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第4話:辺境へ、そして広がる誤解
しおりを挟むユリウス・グレンジャーの辺境行きが決定した。公爵家の使用人たちは皆、彼の突然の「療養」に戸惑いながらも、長年の疲れを癒してほしいと心から願っていた。ユリウス自身は、この選択が、ゼノンへの断ち切れない恋から逃れるための、唯一の道だと信じていた。
旅立ちの朝、霧が立ち込める中庭で、彼は公爵とセドリックに見送られながら、静かに馬車に乗り込んだ。朝の冷気が頬を撫で、馬の嘶きが静寂を破る。王都を離れる馬車の中で、ユリウスは窓の外を流れる景色をぼんやりと眺めていた。都会の喧騒が遠ざかり、緑豊かな田園風景が広がる。石畳の道から土の道へ。建物の隙間から見える空が、次第に広がっていく。
ここから先は、彼が当主代行として知り得る情報も限られるだろう。ゼノンが今、何をしているのか、誰といるのかを知ることもなくなる。それは、安堵であると同時に、底知れない寂しさを伴うものだった。
(これで、本当に終わるのだろうか、私のこの愚かな恋は)
ユリウスの心は複雑だった。恋を終わらせたいと願いながらも、ゼノンの姿を追い続けてきた日々。もう会えなくなるかもしれないという事実は、彼が思っていた以上に、胸の奥を締め付けた。それでも、この苦しみから解放されるためには、物理的な距離が必要だった。
前世の記憶が混ざり合ったことで、ユリウスは感情を客観視できるようになっていたが、恋心だけは、その理性をねじ伏せるほどの力を持っていた。馬車が揺れるたび、彼の心も同じように揺れ動いた。
ユリウスの「療養」の噂は、あっという間に王都中に広まった。発端は、公爵家の一部の使用人たちの会話や、医師の診断に接した貴族たちの間で交わされた情報だった。
「グレンジャー殿が、辺境へ療養に向かわれたそうだ」
「何と。お元気そうに見えたが……やはり、無理がたたったのだろうか」
「いや、聞くところによると、どうにも、病が悪化されたとか……」
「まさか、不治の病なのでは……?」
噂は尾ひれがつき、雪だるま式に膨れ上がった。ユリウスが公爵家を去る際に見せた、これまでのプライドの高い態度とは異なる、どこか憔悴したような、儚げな表情が、この噂に拍車をかけた。使用人たちの間でささやかれた言葉が、貴族たちの茶会で話題となり、やがて街角の噂話へと変わっていく。
——ユリウス・グレンジャーは、不治の病に罹り、療養のため辺境へ向かった——。
ユリウス本人は、そんな恐ろしい噂が王都中を駆け巡っていることなど、知る由もなかった。彼はただ、心身の休養という名目で、ゼノンから遠ざかることに必死だった。辺境への道のりで、彼が感じていたのは、解放への期待と、深い孤独感だけだった。
◆
その噂が、ゼノン・シュヴァルツの耳にも届いたのは、ユリウスが王都を発ってから数日後のことだった。近衛騎士団の食堂——いつものように、騎士たちの話し声と食器のぶつかり合う音が響く、その場所でのことだった。
「聞いたか、ゼノン。グレンジャー殿が、辺境へ療養に向かわれたそうだ」
同僚の騎士が、何気なく言った。
ゼノンは、手にしていた食事を思わず落としそうになった。スープの湯気が立ち上る中、時が止まったような感覚に襲われる。
「療養……? ユリウスが?」
「ああ。何でも、重い病に罹られたとか。王都の医師ではお手上げで、静かな辺境で余生を過ごすのだとか、そうでないとか……」
「まさか、不治の病だという噂まであるぞ」
ゼノンの顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。食堂の喧騒が遠のき、同僚の声だけが、やけに鮮明に響いた。
(不治の病……? ユリウスが……死んでしまうかもしれない……?)
彼の硬く閉ざされていた感情の扉が、一瞬にして打ち破られた。これまでの、ユリウスに避けられていることへの困惑や、嫉妬にも似た感情など、全てが吹き飛んだ。胸を突き破るような激しい衝撃が、雷のように全身を駆け巡る。
「そんな、馬鹿な……」
ゼノンは、立ち上がろうとしたが、膝の力が抜けてそのまま座り込んでしまった。周囲の喧騒が水の中にいるように遠のき、頭の中は「ユリウスが病」「死んでしまうかもしれない」という言葉で埋め尽くされた。呼吸が浅くなり、手が震える。
その日からのゼノンは、普段の冷静さを完全に失った。職務に手がつかず、訓練中も集中力を欠いた。剣の動きは鈍り、幾度となく叱責を受けた。しかし、彼の心は、もはや剣を振ることに向かっていなかった。頭の中には、ユリウスの、あの冷たい表情や、自分を避ける後ろ姿ばかりが浮かぶ。
夜も眠れず、訓練場で一人剣を振るっていた。月明かりの下、汗と涙が頬を伝う。
(俺は、ユリウスに何もしてやれていなかった。ずっと、彼に嫌われていると思って、一定の距離から近づこうとしなかった……)
何もできずにいた己の無力さ。そして、もしこのままユリウスを失ってしまえば、二度と会えないという現実。その想像が、ゼノンの胸を締め付けた。
(違う。俺は……俺は、ユリウスのことが、好きなんだ)
この激しい衝撃と喪失の恐怖の中で、ゼノンは初めて、自分のユリウスに対する感情が「恋」であると、はっきりと自覚した。ユリウスに避けられ始めた頃から感じていた、言いようのない焦りや、他の貴族と親しく話す彼への嫉妬。それらすべてが、この「好きだ」という感情へと繋がっていたのだと、今になって気づかされた。
「ゼノン、顔色が優れないようだが、休んだ方がいいのではないか?」
騎士団長が、心配そうに声をかけた。
ゼノンは、顔を上げた。その瞳には、かつてないほどの強い光が宿っていた。迷いは消え、決意だけが残っていた。
「騎士団長。わたくしに、休暇をいただきたく存じます」
突然の休暇申請に、騎士団長は驚いた。ゼノンは、職務に忠実で、滅多に休暇を取らない男だったからだ。
「何か、急用でも?」
「はい。どうしても、行かねばならぬ場所がございます」
ゼノンの声には、決して譲らないという強い意志が込められていた。騎士団長は、彼の瞳の奥に宿る、並々ならぬ決意を読み取った。
「分かった。無理をするなよ」
休暇の許可を得たゼノンは、迷うことなく馬を駆り、王都を後にした。朝霧が立ち込める中、馬の蹄が石畳を叩く音だけが響く。彼の目指す先はただ一つ。ユリウス・グレンジャーが「療養」のため向かったとされる、遠く離れた辺境の地だった。
(ユリウス……! 必ず、側へ行く。どうか、無事で……)
馬を走らせながら、ゼノンの脳裏には、幼い頃のユリウスの笑顔が蘇っていた。あの、無邪気で、感情豊かなユリウスを、もう一度見たい。何としてでも、彼を助けたい。
風が頬を撫で、馬の息遣いが荒くなる。道のりは遠く、険しいだろう。しかし、ゼノンの心は、ユリウスへの深い愛情と、彼を失うかもしれないという恐怖で満たされていた。そして、その感情が、彼を未知の旅へと駆り立てていた。
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