婚約辞退いたします。だってこの国、沈みますもの

鍛高譚

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第5話

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第5話

~“研究者たち”との出会い、そして王子の帰国報告~

 ガイア王子が隣国を訪ね、マリンと面会してから数日が経った。
 その間、王子は隣国の王宮に公式の挨拶をし、外交儀礼に沿った場で数日を過ごしていた。隣国の国王や高官にも、一通りの説明を済ませたらしく、シリル大使は忙しなく動き回っている。
 一方、マリンはシリルの斡旋で、この国の学問組織――“エール研究院”と呼ばれる施設を訪れる機会を得ていた。天文や地質、気象など多岐にわたる分野の研究者が在籍しており、宮廷の影響を受けにくい独立機関として、自由な研究を推進しているという。

 ある晴れた昼下がり、マリンはシリルの馬車で研究院を訪れ、そこで二人の研究者と対面した。
 まず一人目は、地質学を専攻するらしい壮年の男性、ダニエル。灰色がかった短髪に鋭い眼光を持つが、口調は穏やかだ。もう一人は若い女性で、気象現象を専門とするらしく、名をソフィといった。
 彼らはシリルの顔を立てつつも、興味深そうにマリンを迎え入れ、「どういう経緯で地殻の異常を確信しているのか」を丁寧に尋ねてくる。

「……私がもともと学問を正式に修めたわけではありません。ただ、幼い頃から読書が好きで、地震の記録や気象の変動について個人的に書き留めてきました」
 マリンはそう言いながら、持参したノートやメモを差し出す。そこには近年観測された地震や高波、干ばつ、異常気象の情報が、断片的ながらびっしり書き込まれている。
 ダニエルは唸るように声を漏らし、ページを捲りながらソフィと何事かを囁いている。

「これだけ継続的に記録を付けていたというのは大したものです。……なるほど、通常の周期から逸脱した揺れが頻発し始めたのは、四年前あたりからか」
「しかも、その“逸脱”具合が年々大きくなっている。局所的な地殻変動とは思えないわ。たとえば、王国の沿岸地域がこれほど沈降しているのは奇妙だし、隣国側にも影響が出ないはずがない……」

 ソフィは目を輝かせながら地図を指し示す。そこには王国沿岸の漁村や港湾都市で報告された地盤沈下の事例がいくつも書き込まれており、今後の予測を線でつないでいるらしい。
 一方、ダニエルは山脈や地層構造の資料を広げ、何度も頭をひねっていた。どうやらそこでも不自然な断層の動きが確認されつつあるようだ。

「数十年スパンで見れば、この大陸はもともと複雑な地殻活動をしている。けれど、ここ数年の動きは、あまりにも急激に偏っている……。まさか、本当に“大崩壊”につながるとは……」
「でも、少なくともこの資料を見る限り、無視するわけにはいきませんよね。ダニエル先生、正式に院のメンバーと協議してみませんか? 王国の重鎮が耳を貸さなくても、私たちは学問の立場で警告を発することができます」

 ソフィは真剣な表情で言う。ダニエルも渋面を作りつつ、「しかし、政治的に波風を立てるのは容易じゃない……」と苦い顔だ。それでも、研究者たちが協力的な姿勢を示してくれたのは、マリンにとって思いがけない朗報だった。
 こうして彼女は、隣国のエール研究院と協力して地殻変動の分析に携わる、いわば“客員研究者”のような立場を得られることになる。国から正式な認可が下りるかどうかは別としても、少なくとも院の自由な空気は彼女にとって大きな味方だった。

「おめでとう、マリン。これで当面の居場所が確保できるね」
 その日の夕方、屋敷へ帰る馬車の中でシリルが笑顔を向けてくる。
 マリンは恐縮しながらも、「ありがとうございます。大使さまのおかげです……」と感謝を伝えた。彼女自身が王都で苦しんでいたときとは比べものにならないほど、今の環境は温かい。もっとも、心の奥では複雑な思いが拭えない。
 王都に残っている人々――あの国は、いずれ大崩壊に飲み込まれるかもしれないという事実を、今はまだ受け入れられずにいる。ガイア王子は一度帰国する予定だが、果たして彼がどんな報告をしても、そう簡単には信じてもらえないだろう。

