【完結済】夏だ!海だ!けど、僕の夏休みは異世界に奪われました。

キノア9g

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第8話「空を見上げれば、またあなたに会える気がした」

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 王都の朝は、戦いの余韻を残しつつも静けさに包まれていた。街の人々は安堵の表情を浮かべ、子どもたちの笑い声が石畳に響いている。昨日まで死と隣り合わせの戦場だった場所が、今はこんなにも平和に見えるなんて──時間の流れって、不思議だ。

 僕はゼイドの寝室の窓に手をかけて、そっとカーテンを開いた。柔らかな朝の光が室内に差し込み、埃の粒子がきらきらと舞い踊る。ベッドに横たわるゼイドの顔に、薄っすらと光が当たった。

 包帯に覆われた彼の左肩が、規則正しく上下している。治療師の話で、傷は深かったものの、命に別状はないと聞いていた。それでも、意識を失ったまま一晩過ごした彼を見ていると、胸の奥がきゅっと痛んだ。

「……うん……」

 微かな呻き声が聞こえて、僕は急いでベッドサイドに近づいた。ゼイドの瞼がわずかに動き、やがてゆっくりと開かれる。焦点の定まらない瞳が、ぼんやりと天井を見つめていた。

「ゼイド……気がついたんですね」

 僕の声に反応して、彼の視線が僕の方に向けられた。その瞳に意識がはっきりと戻り、口元がかすかに動く。

「凛人……」

 かすれた声だったけれど、確かに僕の名前を呼んでくれた。それだけで、僕の心は安堵で満たされた。良かった。本当に良かった。

「無理をしないでください。まだ傷が……」

「戦いは……どうなった」

 ゼイドは体を起こそうとしたが、僕は慌ててそれを制止した。彼の肩に触れると、包帯の下から体温が伝わってきた。生きている温度。昨日、あんなにも冷たくなりかけていたのに。

「魔王軍はもう……いなくなりました。穢れも、すっかり消えて……みんな無事です」

「そうか……君が成し遂げたのだな」

 ゼイドの表情が、ほんの少しだけ和らいだ。

「一人じゃありません。あなたが守ってくれたから……」

 僕の言葉に、ゼイドは小さく首を振った。そして、僕の手に自分の手を重ねる。昨夜よりもずっと温かい手だった。

「君の力だ。私は……ただ側にいただけだ」

「そんなことない……」

 本当はもっと伝えたい気持ちがあった。でも──今は、彼が無事だということが何より大切だった。それ以外のことは、後でゆっくり話せばいい。

 しばらくして、ゼイドの容態が安定したことを確認した治療師から、短時間なら外に出ても構わないという許可が出た。午後の陽だまりの中、僕たちは王宮の庭園にあるベンチに腰を下ろしていた。

 風が穏やかに吹いて、二人の前髪を揺らしている。花壇に咲く白い花の香りが、心地よく鼻腔をくすぐった。ゼイドは左肩を庇うようにして座っているが、その表情は朝よりもずっと穏やかだった。

「……昨日のこと、覚えていますか」

 僕がそう切り出すと、ゼイドの視線が僕に向けられた。彼の瞳の奥に、何かをためらうような光が見える。

「ああ……覚えている」

「そう……ですか」

 しばらく、無言の時間が流れた。鳥のさえずりと、遠くから聞こえる街の喧騒だけが、僕たちの間の静寂を埋めている。僕は膝の上で手を組んだり離したりしながら、どう切り出そうかと考えていた。

 告白への返事。それを伝えなければならない。でも、言葉にしようとすると、なぜか胸の奥がもどかしくなる。どんな言葉を選んでも、自分の気持ちを正確に表現できる気がしなかった。

 だから、僕は言葉の代わりに行動を選んだ。

 そっと手を伸ばして、ゼイドの手に触れる。彼が驚いたように僕を見たが、手を引こうとはしなかった。僕は指を絡めるようにして、彼の手を握った。

 ゼイドの瞳が、僕の顔を見つめている。僕は迷いを振り払うように、しっかりと彼の目を見返した。そして、小さくうなずく。

 それが僕の答えだった。告白への、返事だった。

 ゼイドの表情が、ほんの少しだけ変わった。いつもの緊張が解けて、肩の力が抜けたように見える。彼の指が、僕の指をそっと握り返してくれた。その感触から、彼の気持ちが伝わってくるようだった。

「……ありがとう」

 彼の声は、いつもより柔らかかった。そして、僕たちはそのまま、静かに手を繋いでいた。


 その日の夕方、王の使いが僕を訪ねてきた。彼は丁寧な礼をした後、重要な報せがあると告げた。

「御影殿、帰還の光が展開されました。明日の日没と共に、あなたを元の世界へとお送りすることができます」

 使いの言葉が、僕の耳に届いた瞬間、時間が止まったような感覚に陥った。帰還の光。元の世界への帰還。僕が望んでいたはずのこと。

「……そう、ですか」

 僕の声は、自分でも驚くほど平坦だった。使いは僕の表情を窺うように見つめていたが、やがて一礼して部屋を後にした。

 一人になった部屋で、僕は窓の外を見つめていた。夕焼けが空を茜色に染めている。美しい夕暮れだった。でも、僕の心は重かった。

 帰れるという報せを聞いて、僕は嬉しくなかった。それどころか、胸の内側が急に空洞になったような感覚が押し寄せていた。

 荷造りをしなければならない。そう思って立ち上がったが、足が動かなかった。目の前にある僕の荷物よりも、記憶の中に焼き付いたゼイドの瞳の方が、ずっと鮮明に思い浮かんだ。

