白い結婚で結構ですわ。愛人持ちの夫に興味はありません

鍛高譚

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第1章:王太子の愛する人は別にいるそうですわ

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深く透き通る紺碧の空。太陽がまばゆい光を放ち、王都の石畳を鮮やかに照らしている。そんな真昼の朗らかな光の下、わたくしは窓際に佇みながら、一冊の古書を手に取っていた。まるで芸術品のように美しく装丁されたその書物は、まことに心を踊らせる。背表紙に金の細工が施されており、ページをめくるたびに微かな香りまで感じられるのが、わたくしはたまらなく好きだった。

 わたくしの名前はルチアーナ・ヴェルディ。ヴェルディ公爵家の令嬢として生まれ、日々を優雅に過ごしている。わたくしの家系であるヴェルディ公爵家は、王国の中でも特に由緒正しく、かつ政治的にも重んじられる家柄。代々続いてきた血筋と名誉、そして王家との強い繋がりのおかげで、わたくしは幼い頃から王太子殿下——アルベルト・エルウィン様——の婚約者として身分を定められていた。

 王太子殿下の婚約者になるというのは、名誉でもあり重責でもある。周囲からは「未来の王妃になるお方だ」「いずれは国母として国を導くお方だ」と、わたくしに期待と注目を寄せてくれる人も少なくはない。だが、わたくし自身はそれをどう受け止めているかといえば……正直、あまり興味がないのだ。むしろ、以前から「王太子妃としての立場に縛られるのは面倒だわ」と常々考えていたほどである。

 しかし、公爵家の令嬢としては国や家のことを第一に考えなくてはならない。自分のやりたいことだけを追い求めて、責任を放棄するわけにはいかない立場でもある。そうやって幼い頃から厳格な両親に教育され、わたくしもある程度は覚悟を決めていた。王妃となること自体を忌避しているわけではない。むしろ「自分の人生における大きな役目」として、きちんと受け止めていこうと思っていたのだ。

 けれども、最近になってわたくしは気づいてしまった。婚約者である王太子殿下が、公的な場面では誰から見ても「完璧なお方」に見えるのに、プライベートではその……お世辞にも好かれる人物ではないかもしれない、ということを。もちろん、わたくしは嫌っているわけではないのだが、どうにも価値観が合わないといおうか、会話をしていても噛み合わないというか……そんな戸惑いを抱いていた。

 アルベルト様は勉強も武芸も優秀で、王宮の周囲から絶大な信頼を得ている。所作も洗練され、まるで教科書のように模範的な王太子殿下であると評判だ。だが、その一方で、彼は「自分の思い通りにならないもの」に興味を示す癖がある。それ自体は人として自然かもしれないが、どうにもその執着が激しいらしいのだ。わたくしにも突拍子もない要求をしてくることがある。会話をしていても、「次はどんな提案をしてくるのだろう」と内心ではいつも警戒している自分がいる。もっとも、わたくしは笑顔で対応はしているのだけれど。

 王太子殿下とわたくしの関係は、少なくとも表向きは誰もが羨む形で固められていた。わたくしも望まれた通りに振る舞い、将来は王妃として王国を支えるのが当然だと教えられて育った。そんな日々が淡々と続く……そう思っていたのだが。

 この日の午後、殿下から「大事な話がある」と内密に呼び出された。わたくしはそれを聞いた瞬間、「また面倒事かしら」と思いはしたものの、王太子殿下の招集を断るわけにもいかない。仕方なく、宮殿の奥にある応接室へ向かった。そこは王太子殿下の私室に隣接する部屋で、絢爛豪華な調度品が並び、窓からはバラ園が一望できるという素晴らしい場所である。

 部屋へ入ると、既にアルベルト様がお待ちだった。彼は窓際に立ち、外の庭を見下ろしながら微かに溜息をついている様子だ。いつもの自信に満ちた笑みとは違い、やや元気がないように見えた。その横顔を見て、わたくしは一瞬胸がざわついた。アルベルト様にも、こうして思い悩むことがあるのだな、と意外に思ったのだ。

「殿下。お呼びだと伺いまして参りました。いかがなさいましたか?」

 わたくしがそう声をかけると、アルベルト様は振り返った。その瞳には、わたくしが見たことのない複雑な感情が宿っている。どこか躊躇を含んだ視線で、わたくしをじっと見つめる。わたくしは自然と背筋を伸ばした。

