王太子妃の器ではないと言われましたが、帝国の未来そのものでした

鍛高譚

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5話

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翌朝、澄んだ空気と共に旅は再開した。街道をさらに進むうち、兵士たちの会話からは「そろそろ国境に差しかかる」との声が聞こえる。
 フローラは窓から外をうかがう。国境近くになると、山々や高原の地形が増え、王国の平原とは違う風景が広がっていた。遠くに見える峰々の連なりが厳かな気配を醸し出している。
 やがて、両国の国境の砦が見えてきた。立派な石造りの城塞がそびえ、そこにはラグナ帝国の紋章が掲げられている。まるでこれから先が、フローラにとっての新世界だと告げているようだ。
 何人かの兵士が砦の門を開け、馬車が通り抜ける。すると、今度は見渡す限り岩肌が露出した荒涼とした道が続き、その先に――ラグナ帝国の領内が広がっていた。
 エドガーが馬車越しに声をかけてくる。
「ここから先が、ラグナ帝国です。しばらく険しい道が続きますが、皇太子殿下のお出迎えがあるところまでは、そう遠くありませんので」
「……皇太子殿下が、私を迎えてくださるのですか?」
 思わず聞き返すフローラに、エドガーはうなずく。
「はい。すでに殿下は私たちと別ルートで移動中と聞いております。陛下(皇帝陛下)からの公務の一環で国境周辺を視察されており、そのままお姿を見せてくださるとか。もちろん、正式なご対面は帝都に着いてからとなりますが、途中で一度お顔をお見せになる予定かと」
 まさか本人がわざわざ出向いてくれるなど、フローラには想定外だった。敵国の皇太子だというのに、どこか誠意を感じさせる対応だ。
 それはアルベルトがフローラに見せたことのない「花嫁への配慮」でもあった。かつて、アルベルトはフローラに「一度も自分で迎えに行く」と言ってくれたことなどない。それどころか、粗雑に扱うばかりだったのだ。
 そうした思い出が脳裏をよぎりながらも、フローラはただ静かに息を吐く。まだ会ったこともない皇太子クラウスに対して、どんな人物像を想像しても無意味だ。実際に会わなければわからない。
 だが、少なくとも「迎えに出る」という言葉から察するに、ある程度は婚姻の意思を本気で示しているのかもしれない――その程度の曖昧な期待が、ほんの少しだけフローラの心を軽くした。

