【16+4話完結】虚な森の主と、世界から逃げた僕〜転生したら甘すぎる独占欲に囚われました〜

キノア9g

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2章

第9話:『揺らぐ実存』

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 意識が浮上するよりも先に、心臓の鼓動がやけに大きく聞こえた。
 トクン、トクン、と。静寂の中で、自分の命のリズムだけが響いている。

 蓮が重い瞼をゆっくりと開けると、視界いっぱいに漆黒の色彩が広がっていた。
 絹のように滑らかな黒髪。そして、間近にある整った顔立ち。
 ゼルフィードが、蓮の胸元に耳を押し当てるようにして、じっと伏せているのだ。まるで、懐中時計の音を確かめるように、蓮の心臓の音に耳を澄ませている。

「……ゼルフィード、さん?」

 蓮が寝起きのかすれた声で呼ぶと、長い睫毛が震え、ゆっくりと紫色の瞳が露わになった。
 その瞳には、寝起きのまどろみなど微塵もない。鋭く、そしてどこか切実な光を宿して、蓮を見上げている。

「……起き、たか」

 彼は体を起こすことなく、蓮の胸の上で呟いた。ひんやりとした彼の体温が、薄い寝間着越しに伝わってくる。

「どうしたんですか? そんな体勢で」

「……音を、聞いていた」

「音?」

「お前の、命の音だ」

 ゼルフィードの冷たい指先が、蓮の左胸の上をなぞる。
 かつて「虚無」そのものだった彼にとって、蓮が刻む温かな鼓動は、この世界で最も美しい旋律なのかもしれない。けれど今日の彼は、それを愛でているというよりは、それが「止まっていないか」を執拗に確認しているかのような、張り詰めた空気を漂わせていた。

「ちゃんと動いていますよ。僕はここにいます」

 蓮は苦笑しながら、彼の手をそっと握り返した。
 ゼルフィードは、ふぅ、と小さく息を吐き出すと、ようやく体を起こした。

「ああ……そうだな。お前は、ここにいる」

 自分に言い聞かせるような低い声。
 彼は蓮の手を自分の唇へと運び、指の関節一つ一つに、祈るような口づけを落としていく。おはようの挨拶代わりの、朝の儀式。それは甘い愛撫であると同時に、蓮という存在の輪郭を確かめる、厳粛な作業のようでもあった。

 蓮はくすぐったさに目を細めながら、窓の外に広がる森を見た。
 かつて死に絶えていた森は、今や瑞々しい緑に溢れている。小鳥たちが歌い、木漏れ日が揺れる平和な楽園。
 何も変わらない、幸せな朝のはずだ。
 けれど、ゼルフィードの指先がいつもより僅かに冷たく、そして強く蓮を掴んでいることに、蓮は一抹の不安を覚えずにはいられなかった。


 ◇◇◇

 午後の日差しが、テラスの白い石畳を照らしていた。
 森の奥深くにあるこの邸宅では、時間の流れさえも緩やかに感じられる。

 テーブルには、ゼルフィードが集めさせた古書と、午後のティーセットが並べられていた。
 蓮は猫舌だ。淹れたての紅茶からは湯気が立ち上っており、すぐには口をつけられない。カップを見つめて少し困ったように眉を下げていると、向かいに座っていたゼルフィードが、無言で手を伸ばしてきた。

 彼の長く美しい指が、蓮のカップの側面に触れる。
 途端に、空気中の水分が凍るような、微かな音がした。
 カップの表面にうっすらと霜が降り、湯気がふわりと消えていく。彼が自身の冷気を操り、紅茶を飲み頃の温度へと冷ましたのだ。

「……これでいいか?」

 ゼルフィードが静かに問う。
 魔法のような、けれど彼にとっては呼吸するより簡単な日常の奇跡。

「ありがとうございます。いつもすみません」

「気にするな。俺の力は、お前のためだけにある」

 彼は事もなげに言い放つと、再び手元の書物に視線を落とした。
 その横顔は冷淡な彫刻のようだが、蓮のためにカップを冷ますその行動一つに、不器用で深い溺愛が詰まっている。
 蓮はふふっと小さく笑い、彼が適温にしてくれた紅茶へ手を伸ばそうとした。

 その時だ。

 視界の端が、ぐにゃりと歪んだ気がした。
 めまいだろうか。蓮は瞬きをした。
 歪みはすぐに収まったが、奇妙な違和感が残る。自分の体が、周囲の風景から「浮いている」ような、足元の地面が頼りなく感じるような、酷く不安定な感覚。

(なんだろう……最近、よく疲れる気がする)

 蓮は気を取り直し、ソーサーの上のカップの取っ手を掴もうと、指を伸ばした。
 そこにある陶器の質感。指が触れるまでの距離感。前世から何度も繰り返してきた、当たり前の動作。

 ——スカッ。

 指先が、空を切った。

「え?」

 蓮は呆気にとられた。
 見間違いではない。蓮の右手の人差し指と中指が、カップの取っ手を「通り抜けた」のだ。
 まるで、カップが幻影であるかのように。あるいは、蓮の手の方が、霞か煙になってしまったかのように。

 音もなく、抵抗もなく。
 指は陶器の物質感を無視して、向こう側へと突き抜けていた。

「……っ!?」

 蓮は反射的に手を引っ込めた。
 心臓が早鐘を打つ。今のは何だ?
 自分の手を見る。白く、細い手。血管が透けて見えるほど白い肌だが、確かにそこにある。
 恐る恐る、もう一度カップに触れようとする。

 カチリ。

 今度は、硬い陶器の感触があった。持ち上げると、液体の重みが指にかかる。

(夢……? それとも、見間違い……?)