 さらに数日後、ガイア王子はついに隣国を発ち、王都へ戻っていった。送り出す際、マリンは特に言葉を交わさなかった。ただ、玄関先で静かに頭を下げる彼に対し、「どうかお気をつけて」とだけ返す。
 わずかな時間だったが、二人の間には奇妙な結束感が生まれている。それが恋愛なのか、あるいは同士的な連帯なのか、当のマリンにも分からない。とにかく、王子の身を案じてしまう自分がいるのは確かだ。
 (何か動き始めれば、その分だけ王都の貴族たちの反発も強くなるでしょう。大丈夫かしら……?)
 そう胸を痛めるマリンをよそに、王子の馬車は静かに隣国の王宮を後にしたという報が入る。あとは、彼が帰国後にどう行動し、国王や重臣を動かせるか――それにかかっている。

 マリンは、その日からエール研究院での生活を本格的に始める。シリルから支給された小さな研究室こそないが、ダニエルとソフィの計らいで院の一角に机を置かせてもらい、書庫やデータを自由に見られるようになったのだ。
 朝から夕方までは院に通い、地図や観測記録を整理し、仮説を立てる。夜には屋敷で自分のノートに考察を書き込む。まるで小さな学者になった気分だが、決して楽しげなだけではない。
 “国が滅びるかもしれない”という恐ろしい未来が大前提にあり、その事実を明らかにするほど、ますます不安は強まるばかりだからだ。

 しかし数日後、とある研究者が「想定以上に状況は深刻かもしれない」と言ってきた。
 彼――高齢の地質学者グレイベックは、長年にわたり遠隔地の火山活動などを観測していた人物だ。彼はマリンのノートと照らし合わせながら、王都近くにある火山帯の活動について心配しているという。
「もし半島が沈降し、海水が地下に入り込むようなことがあれば、火山帯が連動的に噴火するかもしれない。……そうなれば、もはや王国だけでなく、この隣国にだって大きな被害が出る」
 グレイベックは真顔でそう言い切った。彼の推測に過ぎないとしても、そんなシナリオが現実になったら、大陸規模の災厄は避けられない。

 マリンは気持ちが重くなっていくのを感じた。もし最悪の連鎖が起きたなら、海沿いの地域はもちろん、内陸部も火砕流や地割れの恐怖にさらされる。どれほどの船を作ろうが、多くの人が逃げ切れないだろう。
 そうした最悪のケースを、果たして王家は想像できているのか――。それを考えると、夜も眠れないほどの焦燥がマリンを襲った。

 そんな中、また新たな出来事が持ち上がる。
 ガイア王子が王都へ戻って二週間ほど経ったある夕暮れ時、シリルが慌ただしくマリンを訪ねてきたのだ。ちょうど研究院から屋敷へ戻ったばかりのマリンを見つけるなり、彼は険しい顔で切り出す。

「王子からの緊急の手紙だ。……どうやら、帰国してすぐに国王や重臣たちに話をしたらしいが、想像以上に相手にされなかったらしい。『お前は追放された令嬢の戯言を持ち帰ったのか』と責められているようだ」
 シリルが懐から取り出した封書には、王子の自筆と思しき短い文が記されていた。内容をかいつまんで言うと、
 「国王や貴族会議はまるで興味を示さず、逆に私を愚か者扱いしている。これ以上私が騒ぐと、王位継承の立場にも影響が出かねない。だが、私はまだ諦めるつもりはない。必ず再度、対策を探る」
 ──といった具合だ。

