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第2章 ――ぶどう園を見下ろす丘で――
5話
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「……お嬢様、そろそろご準備のほうはいかがでしょうか?」
朝の柔らかな光が差し込む公爵家の屋敷の一室。窓からは涼やかな風が吹き込み、うっすらとレースのカーテンを揺らしている。
その部屋の中心で、私は大きな姿見の前に立ち、ドレスの最終チェックをしていた。腰のラインを強調しすぎない、ややゆったりとした紺色のドレス。胸元には小さく王家の紋章――ではなく、アーデルハイド家の紋章が刺繍されている。ドレスの生地は光沢を抑えた上質なもの。装飾は控えめながらも、貴族としての品格を感じさせる仕立てだ。
侍女のマーガレットが私の背中に回り、リボンを結んでくれている。
そう、今日は少し動きやすい装いにしてほしいとお願いしていた。なぜなら、これからアーデルハイド公爵領のぶどう園へ視察に行く予定があるからだ。前世――ブラック企業で働いていた私にとって、この「視察」という響きは、どこか社畜時代の外回りを思い出してしまう。だが、今の私は公爵令嬢レイラ。立場も状況もまったく違う。むしろ、楽しみで仕方ないくらいだ。
「マーガレット、ありがとう。もう大丈夫よ。動きやすそうだし、見た目もきちんとしているわね」
鏡に映った自分の姿を確認しながら、微笑んで言うと、マーガレットは嬉しそうに軽く会釈をした。彼女は私が婚約破棄されたときも、階段から落ちて気絶したときも、ずっと心配してくれた忠実な侍女だ。前世からすると、こんなに献身的な部下(?)がいるなんて、夢のような話である。
「お嬢様、馬車が出るまでにはまだ少し時間がございます。朝食はどうなさいますか? お急ぎでしたら軽いもので済ませることもできますが……」
マーガレットが遠慮がちに提案してくる。彼女からしてみれば、私が領地へ視察に出るなど、今までのレイラではあまり考えられない行動なのかもしれない。レイラの記憶を探ってみると、確かに以前のレイラはあまり領地経営に興味を示さず、もっぱら華やかな社交界に心を寄せていたようだ。だが、今の私は前世の知識を手にし、新たな視点でこの世界を楽しもうとしている。それに加えて、「アーデルハイド領が誇る最高級ワインの産地」という話を聞いてしまったからには、興味が尽きない。
「そうね……できれば軽い朝食をささっととりたいわ。視察先で長く滞在するなら、お腹が空いちゃうもの」
「かしこまりました。では、簡単なサンドイッチとフルーツ、それにミルクティーをご用意いたしましょうか?」
「ええ、お願いするわ。助かるわね、マーガレット」
マーガレットは足早に部屋を出て行く。私は部屋の窓辺に近づき、外を眺めた。澄み切った青空の下、公爵家の広大な庭が見える。整然と手入れされた芝生や花壇、それに石造りの噴水が美しく配置されている。その向こうには、街の様子がちらりと見える。貴族区と庶民区は明確に分かれているようだが、それでも広大な領地の一端を感じ取れる眺めだった。
「ふふ……。婚約破棄された直後に領地視察を計画するなんて、周囲は驚くだろうけど、まぁいいわよね」
そう呟いて、私は前世での自分を思い返す。企業での激務に追われていたころ、仕事に疲れ果て、まともに食事をとる暇もなく過ごしていた日々。今はこんなにゆっくりと、優雅に朝食の準備が整うまで待てるのだから、なんという贅沢だろう。それに、視察といっても、前世のようなノルマや売上数字を追いかけるわけではない。単純に自分の領地を見て回り、農民たちと交流し、ワインの生産現場を把握するのが主目的だ。貴族令嬢として、一度はやってみたかったことの一つでもある。
「お嬢様、お食事の準備が整いました」
マーガレットが戻ってくると、私の部屋の小さなティーテーブルに、きれいに並べられたサンドイッチと彩り豊かなフルーツプレート、そして湯気の立つミルクティーが置かれた。ふんわりと鼻をくすぐる香ばしいパンの匂いがたまらない。
「いただきます。……わぁ、これおいしそうね」
サンドイッチの具は、ゆで卵とハム、それから新鮮な野菜が細かく刻まれてマヨネーズで和えられている。口に含むと柔らかなパンと具材の旨みがふわっと広がり、思わず笑みがこぼれる。前世ではコンビニで買った300円くらいのサンドイッチを慌ただしくかじるのが関の山だったが、今こうして手の込んだ朝食を優雅に食べられることが本当に幸せに感じる。
マーガレットがティーポットからミルクティーを注いでくれる。濃い目に淹れられた紅茶に、温めたミルクをたっぷりと加えたやさしい味。これまた前世では味わえない特別感がある。やはりここは異世界、しかも貴族の世界。食事にかける情熱が全然違うのだろう。
「ふう……。おいしかった。ありがとう、マーガレット。あなたも少しは休んでちょうだいね」
「いえいえ、お嬢様のためでしたら、いつでもお手伝いさせていただきます」
