【8+2話完結】氷の貴公子の前世は平社員〜不器用な恋の行方〜

キノア9g

文字の大きさ
5 / 10

第4話:辺境へ、そして広がる誤解

しおりを挟む


 ユリウス・グレンジャーの辺境行きが決定した。公爵家の使用人たちは皆、彼の突然の「療養」に戸惑いながらも、長年の疲れを癒してほしいと心から願っていた。ユリウス自身は、この選択が、ゼノンへの断ち切れない恋から逃れるための、唯一の道だと信じていた。

 旅立ちの朝、霧が立ち込める中庭で、彼は公爵とセドリックに見送られながら、静かに馬車に乗り込んだ。朝の冷気が頬を撫で、馬の嘶きが静寂を破る。王都を離れる馬車の中で、ユリウスは窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。都会の喧騒が遠ざかり、緑豊かな田園風景が広がる。石畳の道から土の道へ。建物の隙間から見える空が、次第に広がっていく。

 ここから先は、彼が当主代行として知り得る情報も限られるだろう。ゼノンが今、何をしているのか、誰といるのかを知ることもなくなる。それは、安堵であると同時に、底知れない寂しさを伴うものだった。

(これで、本当に終わるのだろうか、私のこの愚かな恋は)

 ユリウスの心は複雑だった。恋を終わらせたいと願いながらも、ゼノンの姿を追い続けてきた日々。もう会えなくなるかもしれないという事実は、彼が思っていた以上に、胸の奥を締め付けた。それでも、この苦しみから解放されるためには、物理的な距離が必要だった。

 前世の記憶が混ざり合ったことで、ユリウスは感情を客観視できるようになっていたが、恋心だけは、その理性をねじ伏せるほどの力を持っていた。馬車が揺れるたび、彼の心も同じように揺れ動いた。


 ユリウスの「療養」の噂は、あっという間に王都中に広まった。発端は、公爵家の一部の使用人たちの会話や、医師の診断に接した貴族たちの間で交わされた情報だった。

「グレンジャー殿が、辺境へ療養に向かわれたそうだ」

「何と。お元気そうに見えたが……やはり、無理がたたったのだろうか」

「いや、聞くところによると、どうにも、病が悪化されたとか……」

「まさか、不治の病なのでは……?」

 噂は尾ひれがつき、雪だるま式に膨れ上がった。ユリウスが公爵家を去る際に見せた、これまでのプライドの高い態度とは異なる、どこか憔悴したような、儚げな表情が、この噂に拍車をかけた。使用人たちの間でささやかれた言葉が、貴族たちの茶会で話題となり、やがて街角の噂話へと変わっていく。

——ユリウス・グレンジャーは、不治の病に罹り、療養のため辺境へ向かった——。

 ユリウス本人は、そんな恐ろしい噂が王都中を駆け巡っていることなど、知る由もなかった。彼はただ、心身の休養という名目で、ゼノンから遠ざかることに必死だった。辺境への道のりで、彼が感じていたのは、解放への期待と、深い孤独感だけだった。


 ◆

 その噂が、ゼノン・シュヴァルツの耳にも届いたのは、ユリウスが王都を発ってから数日後のことだった。近衛騎士団の食堂——いつものように、騎士たちの話し声と食器のぶつかり合う音が響く、その場所でのことだった。

「聞いたか、ゼノン。グレンジャー殿が、辺境へ療養に向かわれたそうだ」

 同僚の騎士が、何気なく言った。

 ゼノンは、手にしていた食事を思わず落としそうになった。スープの湯気が立ち上る中、時が止まったような感覚に襲われる。

「療養……? ユリウスが?」

「ああ。何でも、重い病に罹られたとか。王都の医師ではお手上げで、静かな辺境で余生を過ごすのだとか、そうでないとか……」

「まさか、不治の病だという噂まであるぞ」

 ゼノンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。食堂の喧騒が遠のき、同僚の声だけが、やけに鮮明に響いた。

(不治の病……? ユリウスが……死んでしまうかもしれない……?)

