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第1章 ──祝宴の夜、告げられた破局の予兆──
3静寂の回廊で──沈黙の涙
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静寂の回廊で──沈黙の涙
宮廷を出た廊下をしばらく進んだ先、外へ繋がる裏口に通じる細い回廊に差し掛かったところで、ロザリーはふと足を止めた。華やかな舞踏会の音色が遠くに聞こえるだけで、人影はほとんどない。この場所はあまり人が通らない裏の通路だ。ここでようやく、ロザリーは瞼を伏せ、少しだけ息を震わせた。
「……ロザリー様……」
すぐ後ろに従っていたリーゼルが、申し訳なさそうに声をかける。どんな言葉をかければいいのか、リーゼル自身が一番わからない状態だった。ロザリーがどれほどの思いで、婚約者である王太子を支えてきたかを、彼女は痛いほどよく知っている。政治的に有能なロザリーは、ある意味“好きだから”“結婚したいから”というよりは、“国のため・家のため・そしてエドワードのため”に懸命に努力してきたのだ。そうするうちに、ロザリーの胸にも確かな愛情が芽生えたのではないかと、リーゼルは感じていた。
しかしその努力も、今宵の“あの場”であっけなく踏みにじられたのだ。
「……大丈夫よ、リーゼル。」
ロザリーはそう言いながら、静かに目を開く。長いまつ毛が、夜の薄明かりにほんのりと揺れる。涙は流していない。しかし、その瞳は確かな悲しみを宿していた。
「“あれ”がエドワード殿下の本心なのでしょう? だったら、仕方がないわ。」
「ですが……あんな形で、いきなり婚約破棄を……。しかも、あの女性を伴って……」
リーゼルは怒りを抑えきれない様子だ。貴族の令嬢であるロザリーを、あれほど無礼な形で侮辱するなど、本来ならあってはならない。ましてや相手は王太子という、国の象徴とも言うべき立場なのに。
「侮辱……そうね。でも、あれが彼の選んだ道なら仕方がないでしょう。わたくしは……いかなる理由があれ、無理矢理に婚約を続けることはできないもの。」
ロザリーは、ドレスの裾をほんのわずかに握りしめた。その手の震えを感じ取ったリーゼルは、言葉を失い、そっと視線を落とす。強くあろうとするロザリーを気遣いながらも、どうしても悔しさが込み上げてしまう。
(ロザリー様は本当に、いつだって優雅で、心優しくて……。どうして誰も、そんなロザリー様の苦しみに気づいてくれないの?)
そう思ったとき、回廊の奥から一人の男性が姿を現した。アーデン公爵家の執事、ニコラス・レインである。年配だが背筋はピンと伸び、ロザリーが幼い頃から家を支えてきた頼もしい存在だ。彼は眉間に深い皺を寄せ、やや急ぎ足でロザリーのほうへ近づいてくる。
「ロザリー様……今宵のことは、一体どういうことなのでしょうか? すでに公爵閣下にも連絡が入り、動揺されておりますぞ。」
ニコラスの言葉に、ロザリーはやや苦笑する。結局、こんな大事が起きれば、すぐに実家のアーデン公爵にも知れ渡るのは当然だ。ニコラスも、慌ただしく宮廷を捜し回ったに違いない。
「……ニコラス、申し訳ないわね。きっと父様も驚かれているでしょう。今のわたくしにも、何がどうなっているのか、全貌はつかみきれていないのだけれど……一つだけ確かなのは、“エドワード殿下との婚約は破棄になった”という事実よ。」
ニコラスは苦々しい表情でうつむく。しかし執事として落ち着きを保ち、すぐに言葉を発する。
「この件、公爵閣下に詳細を報告し、今後の対処を検討しなければなりませんな。……ロザリー様はどのようにお考えですか?」
「わたくしは、殿下が決めたことなら、それに従うだけです。ただ、“それなりの責任”を取っていただく必要はありますが。」
ロザリーの声は静かだが、その奥には強い意志が感じられた。王太子という立場だからと言って、アーデン家を侮って無傷でいられるほど、この国の貴族制度は甘くはない。公爵家は王家に次ぐほどの影響力を持つ大貴族だ。政治や外交、経済面で支えていたのは事実であり、それをロザリーひとりの我慢で終わらせるなど考えられない。そもそも、本人も簡単に泣き寝入りするつもりはないだろう。