 背筋に冷たい汗が伝う。
 単なる見間違いにしては、あの「すり抜けた」感覚はあまりにもリアルで、そして気味が悪かった。自分がこの世界という絵画に描かれた、出来の悪い偽物であることを突きつけられたような、根源的な恐怖。

「……蓮」

 鋭い声が、蓮の思考を遮断した。
 ハッとして顔を上げると、ゼルフィードが本を閉じ、こちらを凝視していた。
 その瞳は剣呑に細められ、虹色の光が揺らめいている。

「今……お前の手が」

 見ていたのだ。
 誤魔化そうと口を開きかけた蓮を制するように、ゼルフィードが立ち上がり、大股で近づいてきた。
 蓮の隣に膝をつき、その右手を両手で包み込む。
 冷たい。けれど、その冷たさが今は痛いほどに現実的で、蓮を安心させた。

「透けたように見えた。……違うか?」

 ゼルフィードの声には、隠しきれない動揺が滲んでいた。
 彼は蓮の手のひらを、指先を、そして手首を、確かめるように強く擦る。まるで、薄くなりかけた存在を、摩擦熱で現像しようとするかのように。

「……わかりません。掴もうとしたら、触れなくて……。ただの、目の錯覚だと……」

 蓮の声が震える。
 ゼルフィードは何も言わず、蓮の手を自分の頬に押し当てた。
 彼の肌の感触。冷たく、滑らかな感触が、蓮の手のひらに伝わってくる。

「ここに、ある。……確かにある」

 彼は自分に言い聞かせるように呟いた。その瞳の奥で、不安という名の炎が揺らめいている。
 彼は知っているのかもしれない。この現象が意味するものを。あるいは、もっと悪い何かを予感しているのか。

「今日はもう休もう。部屋に戻るぞ」

「でも、まだお茶が……」

「ダメだ」

 ゼルフィードは有無を言わせぬ口調で蓮を抱き上げた。
 その腕に込められた力は、蓮を落とさないためというよりは、蓮がどこかへ消えてしまわないように、世界そのものから隔離しようとするような、必死さを孕んでいた。


 ◇◇◇

 その夜。
 蓮は寝室のベッドで、ゼルフィードの腕の中に閉じ込められていた。
 いつもなら、彼は蓮が眠りにつくまで優しく髪を撫でてくれるだけだ。だが今夜の彼は、蓮の体に腕を回し、自分の体温を分け与えるように——あるいは蓮の体温を奪い取って保存しようとするように——密着して離れない。

 窓の外では、風もないのに木々が不気味にざわめいていた。
 森全体が、何かに怯えているような、あるいは警告を発しているような気配。

「……ゼルフィードさん。苦しい、です」

 蓮が小さく訴えると、拘束は僅かに緩んだが、それでも逃げる隙間はない。
 見上げると、ゼルフィードは眠っていなかった。
 暗闇の中で、紫の瞳が妖しく光り、じっと蓮を見つめている。

「……行かせない」

 ポツリと、彼が呟いた。

「え?」

「お前は俺のものだ。世界の理(ことわり)だろうと、運命だろうと……お前を奪わせはしない」

 その言葉の響きに、蓮はぞくりとした。
 それは愛の言葉であると同時に、世界に対する宣戦布告のようにも聞こえたからだ。

「僕はどこにも行きませんよ。ずっと、ここにいます」

 蓮は、震える声で精一杯の笑顔を作った。
 そうだよ、と自分に言い聞かせる。ここは僕の居場所だ。彼がいて、僕がいる。それだけで世界は完成しているはずなんだ。

 けれど。

 ゼルフィードの服を掴んでいる自分の左手を、ふと見た時。
 月明かりに照らされた指先が、また一瞬だけ、蜃気楼のように揺らいだ気がした。

 黒い布地が、指を通して透けて見えるような——。

(……っ!)

 蓮は息を飲み、強く目を閉じて、ゼルフィードの胸に顔を埋めた。
 見間違いだ。そう思いたい。
 でも、胸の奥で警鐘が鳴り響いている。
 この世界が、自分という異物を認識し、排除しようとしているのではないかという、根源的な予感が。

 ゼルフィードの腕が、さらに強く蓮を抱きしめた。
 骨がきしむほどの強さ。痛みすらも愛おしいほどの執着。

「離さない……絶対に」

 彼の低い声が、夜の闇に溶けていく。
 二人は、互いの存在を確かめ合うように体を寄せ合った。
 しかし、その温もりの外側では、静かに、しかし確実に、楽園の扉を叩く「招かれざる音」が近づいてきていた。
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