 彼の硬く閉ざされていた感情の扉が、一瞬にして打ち破られた。これまでの、ユリウスに避けられていることへの困惑や、嫉妬にも似た感情など、全てが吹き飛んだ。胸を突き破るような激しい衝撃が、雷のように全身を駆け巡る。

「そんな、馬鹿な……」

 ゼノンは、立ち上がろうとしたが、膝の力が抜けてそのまま座り込んでしまった。周囲の喧騒が水の中にいるように遠のき、頭の中は「ユリウスが病」「死んでしまうかもしれない」という言葉で埋め尽くされた。呼吸が浅くなり、手が震える。

 その日からのゼノンは、普段の冷静さを完全に失った。職務に手がつかず、訓練中も集中力を欠いた。剣の動きは鈍り、幾度となく叱責を受けた。しかし、彼の心は、もはや剣を振ることに向かっていなかった。頭の中には、ユリウスの、あの冷たい表情や、自分を避ける後ろ姿ばかりが浮かぶ。

 夜も眠れず、訓練場で一人剣を振るっていた。月明かりの下、汗と涙が頬を伝う。

(俺は、ユリウスに何もしてやれていなかった。ずっと、彼に嫌われていると思って、一定の距離から近づこうとしなかった……)

 何もできずにいた己の無力さ。そして、もしこのままユリウスを失ってしまえば、二度と会えないという現実。その想像が、ゼノンの胸を締め付けた。

(違う。俺は……俺は、ユリウスのことが、好きなんだ)

 この激しい衝撃と喪失の恐怖の中で、ゼノンは初めて、自分のユリウスに対する感情が「恋」であると、はっきりと自覚した。ユリウスに避けられ始めた頃から感じていた、言いようのない焦りや、他の貴族と親しく話す彼への嫉妬。それらすべてが、この「好きだ」という感情へと繋がっていたのだと、今になって気づかされた。

「ゼノン、顔色が優れないようだが、休んだ方がいいのではないか?」

 騎士団長が、心配そうに声をかけた。

 ゼノンは、顔を上げた。その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。迷いは消え、決意だけが残っていた。

「騎士団長。わたくしに、休暇をいただきたく存じます」

 突然の休暇申請に、騎士団長は驚いた。ゼノンは、職務に忠実で、滅多に休暇を取らない男だったからだ。

「何か、急用でも?」

「はい。どうしても、行かねばならぬ場所がございます」

 ゼノンの声には、決して譲らないという強い意志が込められていた。騎士団長は、彼の瞳の奥に宿る、並々ならぬ決意を読み取った。

「分かった。無理をするなよ」

 休暇の許可を得たゼノンは、迷うことなく馬を駆り、王都を後にした。朝霧が立ち込める中、馬の蹄が石畳を叩く音だけが響く。彼の目指す先はただ一つ。ユリウス・グレンジャーが「療養」のため向かったとされる、遠く離れた辺境の地だった。

(ユリウス……! 必ず、側へ行く。どうか、無事で……)

 馬を走らせながら、ゼノンの脳裏には、幼い頃のユリウスの笑顔が蘇っていた。あの、無邪気で、感情豊かなユリウスを、もう一度見たい。何としてでも、彼を助けたい。

 風が頬を撫で、馬の息遣いが荒くなる。道のりは遠く、険しいだろう。しかし、ゼノンの心は、ユリウスへの深い愛情と、彼を失うかもしれないという恐怖で満たされていた。そして、その感情が、彼を未知の旅へと駆り立てていた。

しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

happy dead end

瑞原唯子
BL
「それでも俺に一生を捧げる覚悟はあるか?」 シルヴィオは幼いころに第一王子の遊び相手として抜擢され、初めて会ったときから彼の美しさに心を奪われた。そして彼もシルヴィオだけに心を開いていた。しかし中等部に上がると、彼はとある女子生徒に興味を示すようになり——。

