眠り姫は十年後、元婚約者の隣に別の令嬢を見つけました

鍛高譚

文字の大きさ
1 / 26
第1章 ――目覚めた世界は、10年後

1話

しおりを挟む
耳鳴りのような遠いざわめきが、頭の奥を行ったり来たりしている。まだ目が開かない。薄く瞼をこじ開けようとするたび、焼け付くように強い光が差し込んできて思わず眉をしかめた。
 ――痛い。
 けれど頭に響くこの痛みは、まるで「生きている証拠だ」とでも言わんばかりに鮮明で、意識の淵を引き戻してくるようだった。ゆっくり息を整える。薄暗い闇のなかを漂っていた意識に、ほんの少しずつ色と温度が戻り始める。
 どのくらい眠っていたのだろう。体が重い。腕も足も思うように動かない。夢と現実の境界をさまよいながら、私はかすかに声を聞いた。誰かが私の名前を呼んでいる。
 「……アーシア……アーシア……」
 優しい呼び声がする。男の人だろうか。いや、もっと年配の……そうだ。どこか聞き覚えのある、懐かしく温かい声。
 ――お父さま……?
 ぼんやりとした脳裏に浮かんだ名前。その瞬間、懸命に瞼を持ち上げ、私はなんとか視界を確保しようともがく。まるで自分の体が石のように固まっているようだ。必死の思いで瞼を開けると、眩しさに涙が浮かぶ。
 最初に見えたのは、白い天井だった。過度な装飾もなく、しかし高級そうなレースのカーテンがかかった窓が視界の端にある。ここは……自分の部屋……だっただろうか。見覚えのあるような、ないような、曖昧な感覚がする。
 「アーシア……わかるか? アーシア!」
 光に慣れない目を細めながら、声の方を向く。そこには――初老とまではいかないが、ずいぶんと顔つきが変わった気がする男性がいた。
 背筋は伸びていて、仕立ての良い上着を羽織っている。顎にはうっすら髭が生えており、瞳は涙で濡れている。記憶の中で見たときより、少し皺が増えたかもしれない。だが、その面影は間違いなく私の父――ハロルド・ロウェルだ。
 「お父さま……?」
 声がかすれて、うまく出せない。知らないうちに喉が乾ききっていたらしい。言葉を絞り出すように呼びかけると、父はまるで奇跡でも目にしたかのように目を大きく見開き、そして私の手を強く握りしめた。
 「アーシア……! 本当に……目を覚ましたんだな……! やっと、やっとだ……!」
 父の声が震えているのを感じる。顔を上げようとすると、どういうわけか自分の髪が長く伸びているのが見えた。――こんなに長かったかしら。いつもならもっと短く結っていたはず……。
 「私、どうして……? えっと……確か馬車に乗っていて……それから……」
 あの日の記憶が朧げに蘇る。私は馬車に乗っていて、何かに衝突した。衝撃とともに体が投げ出され、痛みを感じた瞬間……それから、すべてが暗闇に沈んでいった気がする。
 父は涙をこぼしそうなほどの笑顔で、私の手をまた握りしめなおす。
 「覚えているんだな。あの日、お前は交通事故に遭って……そのまま眠り続けたんだ」
 「……眠り続けたって……どのくらい?」
 私が問うと、部屋の隅で控えていたメイドの女性が声を上げる。見覚えのない、若い女性だ。まだ十代後半くらいだろうか。けれどどこか、私のことを知っているような眼差しだ。
 「ミス・アーシア……! 目を覚まされて、本当に良かった……! もう十年ですよ、十年……!」
 「……え……?」
 十年――と言ったか。十年……そんなはずはない。私はまだ十歳の……はずなのに。
 思わず目が泳ぎ、私は部屋を見回す。窓枠の装飾も家具の配置も、見慣れないものばかり。両腕を見下ろすと、少し成長した形跡がある――というか、子供の頃の腕よりずいぶん長くなっている気がする。
 ――何が起きているの。
 「落ち着いて、アーシア。……驚かせて悪いが、お前は十年間、意識不明だったんだ。医師からは『もう目覚めることはないかもしれない』とまで言われていた……。だけど、こうして奇跡が起きた」
 父は言葉を詰まらせながら、噛みしめるようにそう続ける。私はただ、呆然と父と部屋を交互に見つめるばかりだった。
 十年、眠り続けたということは……私は、もう二十歳……?
 実感がわかない。心はまだ十歳のままなのに。馬車の衝撃が昨日のことのように頭に残っているのに。
 体を起こそうとベッドに力を入れてみる。しかし筋力が落ちているのか、思うように上半身を支えられない。すると、先ほどのメイドらしき少女が急いで駆け寄り、背中に手を回してくれた。
 「無理なさらないでください、アーシア様。まだお体が本調子ではありませんから……」
 「あ、ありがとう……。えっと、あなたは……?」
 「私、サラ・エヴァンズと申します。アーシア様が倒れられた後に、ロウェル伯爵家にお仕えすることになりました」
 そう言うと、サラは私の背中にクッションを当ててくれ、私を寝かせたまま少し上体を起こした。
 「そ、そう……ありがとう。私の世話をしてくれていたのね」
 「はい。ご両親と、そして……その……皆で交代しながら、ずっと看病させていただいていました」
 サラの表情には安堵の色が浮かんでいる。私はか細く微笑み返すのが精一杯だった。意識の片隅で、父が必死に医師を呼ぶように言っているのが聞こえる。
 まるでこの目覚めが信じられないというように、メイドたちが慌ただしく廊下へ走っていった。部屋に戻ってきた医師は、驚きに目を丸くしながらも、私の状態を確かめるために聴診器や魔導器のようなものを取り出して診察を始める。
 「脈拍も呼吸も安定していますね。まさか本当に目を覚まされるとは……ここ数年は一向に容体が変わらなかったのに。まさに奇跡としか言いようがありません」
 医師がそう言って微笑むと、父は心底安堵したように肩を落とし、大粒の涙をこぼした。
 「ありがとう……本当に、よくぞここまで……」
 「いえ。私どもはただ、できる限りの治療を続けていただけです。伯爵さまと奥様が諦めずに見守ってこられたのが大きいでしょう」
 ――母は、どうしているのだろう。疑問が浮かんだが、すぐに答えはやってきた。
 廊下から足音が聞こえ、勢いよく扉が開くと、そこには少し年を重ねた母が立っていた。優雅なドレスを身にまとい、頬には涙が伝っている。
 「アーシア……! 目を覚ましたって本当なのね……!」
 母が駆け寄り、私の名を呼ぶ。彼女の顔を見ると、胸の奥が熱くなる。ああ、本当に変わってしまったのだ。私が最後に見た母は、まだ若々しくて、ほんの少し皺の兆しがあった程度だったのに。今の母は、その皺がはっきりと刻まれている。
 十年。私は、本当に十年という時間を眠って過ごしていたらしい。
 「ああ、母様……ごめん、心配かけて……」
 「ごめんだなんて……いいのよ、こうして戻ってきてくれただけで……」
 母は泣きじゃくりながら、私の手をさすってくれる。私は言葉に詰まりながらも、その手の温もりを受け止めるしかなかった。感覚ばかりが鮮やかに伝わってきて、頭が追いつかない。
 父と母、そしてサラや医師たちが、私を取り巻いて喜び合ってくれる。そんな幸せなはずの光景を前に、私はどこか自分だけが置き去りにされているような、奇妙な孤独感を覚えていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