「やっぱり……今の段階では、どんなに彼が声を上げても、取り合ってもらえないんですね……」
 マリンはため息をつき、手紙を胸に抱え込む。どこか申し訳ない気持ちでいっぱいだった。せっかく王子が誠実に動いてくれても、国がこうも聞く耳を持たないのでは、どうしようもない。
 シリルは冷静な声でマリンに言い聞かせる。
「これで、君の予感が間違っていればそれで平和な話だけど……。しかし、もし当たっているなら……。今後、王子自身も厳しい立場に立たされる可能性がある」

 マリンは黙ったまま、王子の筆跡をなぞるように視線を落とした。
 ほんの数年前には、あの王子に求婚されるなど夢にも思わず、むしろ息苦しい社交界に嫌気がさしていた。それなのに今では、その王子を心配し、自分の“予言”が現実化するかもしれない恐怖に怯えている。
 事態は急速に動いているのに、王都はまだ何も変わろうとしない。マリンはジリジリとした焦りと、不吉な胸騒ぎを同時に覚えていた。

 その後、さらに半月ほど過ぎたころ、エール研究院のダニエルやソフィら研究者たちが一つの報告をまとめ上げた。王国沿岸の一部地域で“微妙な隆起と沈降”が同時に起こっており、バランスが崩れれば一気に地盤が崩落する恐れがある、というものだ。
 特に王都付近から海に突き出た大きな半島が、数年内に深刻な沈下を起こす可能性が高い。海底のプレートが活発化しており、その余波が陸地の断層へ伝搬しているらしい。
 もしそれが一度に崩落すれば、半島部は広範囲で海中へ沈み、多数の死者が出る――「大災害は現実味を帯びてきた」と、ダニエルたちは主張していた。

「ただの机上の空論として看過できる段階は、とっくに過ぎている。私たちはもう少し調査したら、隣国の王と議会に正式な報告書を提出するよ」
 ダニエルは決意を込めた声で言う。ソフィも「もちろん私も名を連ねる。王国の人々が信じなくても、せめてわが国くらいは準備しておかないと」と頷いた。
 マリンは二人の頼もしさに胸を打たれつつ、「本当にありがとうございます」と頭を下げる。もし隣国が安全対策を進めてくれれば、いざというときに被害を最小限に抑えられるかもしれない。

 だが、それは同時に“王国が取り残される”可能性も示唆する。準備の遅れが致命傷になるかもしれない。ガイア王子がどれだけ奮闘しても、王国の主要層が耳を貸さないのなら、数年後、あるいは数か月後に訪れるかもしれない崩壊を避けられない。
 ――そして、もし大崩壊が起こったとき、王族や貴族だけが一部避難できたとしても、民はどうなるのか。そもそも間に合うのか。まだ船を作るなんて動きはまったく始まっていないのだから……。
 さまざまな思いが交錯する中で、マリンは自分に問い続ける。自分が警告するしかないが、そのためには、あの国が変わるように、どんな言葉を――どんな行動を――すればいいのか。

 そんな折、海を隔てた遠方で大きな地震があったという報せが届いた。その震源は王都から遠く離れているが、海底プレートを刺激するかたちになり、周辺国の学者は「連鎖的な地殻活動を警戒すべきだ」と警告しているらしい。
 やがて“被害は皆無”と判明し、人々はまたすぐに忘れようとするが、マリンはかえって不安が募った。今は“待機状態”に見える地殻が、ある瞬間に一挙に動いてしまうのではないか。それが“Xデー”と言うべき恐るべき日の訪れになるのではないか……。

 最悪のシナリオを避けるには、王国側にも準備させるしかない。そう心に決めたマリンは、一つの決断をする。――自分が書いた調査報告書を、シリル大使の手を借りて、ガイア王子に届けようというのだ。
 エール研究院のダニエルとソフィ、さらにはグレイベックなど複数の学者が賛同し、協力を申し出てくれた。彼らの名を連ねた“当面の危機分析”を一冊にまとめる。簡易的な形ではあるが、少なくとも大まかなデータと仮説を整理した文書だ。
 王子の立場でどこまで閲覧できるかは分からないが、何もしないよりはずっとマシだ。マリンは短い手紙を添え、「王子が王国で行動しやすくなる材料になれば……」と淡い期待を込める。
 しかし、書き終えて封をしたあと、マリンはぎゅっと自分の両手を握りしめた。万が一、王都の貴族がこの文書を見たら、ますます「不吉なことを言うな」と怒りを買い、ガイア王子への風当たりが強まるかもしれない。そんな危険も十分あるのだから……。

