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第1話:『禁忌の森、その底で零れた邂逅』
しおりを挟む蓮は、瞼の裏に鈍い痛みを覚えながら、ゆっくりと意識を浮上させた。頭を揺さぶられるような浮遊感が、やけに生々しい。夢にしては妙に現実的だと、ぼんやりと思う。
「……ま、さか」
口から漏れたのは、幼い子供の、か細い声だった。
蓮は混乱したまま薄目を開けた。視界に飛び込んできたのは、見慣れない天蓋付きのベッド。そして肌触りの良い上質な絹のシーツ。自分の手を見下ろせば、皺ひとつない、まるで象牙細工のような白く細い指がそこにあった。子供特有の丸みを帯びた手のひら——それは、前世の蓮が三十数年間使い込んだ、ごつごつとしたそれとは似ても似つかない。
蓮には、前世の記憶があった。日本のどこにでもいる、ごく平凡なサラリーマン。それがある日、暴走したトラックに跳ねられ、あっけなく人生の幕を閉じたはずだった。それなのに、今こうして意識がある。しかも、子供の体で、異世界らしき場所にいる。
いわゆる「転生」というやつだろうか。ネット小説で読んだことはあったが、まさか自分がその当事者になるとは。
戸惑いを抱えながらも、蓮は与えられた新たな生に静かに順応しようと努めた。どうやら自分は、この世界の「貴族」という存在らしい。贅を尽くした館、召使い、そして血筋を重んじる厳格な教育。全てが蓮の前世の常識とはかけ離れていたが、持ち前の従順さで、与えられた役割を受け入れていった。
ただ、困ったことに、この新しい体はひどくひ弱だった。少し歩けば息が切れ、冬はひどく体調を崩しやすい。貴族社会特有の乗馬や剣術の稽古でも、すぐに体が音を上げてしまうため、周囲からは半ば諦められている。
それでも蓮の容姿だけは、まるで絵画から抜け出たように美しかった。色素の薄い銀色の髪は光を浴びてきらめき、大きく潤んだ青い瞳は、見る者を惹きつける不思議な輝きを宿している。その美しさゆえか、両親や兄は何かと蓮を丁重に扱い、甘やかすこともあった。
だが蓮自身は、そんな自分の美しさにもどこか自己肯定感を持てずにいた。前世の自分が平凡だった分、この与えられた美貌に対し、「中身が伴っていない」という意識があったのだ。貴族としての務めも果たせず、ひ弱で、これといった才覚もない。周囲の子供たちと話していても、前世の記憶があるためか、どうにも波長が合わないと感じてしまう。
(でも……この見た目なら、前世とは違う自分になれるかも)
転生したての頃、蓮は淡い期待を抱いたこともあった。だが結局のところ、見た目だけでは内面を変えることはできないのだと思い知らされた。いつの間にか周囲からは「お飾り」のように扱われるようになり、ただその美しさゆえに、いつか政略結婚などの道具として使われるのだろうという漠然とした諦めが、蓮の心に澱のように溜まっていた。
そんな蓮が暮らす領地の近くには、広大な森が広がっていた。領民たちはその森を「禁忌の森」と呼び、決して近づこうとはしなかった。
「森の奥には、恐ろしい”森の主”が棲まう」
「近づけば生きては戻れない」
そんな噂がまことしやかに囁かれ、人々は恐怖と嫌悪の目を森に向けていた。
だが蓮にとって、その森は異なる意味を持っていた。
貴族社会のしきたり、常に監視されているような息苦しさ、そして何よりも自分自身のひ弱さと無力さ。そんな全てから、蓮は「何か自分を変えるきっかけ」「この閉鎖的な環境から抜け出す道」を漠然と求めていた。
森の噂は恐ろしいものだった。だが同時に、どこか神秘的で、この世界の理の外にあるような、そんな魅力に満ちているように思えた。
自分とは全く異なる、強大な存在。そこに身を置くことで、もしかしたらこのどうしようもない現状から逃れられるのではないか。この窮屈な世界から、自分を連れ出してくれるのではないか。
そんな、半ば無謀な、しかし抗いがたい逃避の衝動が、蓮の心を少しずつ蝕んでいた。
その日も、蓮は貴族としての教育に辟易としていた。書物の読み書き、歴史、礼儀作法……全てが完璧さを求められる。少しでも型を破れば、すぐに厳しい視線が向けられる。蓮のひ弱な体は、そうした精神的な疲労に耐えきれず、いつもへとへとになっていた。
「もう、嫌だ……」
自室の窓から、夕日に染まる「禁忌の森」を眺める。鬱蒼と茂る木々の向こうから、甘い腐葉土の匂いが微かに漂ってくる。まるで蓮を招くように、森が揺れている気がした。
蓮は、はっと我に返った。冷静に考えれば、恐ろしい噂のある森に単身で向かうなど、狂気の沙汰だ。しかしその日の蓮は、もう限界だった。心の奥底に渦巻く衝動が、理性を上回っていた。
「少しだけ、少しだけなら……」
誰にも告げず、蓮は館を抜け出した。ひ弱な体で慣れない森の中を歩くのは、想像以上に過酷だった。足元で枝が音を立てて折れ、何度も転びそうになる。森の奥へ進むほど、陽の光は届かなくなり、薄暗い闇が蓮を包み込む。
ざわめく木々の音、遠くで鳴く鳥の声。それらは次第に、不気味な囁きに聞こえ始めた。湿った土の匂いと、どこか甘ったるい腐敗の香りが、蓮の鼻を刺激する。
「怖い……」
後悔の念がじわりと蓮の心を満たしていく。だが、すでに引き返す道は分からない。来た方角に戻ろうと試みるが、方向感覚は完全に麻痺していた。
どれくらい歩いただろうか。足が鉛のように重くなり、意識が朦朧としてくる。その時、蓮の足元が急に崩れた。
「ひっ……!」
深い谷底へ、体が吸い込まれるように落ちていく。絶望が蓮の全身を支配した。このまま、自分はここで死ぬのだろうか。前世と同じように、あっけなく……。
その瞬間、蓮の腕を、ひんやりとした何かが掴んだ。
視線を上げれば、そこには一人の男が立っていた。いつの間に現れたのか、音もなく。
男は蓮の腕を片手で軽々と掴み、谷底へ落ちかける蓮の体を無表情に引き上げている。
まるで夜の闇を凝縮したかのような漆黒の髪。その顔には感情が浮かんでおらず、閉じられたような紫の瞳は、蓮を映しているのかどうかも分からないほど虚ろだった。全身から発せられる冷気が、周囲の空気を凍てつかせているかのように感じられる。
(もしかして、この人が……森の主……?)