マーガレットの頬がわずかに赤らんだように見えた。そこには本当に敬愛する主を想う侍女の心がある。私なんかにはもったいないくらいだが、せっかくのご厚意を無下にするのも悪い。素直に受け止めて、笑顔を返す。
朝の柔らかな光が差し込む公爵家の屋敷の一室。窓からは涼やかな風が吹き込み、うっすらとレースのカーテンを揺らしている。
その部屋の中心で、私は大きな姿見の前に立ち、ドレスの最終チェックをしていた。腰のラインを強調しすぎない、ややゆったりとした紺色のドレス。胸元には小さく王家の紋章――ではなく、アーデルハイド家の紋章が刺繍されている。ドレスの生地は光沢を抑えた上質なもの。装飾は控えめながらも、貴族としての品格を感じさせる仕立てだ。
侍女のマーガレットが私の背中に回り、リボンを結んでくれている。
そう、今日は少し動きやすい装いにしてほしいとお願いしていた。なぜなら、これからアーデルハイド公爵領のぶどう園へ視察に行く予定があるからだ。前世――ブラック企業で働いていた私にとって、この「視察」という響きは、どこか社畜時代の外回りを思い出してしまう。だが、今の私は公爵令嬢レイラ。立場も状況もまったく違う。むしろ、楽しみで仕方ないくらいだ。
「マーガレット、ありがとう。もう大丈夫よ。動きやすそうだし、見た目もきちんとしているわね」
鏡に映った自分の姿を確認しながら、微笑んで言うと、マーガレットは嬉しそうに軽く会釈をした。彼女は私が婚約破棄されたときも、階段から落ちて気絶したときも、ずっと心配してくれた忠実な侍女だ。前世からすると、こんなに献身的な部下(?)がいるなんて、夢のような話である。
「お嬢様、馬車が出るまでにはまだ少し時間がございます。朝食はどうなさいますか? お急ぎでしたら軽いもので済ませることもできますが……」
マーガレットが遠慮がちに提案してくる。彼女からしてみれば、私が領地へ視察に出るなど、今までのレイラではあまり考えられない行動なのかもしれない。レイラの記憶を探ってみると、確かに以前のレイラはあまり領地経営に興味を示さず、もっぱら華やかな社交界に心を寄せていたようだ。だが、今の私は前世の知識を手にし、新たな視点でこの世界を楽しもうとしている。それに加えて、「アーデルハイド領が誇る最高級ワインの産地」という話を聞いてしまったからには、興味が尽きない。
「そうね……できれば軽い朝食をささっととりたいわ。視察先で長く滞在するなら、お腹が空いちゃうもの」
「かしこまりました。では、簡単なサンドイッチとフルーツ、それにミルクティーをご用意いたしましょうか?」
「ええ、お願いするわ。助かるわね、マーガレット」
マーガレットは足早に部屋を出て行く。私は部屋の窓辺に近づき、外を眺めた。澄み切った青空の下、公爵家の広大な庭が見える。整然と手入れされた芝生や花壇、それに石造りの噴水が美しく配置されている。その向こうには、街の様子がちらりと見える。貴族区と庶民区は明確に分かれているようだが、それでも広大な領地の一端を感じ取れる眺めだった。
「ふふ……。婚約破棄された直後に領地視察を計画するなんて、周囲は驚くだろうけど、まぁいいわよね」
そう呟いて、私は前世での自分を思い返す。企業での激務に追われていたころ、仕事に疲れ果て、まともに食事をとる暇もなく過ごしていた日々。今はこんなにゆっくりと、優雅に朝食の準備が整うまで待てるのだから、なんという贅沢だろう。それに、視察といっても、前世のようなノルマや売上数字を追いかけるわけではない。単純に自分の領地を見て回り、農民たちと交流し、ワインの生産現場を把握するのが主目的だ。貴族令嬢として、一度はやってみたかったことの一つでもある。
「お嬢様、お食事の準備が整いました」
マーガレットが戻ってくると、私の部屋の小さなティーテーブルに、きれいに並べられたサンドイッチと彩り豊かなフルーツプレート、そして湯気の立つミルクティーが置かれた。ふんわりと鼻をくすぐる香ばしいパンの匂いがたまらない。
「いただきます。……わぁ、これおいしそうね」
サンドイッチの具は、ゆで卵とハム、それから新鮮な野菜が細かく刻まれてマヨネーズで和えられている。口に含むと柔らかなパンと具材の旨みがふわっと広がり、思わず笑みがこぼれる。前世ではコンビニで買った300円くらいのサンドイッチを慌ただしくかじるのが関の山だったが、今こうして手の込んだ朝食を優雅に食べられることが本当に幸せに感じる。
マーガレットがティーポットからミルクティーを注いでくれる。濃い目に淹れられた紅茶に、温めたミルクをたっぷりと加えたやさしい味。これまた前世では味わえない特別感がある。やはりここは異世界、しかも貴族の世界。食事にかける情熱が全然違うのだろう。
「ふう……。おいしかった。ありがとう、マーガレット。あなたも少しは休んでちょうだいね」
「いえいえ、お嬢様のためでしたら、いつでもお手伝いさせていただきます」
マーガレットの頬がわずかに赤らんだように見えた。そこには本当に敬愛する主を想う侍女の心がある。私なんかにはもったいないくらいだが、せっかくのご厚意を無下にするのも悪い。素直に受け止めて、笑顔を返す。
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