2 / 8
第2話:帰郷と一時の安息
しおりを挟む目を開けると、真っ先に目に飛び込んできたのは、顔を歪ませた長老の姿だった。
普段なら整えられているはずの白い髭は乱れ、目のふちが赤く腫れていて、きっと、ろくに眠っていなかったのだろうことが容易に想像できた。長老の隣には、村の女性たちが心配そうに立っている。その中には、薬草を煎じた湯気の立つ椀を手にした村の薬師の姿もあった。
「アリアス……!」
長老のかすれた声が震え、その腫れぼったい目から一筋の涙が頬を伝った。傍らに控えていた村人たちも、それぞれに口元を押さえ、ある者は静かに涙を流していた。室内には、安堵と心配の入り混じった重い空気が漂っている。
「……長老」
喉が焼けつくように痛む。出てきた声が、自分のものじゃないように感じた。唇は乾いてひび割れ、舌も思うように動かない。
「ああ、アリアス……生きて……生きて帰ってきてくれた……」
長老は信じられないというかのように、もう一度俺の名を呼び、震える手で頬をそっと撫でた。その皺だらけの指先は、まるで壊れ物に触れるように優しく俺の顔を確かめる。そのまま、無事な体を確かめるかのように、強く抱きしめられる。
毛織物の服から漂う草の匂いと、長老の体温を感じた瞬間、ああ、本当に帰ってきたんだと胸が熱くなった。
周りの村人たちも安堵のため息を漏らし、なかには小さく拍手をする者さえいた。村の鍛冶屋の奥さんは、手に持っていた手拭いで目頭を押さえている。
「あの、俺……」
心配かけてごめんと口に出したいのに、喉が詰まって声が出ない。
「無理に話さなくていい。ゆっくり休め」
長老の言葉には、俺への気遣いだけではない、まだ消えぬ深い悲しみと安堵の色が滲んでいた。その複雑な感情が、俺の胸の中にも、静かに染みこんでいく。
――俺は……死ななかったのだ。
あの儀式の後、俺はどうなったのだろう。最後に覚えているのは、あの勇者の戸惑いを宿した瞳と、遠くから叫ぶ誰かの声だけだった。あの王宮の冷たい床に倒れた後の記憶は、すっかり途切れている。
瀕死の状態だった俺を、村の人たちが三日三晩交代で看病してくれたと聞かされた。薬師が特別な薬草を煎じ、女性たちが濡れた布で額を冷やし続けてくれたのだという。
どれほどの時間が経ったのだろう。体は鉛のように重く、魔力を絞られた両腕は、まるで他人のもののようだった。指先を動かそうとしても、思うように力が入らない。
それでも、俺は確かに帰ってきた。
この村――大好きな、仲間たちの元へ。
◇◇◇
窓の外からは、鳥のさえずりと子どもたちの声が聞こえてくる。村の近くを流れる小川のせせらぎの音も、いつものように響いている。その穏やかな音が、失われた日常の帰還をそっと告げているようだった。
体力が戻るにつれて、少しずつ外に出られるようになった。ようやく体を起こせるようになったある日、俺は家の前の小さな庭に出て、太陽の光を浴びた。黄金色の草が風に揺れ、綿毛が空へ舞い上がっていく。
なんでもない、その穏やかな美しさが、数日前までの悪夢をまるで幻のように感じさせた。
「アリアスお兄ちゃんだ!」
遠くから子どもたちの声がして、小さな影が数人、土埃を上げながら駆け寄ってくる。一番に飛びついてきたのは、いたずら好きのトールだった。彼の茶色い髪は汗でぺたりと額に張り付き、瞳は、いつも以上に輝いている。その後ろには、控えめで人見知りなマルタが俺の陰に半分隠れるように立ち、双子のレナとリオは手を繋いで俺を見上げていた。
彼らの笑顔が、俺の失わずに済んだ命を祝福してくれているように思えた。
「元気になったんだね!」
トールが嬉しそうに顔を覗き込んでくる。その小さな手が、俺の腕をぺたぺたと触って確かめている。
「うん、まだ走ったりはできないけどね」
そう言って笑いかけると、子どもたちの顔がぱっと明るくなった。
「今日もお話してくれる?」
トールが身を乗り出してくる。
「ああ、もちろん。今日はね、不思議な力を持った少年が、仲間と一緒に悪者を倒すお話にしようか」