 とはいえ、選択肢は他にない。
 「わたしの手紙が、王子に届くだけで済めばいいのだけれど……」
 マリンはそう呟いて、報告書をシリルへ託す。シリルは大使館を通じて極秘に王子へ届けると約束してくれた。
 後は待つしかない。大きな船を造れと言っても、今は王国中が「そんな馬鹿なことに予算をかけられるか」と笑い飛ばすだけだろう。もし一刻を争う状況になれば、手遅れかもしれない。それでも、何とかして動いてもらいたい。人を救うためには、それしかない。
 (いつか、本当にあの時が来てしまったら……。わたしには祈る以外に、何もできないのかもしれない。それが、もどかしいわ……)

 そうして、マリンは日々を研究と整理作業に費やしながら、王都からの一報を待ち続ける。もちろん、王子が報告書を受け取ったかどうかも分からない。下手をすれば途中で握り潰されるかもしれない。
 薄暗い気配が胸を覆う夜、机に向かい資料を読み込んでいると、いつかの舞踏会が頭をよぎる。あの艶やかな宴席で、王子の求婚を断り、“国の滅び”を告げた瞬間の人々の恐怖と敵意――。
 もうあの時には戻れないし、戻りたくもない。けれど、あの国への愛着まで断ち切れたわけではない。アクアリウム家を捨てられたとはいえ、マリンにとって故郷であることに変わりはないのだ。

 こうして、一見穏やかだが内面は不安に満ちた日々が続いていく。その裏では、王都でひとり奮闘を続けるガイア王子の姿があるだろう。貴族社会に押し潰されるかもしれない――それでも、国を救うために足掻こうとしている。
 王子の行動が実を結ぶのか、それとも、もっと大きな“揺れ”が先に訪れてしまうのか。どちらに転んでも、もう長い猶予は残されていないように、マリンには感じられてならなかった。

 朝の光が差す頃、徹夜で書類を整理していたマリンは窓の外に目をやる。焼けるような朝焼けの空が広がっていた。まるで、見慣れた景色とは違う色彩を放っているように思える。
 “これも異常現象の兆しかもしれない”と、恐怖にとらわれそうになる自分を叱咤して、マリンは椅子から立ち上がった。

「わたしにできるのは、まだ研究を続けることだけ。……王子に届けた報告が、どうか無駄になりませんように」

 神仏など信じていなかったつもりなのに、いつの間にか誰かに祈らずにはいられない自分がいる。そう気づいて、マリンは苦笑する。
 国を追われた身の上でも、人の幸せを願わずにはいられない。国が滅ぶなどという予言が、誤りであるのなら、どんなにいいだろう。けれど、それはおそらく夢想に過ぎない――彼女には、今の大地から伝わる微かな悲鳴が、確かに聞こえてしまうのだから。

 崩壊の足音は、確実に近づいている。
 ガイア王子は、はたして王国を変えられるのか。隣国の研究者たちが動き始めたところで、空から降ってくる大災厄にどう対峙するのか。数年、あるいは数か月後の未来は、誰もが恐ろしくて目を背けている。
 たとえ王族や貴族が船を作り始めたとしても、多くの民は行き場を失うだろう。それを思うと、マリンの胸は締めつけられるようだった。

 ――こうして、王都を離れたマリンは隣国の研究者たちと手を携え、大陸の危機を見つめ続ける。
 日々募る絶望の中に、かすかな希望を探し求めながら。
 まだ王国の人々には届かない、静かな警鐘の音が、確かにマリンと隣国の研究院から鳴り始めていた。
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