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2章
第10話:『招かれざる審判者』
しおりを挟む翌朝、目覚めた蓮を待っていたのは、昨日までとは明らかに異なる、張り詰めた空気だった。
ゼルフィードは、蓮がベッドから降りることすら許さなかった。
食事もベッドの上で、彼が口元まで運んでくれる。着替えさえも、彼の手によって行われる。まるで、蓮が赤子か、あるいは今にも壊れそうなガラス細工になってしまったかのような過保護ぶりだった。
彼の美しい顔には、濃い疲労の色が見えた。おそらく、一睡もしていないのだろう。
紫の瞳は常に周囲を警戒し、少しの物音にも鋭く反応する。
「ゼルフィードさん、そんなに警戒しなくても……。昨日のあれは、きっと僕の疲れのせいですから」
蓮は彼の強張った頬に手を添え、努めて明るく振る舞った。
しかし、ゼルフィードは首を横に振る。
「いや……感じるんだ。何かが、近づいている」
彼の声は低く、唸るようだった。
森の主である彼がここまで警戒する「何か」。それは、かつて蓮を連れ戻しに来た人間たちや、森に迷い込む魔物とは次元の違う、もっと根本的で強大な気配なのだろう。
「今日は一日、ここを動くな。俺のそばから離れるな」
ゼルフィードは蓮の手首を掴み、自身の冷たい唇を押し当てた。
その冷気は、蓮の肌を通して魂まで凍らせるような、切実な祈りの温度だった。
◇◇◇
午後になり、邸宅を包む森の静寂が、さらに深まった時だった。
窓の外で囀っていた小鳥たちの声が、唐突に途切れた。
風が止まり、揺れていた木々の葉がピタリと静止する。
まるで、世界そのものが一時停止ボタンを押されたかのように、すべての動きと音が消失した。
「……っ、来た」
ゼルフィードが弾かれたように顔を上げた。
次の瞬間、彼は蓮を抱きかかえ、ベッドから飛び退いた。
直後。
部屋の空間が、音もなく裂けた。
バリ、という破壊音ではない。水面に一滴のインクを垂らした時のように、空間そのものが「滲み」、そこからひとつの影が染み出してきたのだ。
現れたのは、一人の青年だった。
透き通るような白磁の肌。白銀ともプラチナともつかない、光り輝く長い髪。
そして何よりも異質なのは、その瞳だった。
瞳孔がなく、ただ金色の光だけで満たされた瞳。そこには感情というものが一切存在せず、ただただ冷徹な「機能」としての光が宿っていた。
その青年は、ゼルフィードが森に張り巡らせていた絶対的な結界を、壊すこともなく、まるでそこには最初から何もなかったかのように「すり抜けて」立っていた。
「……何者だ」
ゼルフィードの声が、地を這うような殺気を帯びる。
彼は蓮を背後に隠し、全身から黒い虚無のオーラを立ち昇らせた。部屋の空気が凍りつき、壁や床がミシミシと悲鳴を上げる。
しかし、侵入者は眉一つ動かさなかった。
金色の瞳が、ゼルフィードを通り越し、その背後にいる蓮を捉える。
「見つけました」
鈴を転がすような、美しい声だった。しかしその響きには、人間的な温かみが欠片もない。
「特定個体識別名『レンオリス』。……やはり、ここに隠されていましたか」
青年は、事務的にそう呟くと、一歩前に踏み出した。
ゼルフィードが即座に反応する。指を弾き、漆黒の茨を青年の足元から出現させた。触れるもの全てを枯死させる、死の茨だ。
だが、茨は青年の体に触れた瞬間、光の粒子となって霧散した。
「なっ……?」
ゼルフィードの瞳が見開かれる。
青年は、足元の茨など存在しないかのように、静かに言葉を続けた。
「無駄です、古き森の主よ。私は『管理者』。世界の理(ことわり)そのもの。あなたの力は『現象』ですが、私は『法則』です。現象は法則には逆らえない」
管理者。
その言葉を聞いた瞬間、蓮の背筋に戦慄が走った。
本能が告げている。この存在は、敵だ。それも、とてつもなく強大で、逃れられない絶対的な敵だ。
「何の用だ。……俺の領分に土足で踏み込むとは、消滅する覚悟ができているのだろうな」
ゼルフィードは殺気を緩めず、蓮を庇う腕に力を込めた。
管理者は、表情を変えずに答える。
「あなたに用はありません。私が修正しに来たのは、あなたの後ろにいる『異物』です」
「……異物、だと?」
「そうです。そこの人間——本来、この世界線に存在してはならない魂。前世の記憶という不純物を抱え込み、世界の因果を歪めている歪み」
管理者の金色の瞳が、蓮を射抜いた。
その視線を受けた瞬間、蓮の視界が再びぐらりと歪んだ。
ドクンッ!!