「わかりました。では公爵閣下にお伝えします。……今夜は、もうお屋敷へお戻りになられますか? このまま宮廷に残っても、ロザリー様が辛い思いをするだけです。」
ニコラスの申し出に、ロザリーはうなずく。確かに、これ以上ここにいても何も得られない。むしろ、ヒソヒソと好奇の目で見られるだけだ。それならば早々に立ち去り、今後の方針を家族と相談したほうが得策だろう。彼女が一人で抱え込むには、あまりにも問題が大きい。
「ええ、そうしましょう。リーゼル、荷物をまとめてちょうだい。……このドレスは返却の必要があるから、後で宮廷仕立て室へ連絡をしておいて。」
そう、平静を装いつつ指示を与えるロザリー。リーゼルは胸の奥が痛んだが、それでも声を張り上げて答える。
「かしこまりました、ロザリー様。」
こうして、今宵の祝宴は最悪の形で幕を閉じ、ロザリーは婚約者であった王太子からの突然の破棄宣言を受けたまま、宮廷を後にすることになった。これが世の中で言う“婚約破棄”なのだと、ロザリーは自分の中で必死に理解しようとする。それでも、ふと膨れ上がりそうになる悲しみを押さえ込むために、歩を進めるたびに心を閉ざすようにしていた。
――泣くのは、まだ早い。すぐには泣かない。こんなところで取り乱しても何も変わらない。
歯を食いしばって、ロザリーは夜の宮廷を去る。明日、あるいは近いうちに、この破局の報せが国中に広まることだろう。そして王宮内や貴族社会では、様々な憶測が飛び交うに違いない。「アーデン家の令嬢が何か失態を犯したのでは?」「王太子が急に愛人を作った?」など、根拠のない噂や噂が、まるで毒の花のように咲き乱れるのが目に見えている。
ロザリーにとっては、まさしくこれからが本当の戦いの始まりだった。
宮廷を出た廊下をしばらく進んだ先、外へ繋がる裏口に通じる細い回廊に差し掛かったところで、ロザリーはふと足を止めた。華やかな舞踏会の音色が遠くに聞こえるだけで、人影はほとんどない。この場所はあまり人が通らない裏の通路だ。ここでようやく、ロザリーは瞼を伏せ、少しだけ息を震わせた。
「……ロザリー様……」
すぐ後ろに従っていたリーゼルが、申し訳なさそうに声をかける。どんな言葉をかければいいのか、リーゼル自身が一番わからない状態だった。ロザリーがどれほどの思いで、婚約者である王太子を支えてきたかを、彼女は痛いほどよく知っている。政治的に有能なロザリーは、ある意味“好きだから”“結婚したいから”というよりは、“国のため・家のため・そしてエドワードのため”に懸命に努力してきたのだ。そうするうちに、ロザリーの胸にも確かな愛情が芽生えたのではないかと、リーゼルは感じていた。
しかしその努力も、今宵の“あの場”であっけなく踏みにじられたのだ。
「……大丈夫よ、リーゼル。」
ロザリーはそう言いながら、静かに目を開く。長いまつ毛が、夜の薄明かりにほんのりと揺れる。涙は流していない。しかし、その瞳は確かな悲しみを宿していた。
「“あれ”がエドワード殿下の本心なのでしょう? だったら、仕方がないわ。」
「ですが……あんな形で、いきなり婚約破棄を……。しかも、あの女性を伴って……」
リーゼルは怒りを抑えきれない様子だ。貴族の令嬢であるロザリーを、あれほど無礼な形で侮辱するなど、本来ならあってはならない。ましてや相手は王太子という、国の象徴とも言うべき立場なのに。
「侮辱……そうね。でも、あれが彼の選んだ道なら仕方がないでしょう。わたくしは……いかなる理由があれ、無理矢理に婚約を続けることはできないもの。」
ロザリーは、ドレスの裾をほんのわずかに握りしめた。その手の震えを感じ取ったリーゼルは、言葉を失い、そっと視線を落とす。強くあろうとするロザリーを気遣いながらも、どうしても悔しさが込み上げてしまう。
(ロザリー様は本当に、いつだって優雅で、心優しくて……。どうして誰も、そんなロザリー様の苦しみに気づいてくれないの?)