 庭園で手を繋いだ時の温度。彼の指の感触。そして、彼の穏やかな笑顔。それらすべてを置いて、僕は帰らなければならないのだろうか。

「帰りたく……ないな」

 僕は小さく呟いた。その言葉は、僕自身の本心だった。この世界に来た時は、一刻も早く帰りたいと思っていたのに。今は、ここに留まりたいと思っている。

 でも、帰らなければならない。僕には元の世界での生活があるし、きっと家族も心配している。そして何より、僕がこの世界に留まることで、ゼイドに迷惑をかけてしまうかもしれない。

 僕はゆっくりと荷物をまとめ始めた。でも、手が震えていて、思うように作業が進まなかった。

 翌日の夕方、王宮広場に召喚陣が展開された。複雑な魔法陣が地面に描かれ、その中央に光る石が配置されている。騎士たちが遠巻きに見守る中、僕は陣の前に立っていた。

 重い足取りで広場に向かう途中、僕はゼイドの姿を見つけた。彼は陣から少し離れた場所に立って、地面に視線を落としていた。包帯が巻かれた左肩が、彼の負った傷の深さを物語っている。

 僕が近づいても、ゼイドは顔を上げなかった。でも、僕の足音を聞いて、彼の体がわずかに強張ったのがわかった。

「ゼイド……」

 僕が声をかけると、彼はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、言葉にならない感情が渦巻いている。僕は、彼がこんな表情をするのを見たことがなかった。

「……元気で」

 僕がそう言いかけた時、風に紛れるような小さな声が聞こえた。

「行くな」

 その言葉は、僕の胸に深く突き刺さった。ゼイドの口から漏れた、本音だった。僕は立ち止まり、ほんの少しだけ顔を伏せる。心が、音を立てて軋んだ。

 僕だって行きたくない。でも、帰らなければならない。それが現実だった。

 でも、少しだけ。ほんの少しだけでも、僕の気持ちを伝えたかった。

 僕は一歩前に出て、ゼイドの首にそっと腕を回した。彼の体が驚いたように固くなる。そして、躊躇うことなく、僕は彼の唇に自分の唇を重ねた。

 短くて、不器用で、でも確かに温かいキスだった。ゼイドは最初驚いて固まっていたが、やがて僕の背中にそっと手を回してくれた。わずかに震えていたその感触に、僕は彼の気持ちを感じ取った。

 僕たちは数秒間そうしていた。言葉では表現できない想いが、その短い時間に込められていた。

 やがて僕は彼から離れて、微笑みに近い表情で彼を見つめた。ゼイドの瞳が、僕の顔を見詰め返している。

「またね」

 僕は微かな声でそう言った。約束というより、願いのような言葉だった。

 それ以上は言えなかった。振り返ることもできなかった。僕はそのまま陣の中央へ向かって歩いた。

 陣の中心に立つと、足元の魔法陣が淡く光り始めた。その光は次第に強くなり、僕の体を包み込んでいく。周囲の景色がゆらゆらと揺れて、やがて白い光に覆われた。

 最後に見えたのは、ゼイドの立っている姿だった。彼は僕をじっと見つめていて、その表情は僕の記憶に深く刻まれた。

 光が音もなく立ち昇り、僕の体がゆっくりと宙に浮いた。世界が遠ざかっていく。ゼイドの姿も、王宮も、すべてが小さくなっていく。

 そして、僕の意識は白い光の中に溶けていった。

 光の眩しさが引いていき、僕は夕暮れの海辺に立っていた。波が足元に打ち寄せて、冷たい海水が僕の素足を濡らしている。

 僕は海パン姿で、手にスマホを持っていた。ああ、そうだった。僕は海に遊びに来ていたんだ。瑛人達と一緒に。

 波の音が、リズミカルに響いている。空は夕焼けに染まって、雲がゆっくりと形を変えながら流れていた。いつもの海、いつもの空。でも、なぜか違って見える。

 ふと、僕は自分の唇に指先を触れた。ほんの少し、熱が残っていた。

 目を閉じると、肌の記憶が呼び起こされる。ほんの短くて、でも確かだった温度。あのキスの感触が、まだ唇に残っている。ファーストキス。僕の、初めてのキス。

 頬が熱くなった。照れている自分に、僕は思わず小さく笑ってしまった。あんなことをするなんて、我ながら大胆だったと思う。でも、後悔はしていない。あの瞬間、僕は自分の気持ちを正直に表現できた。

 胸元に手をやる。そこには何もないけれど、まだゼイドの存在を感じることができた。彼の声、彼の手の温度、彼との記憶。それらは全部、僕の心の中に刻まれている。

 風が涼しくなってきて、僕は波打ち際をゆっくりと歩き始めた。砂が足の指の間に入り込み、波が寄せては返している。

 世界は日常に戻っている。海水浴客たちの笑い声が響いている。すべてがいつも通りで、僕の体験した冒険を知る人は誰もいない。

 でも、僕の心の一角に、誰も知らない特別な夏が静かに刻まれていた。

 僕は空を見上げた。雲間から一番星が顔を覗かせている。

 きっと、またあの世界の空にも、同じ星が輝いているんだろう。ゼイドも、この空を見上げている気がした。そう思うと、別れの寂しさが少しだけ和らいだ。

「またね……」

 僕は小さく呟いて、夕暮れの海を歩き続けた。波の音が、まるで遠い世界からの返事のように聞こえた。
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