「ルチアーナ……。先に謝っておく。おまえを傷つけるかもしれない。だが、どうしても伝えねばならんことがある」

 そう言うと、アルベルト様は再び深い溜息を漏らした。彼がわたくしを名前で呼び捨てにするのは、誰もいない私的な空間だけだ。それ自体はいつものことなのだが、どこか切羽詰まった様子だったので、わたくしも少しだけ緊張してしまう。

「わたくしを……傷つけること、ですか?」

「……ああ。これは王太子として不甲斐ないと思われても仕方がない。だが、言わなければ始まらない。ルチアーナ、おまえもすぐに察するだろうが……おまえとの婚姻は、すでに形骸化しているに過ぎないのだ」

 形骸化、と言われた瞬間、わたくしは思わず「え?」と聞き返しそうになった。だが、続く言葉を待つために口をつぐむ。アルベルト様は少し眉をひそめたように見えたが、意を決したように話を続けた。

「おまえとの縁談は、国のため、家のために進められた政略結婚だ。もとより感情を挟む余地はなかったのはわかっている。だが……近ごろ、私は本当に心を惹かれる女性と出会ってしまったのだ」

 その言葉を聞いて、わたくしは胸の中で「ああ、やっぱりそういうことね」と冷静に納得してしまった。幼い頃からの馴染みとはいえ、アルベルト様はわたくしに対して熱烈な愛情を向けていたわけでもない。表向きは「相性が良い」と言われているが、実際のところ、わたくしと殿下は互いに無理をしてでも相手に合わせている部分が大きかった。

 それでも、こうして恋人を作る、というのは重大な裏切りにあたるかもしれない。普通なら令嬢は逆上し、嘆き、殿下を責め立てることであろう。だが、わたくしの感情は正反対だった。

(やっと……! やっとこの窮屈な縁談から解放される可能性が出てきたわ!)

 内心でわたくしは、驚くほど清々しい気持ちになっていた。けれど、もちろんここで表にそれを出すわけにはいかない。王太子殿下が告げる重大事項を最後まで聞き届ける義務がある。

 アルベルト様は一瞬、わたくしの顔色をうかがうように見つめる。その瞳には罪悪感が宿っているようでもあり、同時に「今さら後戻りはできない」という覚悟も見えた。

「相手は平民の女性だ。名前はリリア。偶然、城下町で出会って助けたことをきっかけに、話をするようになった。彼女はごく普通の家庭に生まれた娘だが、とても優しい心を持っていて、困っている人を放っておけない。おまえのような高貴さや知性とはまるで違うが、その飾らない姿に私は強く惹かれたのだ」

 さらりと言われたが、これがもし世間に広まったとしたら、王太子が平民の娘を愛しているなど一大スキャンダルだろう。しかし、アルベルト様はそれをも承知で告白しているようだった。彼の真っ直ぐな視線からは、今後もリリアという女性を諦めるつもりはないと強く伝わってくる。つまり、この段階でわたくしに求められているのは「どう反応を示すか」である。

(なるほど。ここでわたくしが怒って修羅場になったら、それこそ殿下も困るし、国中にも動揺が広がる。あるいは逆に、わたくしが無理やり殿下を引き留めようとすれば、彼はさらにわたくしを疎ましく思うに違いない。だが……わたくしからすれば、大歓迎の話よね、これは)

 わたくしの脳裏には、先ほど読んでいた古書の一節がよぎった。そこには「白い結婚」と称された関係が描かれていた。お互い愛している人が別におり、政略上だけ夫婦を演じるという、実質的には夫婦関係を結ばない形式の結婚。それは昔の物語として記されていただけで、現実にはそうそうない話だと思っていた。だが、ここにきてまさかそれに近い状況が訪れるとは……。

 アルベルト様は、さらに言葉を継ぐ。

「私はルチアーナを嫌っているわけではない。むしろ、おまえの気品や賢さは王家にとっても必要なものだと思っている。だが、どうしても心が追いつかないのだ。王太子として、おまえとの政略結婚を破棄するわけにはいかない。国の利益を崩してしまえば、おまえの家にも被害が及ぶ。私の父上、つまり国王や大臣たちも、私とおまえとの婚姻には多大な期待を寄せているからな」

「ええ、それは存じておりますわ」

「だが……私はリリアを捨てられない。これが私のわがままだとわかっていても、どうしても心が彼女に向かってしまうのだ。だから、ルチアーナ。もしおまえが許してくれるなら、私たちは“形だけの夫婦”として結婚してくれないだろうか」
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