心臓が爆発しそうなほど大きく跳ねた。
昨日のようなめまいではない。もっと直接的な、体を引き裂かれるような激痛が全身を走った。
「あ、ぐっ……!」
蓮は苦悶の声を漏らし、その場に崩れ落ちそうになる。
それを支えたゼルフィードの腕の中で、蓮の視界に信じられないものが映った。
自分の手が、足が、透けている。
昨日のような一瞬の錯覚ではない。はっきりと、向こう側の床板が見えるほど透明になり、輪郭が砂のように崩れかけているのだ。
「蓮ッ!!」
ゼルフィードが悲鳴のような声を上げた。
彼は透けかけた蓮の体を必死に抱きしめる。しかし、その腕は蓮の体をすり抜けそうになり、ゼルフィードは自身の冷気で無理やり蓮の輪郭を凍らせて固定しようとした。
「ダメだ! 消えるなッ!」
「痛い、ゼルフィードさん、痛いよぉ……っ」
肉体的な痛みではない。自分が自分でなくなっていくような、存在の喪失感が激痛となって脳を焼き焦がす。
「見ての通りです」
管理者は、苦しむ二人を見ても眉一つ動かさず、淡々と言った。
「世界が彼を拒絶しています。このまま放置すれば、歪みは拡大し、彼自身の魂が崩壊するだけでなく、周囲の世界——つまりあなたやこの森にも、修復不能な亀裂が入るでしょう」
「だから、どうしたと言うんだ!」
ゼルフィードが叫ぶ。
「蓮が消えるというなら、俺が繋ぎ止める! 世界が壊れるというなら、壊れればいい! 俺には、蓮さえいればいいんだ!」
それは、世界を敵に回しても構わないという、狂気にも似た愛の叫びだった。
しかし、管理者は冷ややかに首を横に振った。
「非効率的ですね。感情論でシステムの崩壊を招くわけにはいきません。……仕方ありません。彼を救うための選択肢を提示しましょう」
管理者が、白く輝く二本の指を立てた。
「この異物を解消する方法は二つ。一つ目は、『輪廻への帰還』です」
管理者の指先から、白い光が漏れる。
「今の肉体を捨て、魂を浄化し、新たな生命として生まれ変わる。つまり、ここでの死です。そうすれば、苦痛もなく、世界の歪みも解消されます」
「ふざけるなッ! 殺させなどしない!」
ゼルフィードが咆哮する。蓮を殺すなど、論外だ。
蓮も、激痛に耐えながら首を振った。死にたくない。ゼルフィードと離れたくない。
「では、二つ目」
管理者は、もう一本の指を立てた。
「『存在の書き換え(上書き)』です」
「書き換え……?」
ゼルフィードが怪訝そうに眉を寄せる。
「彼の中にある異物——つまり『前世の記憶』と、それに付随して生じた『この森での記憶』をすべて消去します。そして、彼を本来あるべき姿——貴族の三男『レンオリス』として、完全に初期化するのです」
蓮は息を呑んだ。痛みが一瞬、遠のくほどの衝撃だった。
それはつまり——。
「前世の自分も……ゼルフィードさんのことも、全部忘れるということですか?」
「そうです。原因となっている記憶を取り除けば、あなたは正常なこの世界の住人として定着できる。家族の元へ戻り、貴族として真っ当な人生を歩めるでしょう」
管理者は、まるで素晴らしい提案をしているかのように言った。
「死んで輪廻に戻るか、記憶を捨てて生き直すか。どちらかを選びなさい」
「嫌だ……!」
蓮は叫んだ。涙が溢れ出し、透けた頬を伝って落ちる。
死ぬのは嫌だ。でも、忘れるなんて、もっと嫌だ。
ゼルフィードと過ごした日々。彼の温もり。彼の不器用な優しさ。
灰色の前世で一度も得られなかった、誰かに一番に愛されるという幸福。
それら全てを失って生きるなんて、死んでいるのと同じじゃないか。
「僕は選びません! 僕はもうレンオリスじゃない! ゼルフィードさんの恋人、蓮です!」
蓮の必死の拒絶に、管理者は溜息をついた。
「やはり、異物の影響で判断能力が低下していますね。……残念ですが、猶予はありません」
管理者が右手を掲げた。
その瞬間、邸宅の外の風景が一変した。
鮮やかだった森の緑が、一瞬にして灰色の石像のように固まったのだ。揺れていた葉も、飛んでいた鳥も、すべてが静止している。
「な……時を、止めたのか?」
ゼルフィードが驚愕の声を漏らす。
「この空間を時間ごと凍結しました。これでもう、ここから逃げることは不可能です」
管理者は冷徹な眼差しで、抱き合う二人を見下ろした。
「執行は、明日の夜明けとします。それまでに別れを済ませなさい。……選ばないのであれば、私が強制的に『死』を与えます」
言い捨てると、管理者の姿は光の粒子となって霧散した。
後には、時間が止まった静寂の森と、絶望的な宣告を突きつけられた二人だけが残された。
「……は、ぁ……っ」
管理者の気配が消えると同時に、蓮を襲っていた激痛が少し和らいだ。
しかし、体の輪郭はまだ不安定に揺らいでいる。
「蓮……」
ゼルフィードが、縋るように蓮を抱きしめた。
その体は小刻みに震えている。
最強の森の主である彼が、圧倒的な理(ことわり)の前に、なす術もなく立ち尽くしている。
「……すまない、蓮。俺が……俺が弱いせいで……」
彼の悲痛な謝罪が、蓮の胸を締め付けた。
違う。彼は弱くない。悪いのは、この世界に馴染めなかった自分なのだ。
蓮は、透けかけた手でゼルフィードの背中に腕を回した。
確かな彼の体温。冷たいけれど、温かい。
この温もりを、明日には失ってしまうのだろうか。あるいは、忘れてしまうのだろうか。
窓の外では、灰色の世界が広がっている。
夜明けまでのわずかな時間。
それが、二人に残された、最後の猶予だった。
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