蓮はその圧倒的な存在感に言葉を失った。恐怖が全身を駆け巡る。人間ではない。そう直感させる、異質で冷たい美しさがあった。
男の後ろには、古びた洋館が建っていた。蔦が絡みつき、打ち捨てられたように見えるその邸宅は、森の瘴気に紛れて、まるで幻のようだ。石造りの壁からは、かすかに苔の匂いが立ち上っている。
男は蓮を地面に下ろすと、何の言葉もなく洋館の扉を開けた。まるで「入れ」と促しているかのようだった。
蓮はまだ恐怖で体が震えていたが、選択肢はなかった。自力でこの森から出る術はない。ひ弱な体は、すでに飢えと疲労で限界だった。このまま森に留まれば、夜の冷気や野獣に襲われ、命を落とすだろう。
蓮は震える足で男の後に続いた。古びた洋館の中は、外見に反してきちんと手入れされているようだった。埃ひとつなく、どこか生活感が漂っている。しかしここにもまた、ひんやりとした異質な気配が満ちていた。
ゼルフィード。それが、男が言葉少なく告げた名前だった。
ゼルフィードは、蓮が邸宅に入ることを許したが、それ以上の干渉はなかった。蓮が部屋を探して彷徨っていると、無言で一つの扉を開き、そこを指差した。その部屋は簡素ながらも清潔で、ベッドと小さな机が置かれていた。
蓮はゼルフィードの冷淡さに不安を覚えつつも、彼が自分に危害を加える様子がないことに安堵した。しかし彼の底知れない異質さに、常に警戒心を抱かずにはいられなかった。
「……あ、あの、ゼルフィードさん」
蓮は夕食を終えて(ゼルフィードが無言で差し出した、見たこともない果物と新鮮な肉だった)自室に戻る途中、ゼルフィードに声をかけた。ゼルフィードは蓮の言葉にも表情一つ変えず、ただ静かに振り返った。
「この、森って……何だか、生気が薄い、ですね」
蓮は邸宅の窓から見える庭の様子を思い出しながら、おずおずと尋ねた。ゼルフィードの邸宅周辺の植物は、どこか生気に乏しく、枯れているものが多かった。森全体も、貴族の領地にあったような生命力漲る様子とは異なり、どこか静かで、色が薄いように感じられたのだ。
ゼルフィードは蓮の言葉に反応することなく、ただ蓮を見つめるだけだった。蓮は気まずさに視線をそらそうとしたが、彼の無表情な顔の奥に何かが隠されているような気がして、目が離せなかった。
その時、ゼルフィードの指が蓮の頬に触れた。ひりつくような、氷の冷たさ。そこから何かが流れ込んでくる。思わず身をすくめる蓮だが、何か魔法を使われたようなその冷たさは、蓮の体に何の不調ももたらさなかった。むしろ、ゼルフィード自身の体に触れた時に、ほんの微かに、心地よいような、安堵するような奇妙な感覚が蓮の全身を巡った。
(魔法のように見えたのに、なんで……何も、感じないんだろう?)
通常、これほどの冷気に触れれば、体が凍えるような感覚に襲われるはずだ。しかし蓮の体は、ただ彼の指の温度を認識するだけで、何の異常も示さなかった。この森の異変と、ゼルフィードの冷たい何か。そして自分がそれの影響を受けないという不可解な事実。蓮は首を傾げるしかなかった。
ゼルフィードは蓮の頬を撫でた指をゆっくりと離すと、何も言わずに蓮の部屋の扉を閉めた。
蓮は部屋で一人、ベッドに横たわった。貴族の館にいた頃の自分は、常に誰かの目に晒され、しきたりに縛られていた。それに比べれば、ここではゼルフィード以外、誰もいない。だがそのゼルフィードの存在が、蓮をひどく不安定にさせた。
(彼が、何者なのかも分からない……。この森も、異常だ……)
しかし他に頼る術はない。ひ弱な体では、夜の森を生き抜くことなど不可能だ。不安と警戒心が渦巻く中、蓮は仕方なく、この冷たい男の庇護を受け入れるしかなかった。
静寂に包まれた闇の中、蓮はいつしか眠りに落ちていた。
蓮が眠りに就いた後、ゼルフィードは再び蓮の部屋の扉を開いた。ベッドで小さく丸まって眠る蓮の姿を、ゼルフィードは静かに見つめる。銀の髪が月光に煌めき、安らかな寝息が聞こえる。
その紫の瞳の奥に、これまでは見られなかった、ほんの微かな「異質さへの認識」が宿っていた。
彼の虚ろな世界に突如として現れた「例外」。その存在が、ゼルフィードの無感情な心に、ごくわずかな波紋を広げ始めていた。
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