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第8話:不器用な二人の未来
しおりを挟む「……シュヴァルツ卿」
ユリウスの唇が、微かに震えていた。それは、歓喜からか、それとも混乱からか、ユリウス自身にも分からなかった。心の奥底では、叫び出したくなるほど嬉しい。この瞬間のために、どれほどの時間を、どれほどの苦しみを耐えてきただろう。しかし、長年にわたって培われたプライドと、生来の不器用さが、素直な言葉を喉の奥に押し込めた。
ゼノンは、ユリウスの言葉にならない反応に一瞬不安な表情を浮かべた。しかし、その瞳の奥に、かつてないほどの動揺と、微かな光を見つけて安堵する。
「ユリウス……俺は、本気だ。これまで、どれほど君に嫌われているかと思っていた……しかし、それでも、この気持ちだけは、どうすることもできなかった」
ゼノンの声は、震えていた。硬い鎧を纏ったような彼が、これほどまでに感情を露わにするのは、初めてのことだった。
「……俺の想いを、今すぐ受け入れてほしいとは言わない。だが、せめて……君に振り向いてもらえるよう、努力することを許してほしい」
その真っ直ぐな瞳に、ユリウスは何も言い返せなかった。言葉は、彼の心を深く貫いていく。
(ああ……こんなにも、愚直で、一途なのだ。それにひきかえ、私はなぜこんなにも不器用なのだろう)
内心は、喜びで爆発しそうだった。しかし、長年の片思いで培われた自虐的な思考が、ユリウスを縛る。
(私のような、冷たくて、完璧であろうとしすぎた人間が、シュヴァルツ卿のような、温かく純粋な心を持つ者に相応しいはずがない)
そして、公爵家嫡男としての責任感も、彼の心を揺さぶった。男同士の恋など、許されるはずがない。
ユリウスは、ぎゅっと唇を噛み締めた。言いたい言葉はたくさんあった。けれど、どれもこれも、喉の奥に引っかかって出てこない。
ゼノンは、そんなユリウスの苦悩を感じ取ったようだった。彼は一歩近づき、まるで壊れ物を扱うように、そっとユリウスの手に触れる。
「ユリウス。急ぎはしない。いくらでも、待つ。どうか、俺に、君の隣にいることを許してもらえないか」
その手の温もりが、ユリウスの心をじんわりと溶かしていく。凍てついた感情の氷が、少しずつ融けていくのを感じた。
そして、ユリウスは意を決した。少なくとも、この男から逃げる必要はない。
「……隣国へは、行きません」
微かに震えていたが、はっきりとした声がゼノンに届いた。
ゼノンの顔に、安堵の表情が広がる。その瞬間、彼の瞳に、これまで見せたことのない、柔らかな光が宿った。
「ありがとう、ユリウス……!」
ユリウスの遊学取り止めは、公爵家にもすぐに伝えられた。公爵は安堵し、セドリックも兄の決断に驚きつつも、どこかほっとした様子だった。王都の貴族たちは、「やはりグレンジャー公爵様のご体調が思わしくないために、無理な旅は中止されたのだろう」と、好き勝手に噂したが、ユリウスはもはや、そんな噂など気にもしなかった。彼の意識は、すべてゼノンに向けられていた。
◇
その日から、ゼノンによる、大胆かつ一途なアプローチが始まった。
日々の職務の合間を縫って、グレンジャー公爵邸を頻繁に訪れるようになったゼノン。執務室にいるユリウスを訪ね、書類仕事を手伝ったり、香り高い茶を淹れたりした。公爵邸の庭園を共に散策し、他愛のない会話を楽しんだり、時には剣の訓練に付き合ったりもした。
最初は、ユリウスも戸惑い、以前のように冷たく突き放そうとした。
「シュヴァルツ卿。あまり頻繁にこのような場所に来られては、周囲の目が……」
眉をひそめるユリウスに、ゼノンはまっすぐな瞳を向けた。
「構わない。俺は、ユリウスと共にありたい」
その言葉に、ユリウスは何も言えなくなった。内心は、そんなゼノンの行動に胸を高鳴らせていた。
ゼノンは、ユリウスの好みを細かく観察し、彼が好む菓子や、珍しい書物をさりげなく贈った。ユリウスが仕事で疲れていると見れば、無理強いすることなく、ただ隣に座って静かに寄り添った。その献身的な態度は、周囲の公爵家の使用人たちの間でも評判になった。
「ゼノン様は、本当にユリウス様のことを想っておられるのだな」
「あんなに頑なだったユリウス様が、ゼノン様の前では、少しだけ柔らかな表情をされるようになった」
使用人たちのささやく声が、廊下に漂う。二人の関係は、周囲には、まるで「不調で心を閉ざした公爵家令息を、騎士が献身的に支える」という、美しい友情物語のように映っていた。
こうした穏やかな日々が続く中、公爵家では大きな決断が下された。ユリウスの度重なる体調不良と、精神的な負担を案じた公爵が、家督継承を早めることを決めたのだ。セドリックが正式に次期当主として発表され、ユリウスは当主代行の重責から解放されることになった。
ある晴れた日の午後、ユリウスとゼノンが公爵邸の庭園を歩いていた時のことだった。薔薇の香りが風に乗って漂い、陽だまりが二人の足元を暖かく照らしている。新緑の季節を迎えた庭園は、二人の心境の変化を祝うかのように美しく輝いていた。
ゼノンは、普段の無表情からは想像できないほど、穏やかな顔でユリウスに語りかけた。
「ユリウス。先日、公爵様とセドリックから、正式に家督をセドリックが継がれると聞いた」
ユリウスは、静かに頷いた。
「はい。しばらくは、私自身の見聞を広め、公爵家を裏から支えることになるでしょう」
ゼノンは、ユリウスの言葉を聞くと、ゆっくりと立ち止まった。陽光が彼の金髪を輝かせている。そして、ユリウスの真正面に立ち、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ユリウス。もし、君が家督の重責から解放されるのならば……」
ゼノンの声が、微かに震える。彼の表情は真剣そのもので、その瞳は、ユリウスの心を射抜くようだった。
「俺の、家へ……来ないか?」
その言葉は、事実上のプロポーズだった。
ユリウスの心臓が、大きく跳ね上がった。全身の血が、一瞬にして沸騰したかのような熱を感じる。頬が紅潮し、呼吸が浅くなる。周囲の薔薇の香りさえも、急に濃厚に感じられた。
(シュヴァルツ卿の、家へ……?)
彼の長年の願望が、今、現実の言葉となって目の前に提示されている。
しかし、長年培ってきた不器用さが、またしてもユリウスの口を塞いだ。素直に「はい」と答えることが、どうしてもできない。喜びと、照れと、そしてこの状況が夢ではないかと疑う気持ちが、彼の心を支配した。
ユリウスは、顔が熱くなるのを感じながら、俯いた。そして、消え入りそうな声で、しかし、ゼノンには聞こえるように、震える唇で答えた。
「……考えて、おきます」
その言葉は、明確な返事ではなかったが、ゼノンにとっては、十分すぎるほどの希望の光だった。ゼノンの顔に、これまで見たことのない、満面の笑みが広がった。
「ああ! いくらでも、待つ!」
彼は、喜びのあまり、思わずユリウスの、小さく震える手を、そっと握りしめた。その温もりが、二人の間に静かに広がっていく。薔薇の香りに包まれた庭園で、二人の新しい物語が、静かに始まろうとしていた。
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