 午後になり、馬車が山間の道を抜けた頃、先導していた騎士の一団が道を脇によけるように指示を送ってきた。どうやら、ここで何か合流の予定があるようだ。
「殿下がこの先でお待ちとの報告です。馬車を一旦降りていただけますでしょうか」
 エドガーに促され、フローラは外に出る。そこは山に囲まれた大きな盆地のような場所で、ひんやりとした風が通り抜け、空の青さが際立って見えた。
 見渡すと、奥の方からずらりと並んだ騎士団の姿が見える。その中心に、一際目立つ漆黒の軍馬を操っている騎士がいた。流れるようなラインの甲冑とマントを身につけ、遠目に見ても堂々とした雰囲気を醸し出している。
 やがて、その騎士が馬を駆ってこちらへやって来る。周囲の兵士たちがその姿に敬礼の姿勢をとっていることから、よほど高位の人物なのは明らかだった。
 近づいてくる馬の上の人物を見て、フローラはなぜか言葉を失う。
 一見してわかる――美丈夫、という言葉だけでは収まらない存在感を持つ男。鋭い視線と、端正な顔立ち。それでいて、どこか孤高さを感じさせるオーラを放っていた。
 男は馬を止めると、フローラをじっと見つめる。そして、すらりと馬から降り立ち、フローラの目の前で口を開く。
「……お前が、フローラ・フォン・リヴェールか」
 低く、けれどはっきりとした声がフローラの耳に届く。
 フローラは思わずうなずきそうになるが、頬をかすめる風の冷たさを感じて、はっと我に返る。まずは礼を尽くさなければ――。
「は、はい。初めまして、わたくしは……」
 戸惑いながらも礼をしようとすると、男はほんのわずかに口元をゆるめた。
「挨拶はその程度でいい。俺はラグナ帝国の皇太子、クラウス・イーグレッド・ラグナだ。お前をこうして直接迎えに来るのは初めてだが……はは、なかなか大人しそうな娘だな」
 そう言うと、クラウスはフローラに近づき、まるで検分するような視線を向ける。あまりにも突然のことで、フローラは思わず一歩後退しかけたが、それをクラウスは軽く手で制した。
「安心しろ。俺が怖いか?」
「い、いえ……あの、驚いただけです。申し訳ありません」
「謝る必要はない。俺だって、お前がこの国へ嫁ぐことになった経緯は聞いている。政略結婚だと分かっていても、初対面で尻込みするのは当たり前だ」
 その言葉には、どこか優しさが含まれていた。フローラの緊張が、少しだけ解ける。
 クラウスはさらに言葉を続ける。
「王国で散々冷遇されてきたそうだな。――だが、これからは違う。お前は俺の妃となる。ラグナ帝国の皇太子妃だ。誰にも馬鹿にはさせん。俺がそれを許さないからな」
 その言葉に宿る力強さは、フローラの胸に鋭く染み込んでくる。まるで、自分が蔑まれることなどあり得ない――そう断言しているかのようだった。
 フローラは、そんな言葉を人生で初めて聞いた。
「……わたくしは、本当に、何も取り柄がないのです。前の婚約者だった王太子殿下にそう言われてしまいました。ですから、殿下のご期待に沿えるかどうか……」
 自信のなさがにじむフローラの言葉を受け、クラウスは眉をひそめる。
「何もない? そんなわけあるか。お前のことは多少調べさせてもらったが、書類を見る限り、王太子妃教育で学んだことも無駄ではないはずだ。……まあいい。お前がどう思おうと、俺が気に入ったのならそれで充分だ。『何もない』と言われるくらいなら、これから一緒に見つけてやろうじゃないか」
 まるで揺るぎない自信とともに、フローラを「俺が守る」と言わんばかりの口調だった。
 驚きと戸惑いの中で、フローラの胸には弱いながらも光が差し始める。こんなに堂々と「自分が選ばれた意味」を肯定してくれる人がいるなんて、想像したことがなかった。
 同時に、アルベルトや家族たちから否定され続けた自分を、ここまであっさりと受け入れるクラウスという人物に、得体の知れない感情が芽生え始める。畏怖とも安心ともつかない複雑な思い――けれど、どこか温かさを感じるのも事実だった。

 こうして、フローラは初めて自らの「夫」となる相手と対面した。
 それは、王国で過ごした日々の常識をひっくり返すほどに衝撃的で、しかしほんのわずかに「自分も大切にされていいのかもしれない」と思わせてくれる再会――いや、出会いだった。
 フローラが次に口を開いたとき、その声は最初よりもいくぶん安堵が混じっていた。
「……よろしくお願いいたします。殿下のもとで、わたくしは……」
 すると、クラウスはそれを制するように、フローラの手を取る。馬上で威風堂々としていた姿とは打って変わって、その手つきは優しい。
「俺の名はクラウスだ。ここではそう形式張らなくてもいい。『殿下』なんて呼び方は、正式な場以外では不要だ。……フローラ、これからは俺がそばにいる。お前はもう、蔑まれたりすることはない」
「クラウス様……」
 その言葉を噛みしめながら、フローラは初めて胸が満たされていくような感覚を覚えた。
 ――公爵家でも、王太子の婚約者だった頃でも、こんなふうに言葉をかけられたことはない。
 クラウスの瞳には、まるで獲物を狙う猛禽のような鋭さとともに、どこか温かな光が宿っている。フローラは彼の大きな存在感に圧倒されつつも、自分の中に小さな希望の芽が生まれるのを感じた。
 まだ道は始まったばかり。これから帝都へ行き、正式に婚姻を結ぶという大きな儀式が待っている。けれど、フローラの運命がこれまでとはまったく別の方向へ動き出す予感――それが、この山間での出会いの瞬間から確かに満ちていた。

 そう、フローラという一人の娘が「捨てられた公爵令嬢」としての人生を終え、次は「ラグナ帝国の皇太子妃」になる。その幕開けの朝は、晴れやかな空の下、ひそやかに始まったのだった。
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