庭の大きな樫の木の根元に腰を下ろし、子どもたちに囲まれながら、誰も知るはずのない前世で読んだ物語を語っていく。この世界向けに、少しだけ脚色を加えて。
「その少年はね、普通の子だったんだけど、ある日突然、すごい力が宿るんだ。そしてその力を使うたびに、すごく疲れちゃうんだって」
子どもたちは円を作って座り、瞳を輝かせながら聞いている。
「まるで、魔法みたいだね!」
リオが小さく呟く。
「でも、その子は仲間を助けるために頑張るんだよね!」
レナが目を輝かせる。マルタは真剣な表情で耳を傾け、トールは興奮して身振り手振りを交えていた。
彼らの反応を見ていると、話しているこちらまで楽しくなってくる。
夕暮れ、オレンジ色の空が村を包み、風が涼しくなってきたころ、ふと気づけば、リリアが俺の隣に座っていた。彼女の茶色の髪は夕日に照らされて輝いているが、目は赤く腫れ、頬には乾いた涙の跡が残っている。
彼女もまた、ずっと俺の無事を案じていてくれたのだろう。その手には、村の花で作った小さな花束が握られている。
「本当に……生きて帰ってきてくれて、よかった」
差し出された小さな手をそっと握り返すと、彼女は力なく笑った。その手は冷たく、細い指が震えている。
「心配かけたね」
そう言うと、リリアは俯いたまま、小さく呟いた。
「……勇者のせいで、またたくさんの人が死んだ……」
その声には、押し殺しきれない怒りと悲しみが滲んでいた。
彼女もまた、五年前の召喚で家族を失ったひとりだ。あのとき、泣き腫らした目をして必死で孤独に耐えている少女の姿を、俺は今も忘れられない。
子どもたちの笑顔が戻り、村に穏やかな日常が流れ始めても――俺の心には、数日前のあの儀式の記憶が色濃く残っていた。
勇者――俺の前世と同じ世界から来た、あの男。
彼は今、王宮で英雄として讃えられているのだろうか。
それとも、あの場にいた魔法使いたちを犠牲にした存在として、誰かの怒りや憎しみに晒されているのだろうか。
「リリア」
風が髪を揺らす中、俺はそっと問いかけた。
「……勇者は、今、どうしてるんだろうな」
彼女は眉をひそめ、花束を握る手に力を込めながら、冷たい声で答えた。
「そんな奴のことなんて、考えたくもない。私たちの家族を奪ったのよ。英雄だなんて、冗談じゃない」
その言葉に、胸が痛んだ。でも、それがこの世界の現実なのだ。
俺たち魔力提供者がどう扱われ、何を犠牲にしてきたのか――誰よりも、リリアが知っている。
「……あれは、日本人だったよな」
ぽつりと呟いた。誰にも届かないような、小さな声で。
遠くの空を見上げて、ふと考える。
勇者は、俺たちの言葉を理解できているだろうか。
この世界の空気に、もう慣れているのだろうか。
◇◇◇
夕食の香りが漂ってくる。どこかの家から、母親が子どもを呼ぶ声が響いた。子どもたちの笑い声が、庭の向こうから届く。
ささやかな幸せが、今ここにある。それが壊れないで欲しいと、心から願った。
だが――心の奥には、まだ消えない波紋が残っている。
あの日の儀式。あの男の瞳。
それは静かに、水面に落ちた一滴の雫のように、心の奥底へと波紋を広げ続けていく。
いつか、それが大きな波となって――俺たちの平穏を呑み込んでしまうのではないか。
そんな不安が、静かに、俺の胸を蝕み始めていた。
夜の帳が降りる中、村の家々に明かりが灯り始める。その温かな光を見つめながら、俺は静かに立ち上がった。
110
あなたにおすすめの小説
ギャルゲー主人公に狙われてます
一寸光陰
BL
前世の記憶がある秋人は、ここが前世に遊んでいたギャルゲームの世界だと気づく。
自分の役割は主人公の親友ポジ
ゲームファンの自分には特等席だと大喜びするが、、、
当て馬系ヤンデレキャラになったら、思ったよりもツラかった件。
マツヲ。
BL
ふと気がつけば自分が知るBLゲームのなかの、当て馬系ヤンデレキャラになっていた。
いつでもポーカーフェイスのそのキャラクターを俺は嫌っていたはずなのに、その無表情の下にはこんなにも苦しい思いが隠されていたなんて……。
