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第1話:落馬、そして前世の記憶
しおりを挟む王宮での執務を終えた翌日、ユリウス・グレンジャーは久しぶりに私的な外出の許可を得た。最近は仕事に没頭するあまり、休息が疎かになっていたのだ。
昨日の王宮でのあの出来事が、まだ肌に残る熱のように生々しく脳裏に焼き付いている。ゼノンと一緒にいたくて、つい声をかけたというのに、またしても余計なことを口にしてしまった。
彼の端正な顔に浮かんだ一瞬の戸惑いと、そして諦めにも似た静寂な表情。ユリウスは、そのたびに胸を抉られるような痛みを感じる。彼はきっと、自分を「意地の悪い、冷たい貴族」だと思っているに違いない。そう考えると、自己嫌悪の波が押し寄せた。
(どうして、これほどまでに彼が気になってしまうのか)
その問いに答えを見つけるため、ユリウスは気分転換という名目で王都へ向かった。
◇◇◇
王都の喧騒は、張り詰めた彼の心を少しだけ緩めてくれる。護衛騎士と共に馬に跨り、賑やかな大通りを進む。陽光を浴びて煌めく貴族街を抜けると、庶民の活気あふれる市場が近づいてくる。焼きたてのパンの香ばしい匂い、果物売りの威勢の良い声、子供たちの無邪気な笑い声。
ユリウスはいつも、この庶民の営みに密かな興味を抱いていた。公爵家の嫡男としては決して許されない感情だと知りながらも、そこには彼の知る貴族社会にはない、ある種の「生」の躍動が満ちているように思えたのだ。
露店がひしめき合い、人々の声が飛び交う石畳の通りを進んでいた——その時だった。
(あれは……)
ユリウスの視線が、不意に、とある花売りの露店の前で釘付けになった。そこには、目を疑うような光景が広がっていた。
彼の視線の先にいたのは、まさしく彼が今最も会いたくない、しかし最も会いたいと願う人物だった。
ゼノン・シュヴァルツ。
彼は、一人の若い令嬢と親しげに話していた。令嬢は薄紅色の頬に可憐な笑顔をゼノンに向け、ゼノンもまた、普段の無表情とは打って変わり、微かに口元を緩めているように見えた。その優しい表情は、ユリウスがこれまで一度も見たことのないものだった。
彼の心臓が、鉛のように重くなる。
ドクン、ドクン——異常なほどに脈打ち、全身の血の気が引いていくのが分かった。あの寡黙で硬派なゼノンが、こんなにも親しげに、そして優しく女性と話している。それは、ユリウスの胸に白刃を突き刺すような衝撃だった。長年抱き続けた片思いが、今、目の前で音を立てて砕け散っていくような感覚に襲われた。
(まさか……あの令嬢が、シュヴァルツ卿の……?)
胸の奥が、氷原のように冷たく凍り付いていく。言葉にならない感情が喉元にせり上がり、息が詰まる。ユリウスは、自分が今、どんな表情をしているのかも分からなかった。ただ、脳裏にはゼノンと令嬢の楽しげな姿が焼き付いて離れない。
「ユリウス様!?」
護衛騎士の声が、遠い水の底から響いてくるように聞こえる。しかし、ユリウスの意識は霧に包まれたように朦朧としていた。視界が急速に歪み、彼の目の前に広がる世界が波紋のように揺らぎ始める。馬上で、体がガクンと力を失い崩れ落ちた。鞍から体が滑り落ちていく感覚——。
ドサッ!
鈍い衝撃と共に、ユリウスの意識は深い暗闇へと沈んでいった。
◇◇◇
次に目覚めたとき、ユリウスは自室のベッドにいた。見慣れた天蓋、肌触りの良いシルクのシーツ。全身がズキズキと痛み、特に頭の奥がひどく重い。夕暮れの薄紫の光が、レースのカーテン越しに差し込んでいる。
「ユリウス様! お目覚めになられましたか!」
傍らに控えていた執事と侍女たちが、安堵したように顔を輝かせた。ユリウスはゆっくりと身を起こそうとするが、激しいめまいに襲われる。
「無理なさらないでくださいませ。昨日、馬から落ちられたのです。幸い、お怪我は軽微でございましたが……医師の診断では、日頃の過労からくる失神だろうとのことでした」
執事の丁寧な説明に、昨日の出来事が鮮明にフラッシュバックした。ゼノンと令嬢の微笑み合う姿、そして突然の落馬。あの衝撃が、まだ骨身に染みるように全身に残っているかのようだ。
しかし、それだけではなかった。
(……これは、一体……?)
