光の図書館 ― 赦しの雨が上がるまで

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第2話:記憶の残響

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「……どうして、私の名前を?」

喉の奥が震えて、声がうまく出ない。 図書カードには名字しか書いていない。名札はカウンターに隠れて見えないはずだ。

何より、彼が私の名を呼んだその響きには、数日や数ヶ月の付き合いでは決して生まれない、長い年月を煮詰めたような切なさが籠もっていた。

直人さんは何も答えず、ただ震える右手をそっと自分の左手で包み込んだ。 その視線が、私の背後にある古い新聞の縮刷版コーナーへと向けられる。

「栞さん、君は覚えていないかもしれない。……いや、覚えていなくて当然なんだ」

彼の瞳が、どこか遠くを見つめる。

「あの日、君の時間は一度、激しい衝撃の中で白く塗りつぶされたんだから」

彼の言葉が引き金となり、私の脳裏で封印されていた箱がガタリと音を立てた。

雨。 横断歩道。 水溜まりに反射する、暴力的なまでに眩しいヘッドライト。

そして、私の体を突き飛ばした、誰かの強い腕の感触――。

「五年前の、あの雨の日。……交差点で私を助けてくれたのは、あなただったの?」

私の問いに、直人さんは力なく、けれど肯定するように瞳を伏せた。 その顔には、救済者の誇らしさなど微塵もなかった。 あるのは、深い後悔と、自分を責め続けてきた者の陰りだけだ。

「助けた……なんて言える資格は、僕にはない。あの日、僕は君の腕を掴んで歩道へ押しやったけれど、その代わりに君は頭を強く打ち、僕は――」

彼は包み込んでいた右手を、ゆっくりとカウンターの上に晒した。 指先が、目に見えて微細に震えている。

「僕は、この手で絵を描いていたんだ。美大への入学が決まって、世界を自分の色で塗りつぶせると信じていた。でも、あの日を境に、僕のパレットからは色が消えた」

息が止まる。

彼がいつも文学の棚で、何かを失くしたような顔をしていた理由。 『赦しについての短い話』を何度も借りていた理由。

すべてが、冷たいパズルが組み合わさるように繋がっていく。

「事故の後、神経が傷ついたのか、僕の右手は細かな筆を握れなくなった。キャンバスに向かうたび、あの日浴びた雨の冷たさと、君の体が宙を舞った瞬間の光景が蘇って、筆が折れるんだ」

「そんな……。じゃあ、あなたは私のせいで夢を……」

私の声が涙で湿る。 私が今日まで、この図書館で穏やかに本をめくってこられたのは、この人の未来を犠牲にした土台の上にあったということなのか。

「違うんだ、栞さん! 自分を責めないでくれ」

直人さんが、初めて感情を剥き出しにして声を上げた。 彼は身を乗り出し、震える手で、けれど壊れ物を扱うような優しさで、私の手元のカウンターを叩いた。

「僕は君に謝ってほしくてここに来たわけじゃない。むしろ逆だ。君が生きて、ここで笑っているのを確認したかった。それだけが、僕が自分を赦すための、唯一の光だったんだ」

けれど、彼の瞳には涙が溜まっていた。

「生きていてくれてよかった」という安堵と、「どうしてもっとうまく助けられなかったのか」という絶望。 それが、彼の心の中で今も嵐のように吹き荒れているのが分かった。

外の雨は、いつの間にか土砂降りになっていた。 窓を叩く激しい音が、二人の間の沈黙を埋めていく。

「僕は……もう行かなきゃいけない」

直人さんはそう言うと、濡れた傘を手に取り、出口へと向かった。

「待ってください! 直人さん!」

呼び止める私の声は、雨音にかき消される。 彼は一度も振り返らず、灰色の雨幕の中へと消えていった。

カウンターに残されたのは、彼が返し忘れた一冊の本。 そして、彼が去ったあとの床に落ちた、小さな鉛筆のキャップだった。

彼は今も、描こうとしていた。 震える手で。 絶望の中で。

私という「記憶」を抱えたまま。

私はそのキャップを握りしめ、冷たいカウンターの上で泣き崩れた。 図書館の灯りが、やけに遠く、滲んで見えた。

(第3話へ続く)
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