こういうはじまりの、ゲームのその後の世界で、手探り状態のまま徐々に受けとしての才能を開花させていく主人公のお話が読みたいな、という気持ちで書いたものです。
続編、ゆっくりとですが連載開始します。
「当て馬系ヤンデレキャラからの脱却を図ったら、スピンオフに突入していた件。」(https://www.alphapolis.co.jp/novel/239008972/578503599)
イケメンチート王子に転生した俺に待ち受けていたのは予想もしない試練でした
和泉臨音
BL
文武両道、容姿端麗な大国の第二皇子に転生したヴェルダードには黒髪黒目の婚約者エルレがいる。黒髪黒目は魔王になりやすいためこの世界では要注意人物として国家で保護する存在だが、元日本人のヴェルダードからすれば黒色など気にならない。努力家で真面目なエルレを幼い頃から純粋に愛しているのだが、最近ではなぜか二人の関係に壁を感じるようになった。
そんなある日、エルレの弟レイリーからエルレの不貞を告げられる。不安を感じたヴェルダードがエルレの屋敷に赴くと、屋敷から火の手があがっており……。
* 金髪青目イケメンチート転生者皇子 × 黒髪黒目平凡の魔力チート伯爵
* 一部流血シーンがあるので苦手な方はご注意ください
婚約破棄されてヤケになって戦に乱入したら、英雄にされた上に美人で可愛い嫁ができました。
零壱
BL
自己肯定感ゼロ×圧倒的王太子───美形スパダリ同士の成長と恋のファンタジーBL。
鎖国国家クルシュの第三王子アースィムは、結婚式目前にして長年の婚約を一方的に破棄される。
ヤケになり、賑やかな幼馴染み達を引き連れ無関係の戦場に乗り込んだ結果───何故か英雄に祭り上げられ、なぜか嫁(男)まで手に入れてしまう。
「自分なんかがこんなどちゃくそ美人(男)を……」と悩むアースィム(攻)と、
「この私に不満があるのか」と詰め寄る王太子セオドア(受)。
互いを想い合う二人が紡ぐ、恋と成長の物語。
他にも幼馴染み達の一抹の寂寥を切り取った短篇や、
両想いなのに攻めの鈍感さで拗れる二人の恋を含む全四篇。
フッと笑えて、ギュッと胸が詰まる。
丁寧に読みたい、大人のためのファンタジーBL。
他サイトでも公開しております。
君さえ笑ってくれれば最高
大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。
(クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け)
異世界BLです。
婚約破棄された悪役令息は従者に溺愛される
田中
BL
BLゲームの悪役令息であるリアン・ヒスコックに転生してしまった俺は、婚約者である第二王子から断罪されるのを待っていた!
なぜなら断罪が領地で療養という軽い処置だから。
婚約破棄をされたリアンは従者のテオと共に領地の屋敷で暮らすことになるが何気ないリアンの一言で、テオがリアンにぐいぐい迫ってきてーー?!
従者×悪役令息
絶対に追放されたいオレと絶対に追放したくない男の攻防
藤掛ヒメノ@Pro-ZELO
BL
世は、追放ブームである。
追放の波がついに我がパーティーにもやって来た。
きっと追放されるのはオレだろう。
ついにパーティーのリーダーであるゼルドに呼び出された。
仲が良かったわけじゃないが、悪くないパーティーだった。残念だ……。
って、アレ?
なんか雲行きが怪しいんですけど……?
短編BLラブコメ。
本当に悪役なんですか?
メカラウロ子
BL
気づいたら乙女ゲームのモブに転生していた主人公は悪役の取り巻きとしてモブらしからぬ行動を取ってしまう。
状況が掴めないまま戸惑う主人公に、悪役令息のアルフレッドが意外な行動を取ってきて…
ムーンライトノベルズ にも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる