した瀧の左手の薬指にはタクシーの中で抜いた指輪の跡が残っていた。
「‥‥瀧は私を待っててくれた?この跡は私との指輪?」
先ほど左手を握った時、瀧の指輪の跡に気が付いたのだろう。ヒューの切なそうな青い瞳の眼差しの中には強く暗い色がある。
「それとも他の誰か?」
「‥‥‥ヒューのこと、待ってた」
瀧が胸ポケットから指輪を出しそれを自分の薬指に嵌めたとたんヒューはめいいっぱい瀧を抱きしめた。
「ずっとずっと瀧がもう他の誰かと幸せになってたらどうしようって、不安だった。気持ちだけが焦って‥。でも私は瀧の望みを叶えられないままで‥!」
瀧はヒューの腕の中で彼の言葉が理解できず困惑する。
「俺の望みって?」
「‥‥瀧を受け入れたかったけど私の身体は瀧を拒んでいたから」
瀧と言い争いになった夜、ヒューは自分が身体を開かないことで瀧の気持ちを不安定にさせているのだと知った。
悩んだ結果、すぐに瀧にこたえることができないヒューは距離を置くことに決めた。そばにいても自分がそれを許さない限りは瀧を傷つけ続けると思ったからだ。
ヒューはあの時、瀧に二人が暮らしたあのマンションで待ってて欲しいと言いたくて口を開いたのだが、それを告げることは瀧をさらに縛るように思えて言うことが出来なかった。
彼をものみたいに扱ったつもりはなかったが、その言葉はあの喧嘩の時のように瀧の気持ちを荒立ててしまうようで恐かったのだ。
「さっきの彼‥、野田さんは私のカウンセラーなんだよ」
「カウンセラー?」
瀧と別れた後、ヒューは自分を縛る過去の思い出を乗り越えたくて、すぐに心理カウンセリングを受けた。しかし、彼の心の枷はなかなか外れてくれなかった。
「野田さんで三人目のカウンセラーなんだ」
ヒューはちょっとばつが悪そうに下を向いた。
「瀧を受け入れられるようになったら会いに行こうって気ばかり急いて‥」
それほどまでにヒューは自分のことを思ってくれていたのかと思うとどうしようもなく瀧の胸は高鳴り、二年間ずっと考え続けた気持ちを瀧はヒューに曝け出した。
「ヒュー。俺‥、ヒューを抱きたかった。好きだったから全部俺のものにしたかった。でも、本当はそれだけじゃなかったのかも」
瀧はヒューを征服すれば、ヒューに敵わないことに傷ついている自分の小さなプライドが満たされると心のどこかで思っていた。
けれど瀧はずっとヒューに理解して欲しかったのかもしれない。その自分の小さなプライドすらも。
「ごめん、ヒュー」
瀧はきつく抱きしめてくるヒューの背中に腕を回すと拳が白くなるくらい強くヒューの着ている上着を掴んだ。
「でも、好きなんだよ‥!」
瀧を抱き締めていたヒューはさらに息が溢れそうなくらいその腕に力を込めた。
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