ユリウスの頭の中に、ぼんやりと馴染みのない映像が浮かんできた。最初は霞のように薄く、やがて次第に鮮明になっていく。見慣れない天を突くような巨大な石造りの塔が無数に立ち並ぶ異様な街並み、奇妙な服装の人々、そして彼自身ではない、もう一人の「自分」。
記憶の断片が、壊れた鏡の破片のように少しずつ繋がっていく。
——「課長、この企画書、これでいけますでしょうか!」
——「ったく、また残業かよ。今日こそ早く帰ってゲームしたいのに!」
——「新規開拓のリストアップ、週末までに終わらせるぞ!」
頭の中で響く声。それは、間違いなく彼の声ではない。しかし、確かに「自分」の思考であり、経験だった。パソコンという不思議な四角い機械に向かい、電話という細長い道具で商談する。満員電車とやらで押しつぶされそうになり、上司に頭を下げ、取引先には営業スマイルでペコペコ頭を下げている。
(サラリーマン……? 営業担当……?)
「……っ」
激しい頭痛が襲い、ユリウスは額を押さえた。混乱していた。これは、夢なのか? しかし、あまりにも現実的で、鮮明だ。まるで、自分がその「人生」を三十年間本当に生きてきたかのように感じられる。
「ユリウス様、大丈夫でございますか? 医師をお呼びいたしましょうか?」
侍女が心配そうに尋ねるが、ユリウスの耳にはその声も遠かった。
(私に、前世の記憶がある……? しかも、こんなにも貴族とはかけ離れた、平凡な会社員の……)
記憶は、まるで二つの川が激流となって合流したかのように、今世のユリウスの思考とぐるぐると混ざり合っていく。これまで「完璧」であることを求められ続けていた自分。感情を押し殺し、常に冷静であろうとしていた自分。それらが、前世の「営業マン」という現実的で多様な経験からくる客観的な視点によって、まるで他人のことのように見えてきた。
(何と不器用な。何と非効率的な生き方をしていたのだ、私は……)
そして、何よりも衝撃的だったのは、あの感情だった。
(……私は、男に恋をしていた、のか?)
前世の自分は、女性にしか興味がなかった。それが当たり前だと思って生きていた。だが、今世のユリウスは、まぎれもなくゼノン・シュヴァルツという男に、魂を焦がすほど深く心を惹かれていた。その事実が、前世の記憶という冷静な視点によって客観的に突きつけられた瞬間、ユリウスの心は嵐のように激しく動揺した。羞恥、驚き、そして、抗えないほどの諦念。
それでも、心臓の奥底で、ゼノンを求める切ない感情が消えることはなかった。むしろ、前世の記憶が混ざり合ったことで、より明確に、そして強固に、その恋心を認識してしまった。
(望みのない恋だ。男同士の恋など、貴族社会では到底許されるものではない。それに、シュヴァルツ卿には、ああいう方が……)
ゼノンと令嬢の微笑み合う姿が脳裏に蘇る。胸の奥がまた、氷の刃で切り裂かれたように冷たく凍り付く。
(そうだ。この恋は、終わらせなければならない)
ユリウスは、ゆっくりとベッドから起き上がった。全身の痛みはまだ残っていたが、不思議と体には新たな力が漲っていた。前世の「平凡な会社員」の記憶が、彼の心に現実的な決意を燃え上がらせていた。
「これより、執務室へ向かう。山積みの書類を片付けねば」
ユリウスの言葉に、執事と侍女は目を丸くした。落馬したばかりのユリウスが、これほど早く、しかも自ら執務に向かおうとするとは。
「ですが、ユリウス様。まだご無理は……」
「問題ない。むしろ、これまでの非効率的なやり方を改める良い機会だ」
ユリウスの瞳は、これまでにないほど澄み渡り、鋼のような強い意志を宿していた。彼は決めた。望みのないゼノンへの恋を、完全に心の奥に封印するために。彼の心を占める全ての感情と時間を、仕事という現実に注ぎ込むのだと。
(そうすれば、いつか……いつか、この胸の痛みも、薄れていくだろう)
ユリウスは眼鏡をかけ直し、静かに執務室へと向かった。廊下に響く彼の足音は、これまでの「氷の貴公子」とは異なる、しかし確固たる決意を刻んでいた。それは、彼自身の恋から逃れるための、新たな戦いの始まりだった。
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