そう思ったとき、回廊の奥から一人の男性が姿を現した。アーデン公爵家の執事、ニコラス・レインである。年配だが背筋はピンと伸び、ロザリーが幼い頃から家を支えてきた頼もしい存在だ。彼は眉間に深い皺を寄せ、やや急ぎ足でロザリーのほうへ近づいてくる。
「ロザリー様……今宵のことは、一体どういうことなのでしょうか? すでに公爵閣下にも連絡が入り、動揺されておりますぞ。」
ニコラスの言葉に、ロザリーはやや苦笑する。結局、こんな大事が起きれば、すぐに実家のアーデン公爵にも知れ渡るのは当然だ。ニコラスも、慌ただしく宮廷を捜し回ったに違いない。
「……ニコラス、申し訳ないわね。きっと父様も驚かれているでしょう。今のわたくしにも、何がどうなっているのか、全貌はつかみきれていないのだけれど……一つだけ確かなのは、“エドワード殿下との婚約は破棄になった”という事実よ。」
ニコラスは苦々しい表情でうつむく。しかし執事として落ち着きを保ち、すぐに言葉を発する。
「この件、公爵閣下に詳細を報告し、今後の対処を検討しなければなりませんな。……ロザリー様はどのようにお考えですか?」
「わたくしは、殿下が決めたことなら、それに従うだけです。ただ、“それなりの責任”を取っていただく必要はありますが。」
ロザリーの声は静かだが、その奥には強い意志が感じられた。王太子という立場だからと言って、アーデン家を侮って無傷でいられるほど、この国の貴族制度は甘くはない。公爵家は王家に次ぐほどの影響力を持つ大貴族だ。政治や外交、経済面で支えていたのは事実であり、それをロザリーひとりの我慢で終わらせるなど考えられない。そもそも、本人も簡単に泣き寝入りするつもりはないだろう。
「わかりました。では公爵閣下にお伝えします。……今夜は、もうお屋敷へお戻りになられますか? このまま宮廷に残っても、ロザリー様が辛い思いをするだけです。」
ニコラスの申し出に、ロザリーはうなずく。確かに、これ以上ここにいても何も得られない。むしろ、ヒソヒソと好奇の目で見られるだけだ。それならば早々に立ち去り、今後の方針を家族と相談したほうが得策だろう。彼女が一人で抱え込むには、あまりにも問題が大きい。
「ええ、そうしましょう。リーゼル、荷物をまとめてちょうだい。……このドレスは返却の必要があるから、後で宮廷仕立て室へ連絡をしておいて。」
そう、平静を装いつつ指示を与えるロザリー。リーゼルは胸の奥が痛んだが、それでも声を張り上げて答える。
「かしこまりました、ロザリー様。」
こうして、今宵の祝宴は最悪の形で幕を閉じ、ロザリーは婚約者であった王太子からの突然の破棄宣言を受けたまま、宮廷を後にすることになった。これが世の中で言う“婚約破棄”なのだと、ロザリーは自分の中で必死に理解しようとする。それでも、ふと膨れ上がりそうになる悲しみを押さえ込むために、歩を進めるたびに心を閉ざすようにしていた。
――泣くのは、まだ早い。すぐには泣かない。こんなところで取り乱しても何も変わらない。
歯を食いしばって、ロザリーは夜の宮廷を去る。明日、あるいは近いうちに、この破局の報せが国中に広まることだろう。そして王宮内や貴族社会では、様々な憶測が飛び交うに違いない。「アーデン家の令嬢が何か失態を犯したのでは?」「王太子が急に愛人を作った?」など、根拠のない噂や噂が、まるで毒の花のように咲き乱れるのが目に見えている。
ロザリーにとっては、まさしくこれからが本当の戦いの始まりだった。
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