『君を幸せにする』と毎日プロポーズしてくるチート宮廷魔術師に、飽きられるためにOKしたら、なぜか溺愛が止まらない。

春凪アラシ
BL
「君を一生幸せにする」――その言葉が、これほど厄介だなんて思わなかった。 チート宮廷魔術師×うさぎ獣人の道具屋。
毎朝押しかけてプロポーズしてくる天才宮廷魔術師・シグに、うんざりしながらも返事をしてしまったうさぎ獣人の道具屋である俺・トア。 
でもこれは恋人になるためじゃない、“一目惚れの幻想を崩し、幻滅させて諦めさせる作戦”のはずだった。 ……なのに、なんでコイツ、飽きることなく俺の元に来るんだよ? 
“うさぎ獣人らしくない俺”に、どうしてそんな真っ直ぐな目を向けるんだ――? 見た目も性格も不釣り合いなふたりが織りなす、ちょっと不器用な異種族BL。 同じ世界観の「「世界一美しい僕が、初恋の一目惚れ軍人に振られました」僕の辞書に諦めはないので全力で振り向かせます」を投稿してます!トアも出てくるので良かったらご覧ください✨

追放オメガ聖帝の幸せな結婚〜クールなスパダリ騎士に拾われて溺愛されるまで〜

あきたいぬ大好き(深凪雪花)
BL
ノルディーナ王国の聖帝サーナは、教皇のありもしない嘘のせいで聖宮から追放されてしまう。 行く当てがないサーナが国境に向かうと、そこで隣国ルミルカ王国の騎士であるムーシュと出会う。ムーシュから諸事情により偽装結婚を提案されて、サーナは期限付きの偽装結婚ならばよいと承諾し、一時的に保護してもらうことに。 異国暮らしに慣れていく中で、やがてムーシュから溺愛されるようになり……?

来世はこの人と関りたくないと思ったのに。

ありま氷炎
BL
前世の記憶を持つ、いずる。 彼は前世で主人だった三日月と、来世で関わらない事を願った。 しかし願いは叶わず、幼馴染として生まれ変わってしまった。

第2王子は断罪役を放棄します!

木月月
BL
ある日前世の記憶が蘇った主人公。 前世で読んだ、悪役令嬢が主人公の、冤罪断罪からの巻き返し痛快ライフ漫画(アニメ化もされた)。 それの冒頭で主人公の悪役令嬢を断罪する第2王子、それが俺。内容はよくある設定で貴族の子供が通う学園の卒業式後のパーティーにて悪役令嬢を断罪して追放した第2王子と男爵令嬢は身勝手な行いで身分剥奪ののち追放、そのあとは物語に一切現れない、と言うキャラ。 記憶が蘇った今は、物語の主人公の令嬢をはじめ、自分の臣下や婚約者を選定するためのお茶会が始まる前日!5歳児万歳!まだ何も起こらない!フラグはバキバキに折りまくって折りまくって!なんなら5つ上の兄王子の臣下とかも!面倒いから!王弟として大公になるのはいい!だがしかし自由になる! ここは剣と魔法となんならダンジョンもあって冒険者にもなれる! スローライフもいい!なんでも選べる!だから俺は!物語の第2王子の役割を放棄します! この話は小説家になろうにも投稿しています。

記憶を無くしたら家族に愛されました

レン
BL
リオンは第三王子で横暴で傲慢で侍女や執事が少しでも気に入らなかったら物を投げたり怒鳴ったりする。家族の前でも態度はあまり変わらない… 家族からも煩わしく思われたていて嫌われていた… そんなある日階段から落ちて意識をなくした…数日後目を覚ましたらリオンの様子がいつもと違くて…

【8話完結】僕の大切な人はBLゲームの主人公でした。〜モブは主人公の幸せのためなら、この恋も諦められます〜

キノア9g
BL
転生先は、まさかのBLゲームの世界。 モブであるリセルは、恋を自覚した瞬間、幼馴染・セスがこの世界の“主人公”だと気づいてしまう。 このまま一緒にいても、いつか彼は攻略対象に惹かれていく運命——それでも、今だけは傍にいたい。 「諦める覚悟をしたのに、どうしてこんなにも君が愛おしいんだろう」 恋の終わりを知っているモブと、想いを自覚していく主人公。 甘さと切なさが胸を締めつける、すれ違いから始まる運命の物語。 全8話。

異世界召喚に巻き込まれた料理人の話

ミミナガ
BL
 神子として異世界に召喚された高校生⋯に巻き込まれてしまった29歳料理人の俺。  魔力が全てのこの世界で魔力0の俺は蔑みの対象だったが、皆の胃袋を掴んだ途端に態度が激変。  そして魔王討伐の旅に調理担当として同行することになってしまった。

処理中です...