「では、ごきげんよう」と去った悪役令嬢は破滅すら置き去りにして

東雲れいな
恋愛
「悪役令嬢」と噂される伯爵令嬢・ローズ。王太子殿下の婚約者候補だというのに、ヒロインから王子を奪おうなんて野心はまるでありません。むしろ彼女は、“わたくしはわたくしらしく”と胸を張り、周囲の冷たい視線にも毅然と立ち向かいます。 破滅を甘受する覚悟すらあった彼女が、誇り高く戦い抜くとき、運命は大きく動きだす。

大好きなあなたが「嫌い」と言うから「私もです」と微笑みました。

桗梛葉 (たなは)
恋愛
私はずっと、貴方のことが好きなのです。 でも貴方は私を嫌っています。 だから、私は命を懸けて今日も嘘を吐くのです。 貴方が心置きなく私を嫌っていられるように。 貴方を「嫌い」なのだと告げるのです。

『外見しか見なかったあなたへ。私はもう、選ぶ側です』

鷹 綾
恋愛
「お前のようなガキは嫌いだ」 幼く見える容姿を理由に、婚約者ライオネルから一方的に婚約を破棄された 公爵令嬢シルフィーネ・エルフィンベルク。 その夜、嫉妬に狂った伯爵令嬢に突き落とされ、 彼女は一年もの間、意識不明の重体に陥る――。 目を覚ました彼女は、大人びた美貌を手に入れていた。 だが、中身は何ひとつ変わっていない。 にもかかわらず、 かつて彼女を「幼すぎる」と切り捨てた元婚約者は態度を一変させ、 「やり直したい」とすり寄ってくる。 「見かけが変わっても、中身は同じです。 それでもあなたは、私の外見しか見ていなかったのですね?」 静かにそう告げ、シルフィーネは過去を見限る。 やがて彼女に興味を示したのは、 隣国ノルディアの王太子エドワルド。 彼が見ていたのは、美貌ではなく―― 対話し、考え、異論を述べる彼女の“在り方”だった。 これは、 外見で価値を決められた令嬢が、 「選ばれる人生」をやめ、 自分の意思で未来を選び直す物語。 静かなざまぁと、 対等な関係から始まる大人の恋。 そして―― 自分の人生を、自分の言葉で生きるための物語。 ---

妻よりも幼馴染が大事? なら、家と慰謝料はいただきます

佐藤 美奈
恋愛
公爵令嬢セリーヌは、隣国の王子ブラッドと政略結婚を果たし、幼い娘クロエを授かる。結婚後は夫の王領の離宮で暮らし、義王家とも程よい関係を保ち、領民に親しまれながら穏やかな日々を送っていた。 しかし数ヶ月前、ブラッドの幼馴染である伯爵令嬢エミリーが離縁され、娘アリスを連れて実家に戻ってきた。元は豊かな家柄だが、母子は生活に困っていた。 ブラッドは「昔から家族同然だ」として、エミリー母子を城に招き、衣装や馬車を手配し、催しにも同席させ、クロエとアリスを遊ばせるように勧めた。 セリーヌは王太子妃として堪えようとしたが、だんだんと不満が高まる。

(完結)家族にも婚約者にも愛されなかった私は・・・・・・従姉妹がそんなに大事ですか?

青空一夏
恋愛
 私はラバジェ伯爵家のソフィ。婚約者はクランシー・ブリス侯爵子息だ。彼はとても優しい、優しすぎるかもしれないほどに。けれど、その優しさが向けられているのは私ではない。  私には従姉妹のココ・バークレー男爵令嬢がいるのだけれど、病弱な彼女を必ずクランシー様は夜会でエスコートする。それを私の家族も当然のように考えていた。私はパーティ会場で心ない噂話の餌食になる。それは愛し合う二人を私が邪魔しているというような話だったり、私に落ち度があってクランシー様から大事にされていないのではないか、という憶測だったり。だから私は・・・・・・  これは家族にも婚約者にも愛されなかった私が、自らの意思で成功を勝ち取る物語。  ※貴族のいる異世界。歴史的配慮はないですし、いろいろご都合主義です。  ※途中タグの追加や削除もありえます。  ※表紙は青空作成AIイラストです。

君のためだと言われても、少しも嬉しくありません

みみぢあん
恋愛
子爵家令嬢マリオンの婚約者アルフレッド卿が王族の護衛で隣国へ行くが、任期がながびき帰国できなくなり婚約を解消することになった。 すぐにノエル卿と2度目の婚約が決まったが、結婚を目前にして家庭の事情で2人は……    暗い流れがつづきます。 ざまぁでスカッ… とされたい方には不向きのお話です。ご注意を😓

寡黙な貴方は今も彼女を想う

MOMO-tank
恋愛
婚約者以外の女性に夢中になり、婚約者を蔑ろにしたうえ婚約破棄した。 ーーそんな過去を持つ私の旦那様は、今もなお後悔し続け、元婚約者を想っている。 シドニーは王宮で側妃付きの侍女として働く18歳の子爵令嬢。見た目が色っぽいシドニーは文官にしつこくされているところを眼光鋭い年上の騎士に助けられる。その男性とは辺境で騎士として12年、数々の武勲をあげ一代限りの男爵位を授かったクライブ・ノックスだった。二人はこの時を境に会えば挨拶を交わすようになり、いつしか婚約話が持ち上がり結婚する。 言葉少ないながらも彼の優しさに幸せを感じていたある日、クライブの元婚約者で現在は未亡人となった美しく儚げなステラ・コンウォール前伯爵夫人と夜会で再会する。 ※設定はゆるいです。 ※溺愛タグ追加しました。

親切なミザリー

みるみる
恋愛
第一王子アポロの婚約者ミザリーは、「親切なミザリー」としてまわりから慕われていました。 ところが、子爵家令嬢のアリスと偶然出会ってしまったアポロはアリスを好きになってしまい、ミザリーを蔑ろにするようになりました。アポロだけでなく、アポロのまわりの友人達もアリスを慕うようになりました。 ミザリーはアリスに嫉妬し、様々な嫌がらせをアリスにする様になりました。 こうしてミザリーは、いつしか親切なミザリーから悪女ミザリーへと変貌したのでした。 ‥ですが、ミザリーの突然の死後、何故か再びミザリーの評価は上がり、「親切なミザリー」として人々に慕われるようになり、ミザリーが死後海に投げ落とされたという崖の上には沢山の花が、毎日絶やされる事なく人々により捧げられ続けるのでした。 ※不定期更新です。

処理中です...