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第8話「この世界で、君と歩む」
しおりを挟む──外の雪は止んでいた。洞窟の入り口に積もっていた真っ白な雪も、少しずつ陽光に輪郭を溶かされ、きらきらと輝いている。冬の厳しさが和らぎ、春の訪れを予感させる、穏やかな朝だった。
けれど、レオンハルトの胸の内は、決して穏やかではなかった。
あの日、イグニスは念話を自ら絶った。理由も告げぬまま、魔力の糸をぷつりと断ち、それきり沈黙を守っていた。それから、すでに数日が経つ。
呼びかけても、応答はなかった。返事がないのは、拒絶ではないと信じたかった。けれど、あのとき最後に届いた感情――あれは、どうしようもなく深い絶望だった。
レオンハルトは、その数日間を焚き火の世話をしながら過ごしていた。封印石の前を離れることはなく、ただ黙って寄り添い続けていた。言葉を返されなくても、気配を感じなくても、諦めるつもりはなかった。
そして今朝。焚き火を整えていたとき、不意に意識の奥に声が届いた。
『……レオンハルト』
数日ぶりに響いたイグニスの念話は、ひどく柔らかかった。けれどその響きには、どこか決意のようなものが混じっていた。
『なあ……そろそろ、街に戻れよ』
レオンハルトは薪を置く手を止めた。その声に、どこか距離があった。あたたかさを装っているのに、まるで別れを切り出すような響きだった。
『こうしてお前と心を通わせられただけで、俺は本当にもう……十分だと思ってるんだ。お前が俺のために、こんなところで一生を過ごす必要はない』
『こんな冷たい洞窟じゃなくてさ。お前には、ちゃんと……光の下で、生きてほしいんだ』
その言葉の奥にあったのは、諦めでも、自虐でもない。
むしろイグニスなりの、切実な優しさだった。けれどその優しさは、レオンハルトにとって、刃にも似た痛みを伴っていた。
レオンハルトは静かに笑った。胸に差し込んだ、甘く鋭い切なさを、ゆっくりと飲み込むように。その瞳には、イグニスの気持ちへの深い理解と、それを超えるほどの、揺るぎない意志が宿っていた。
「……ここであなたといることが、私にとっては光の中なんです、イグニス」
抑えた声音に、静かな強さが滲んでいた。
『だけど──』
イグニスが何かを続けようとしたそのとき、レオンハルトはゆっくりと立ち上がった。封印石の奥にある意識へ、まっすぐな眼差しを向けながら。
「……わかりました。それなら、ふたりで街へ行きましょう。あなたも私も、光の下で生きるのです」
『……へ?』
イグニスの念話が、不意を突かれたような調子で揺れる。言葉の意味を理解しきれずに、思考が追いついていないのが伝わってきた。
「あなたの封印が解けないのは、分かっています。ですが、あなたをこの手で”運ぶ”ことなら、きっとできる」
『は? え? まさか、お前……! 本気で言ってるのか……!?』
レオンハルトは鞄を開き、契約書とともに、数日前から用意していた術式紙を取り出した。そこには、イグニスから共有されたスキル──『軽量転位』『変形結界』『携帯領域』を応用するための、彼自身の手による術式が記されていた。王家に伝わる膨大な文献と、代々の魔導理論。そして、イグニスから与えられた知識。すべてを組み合わせ、導き出した答えだった。
『……本当にやるのか、お前……こんな無茶なことを……』
「はい。私は、あなたの伴侶です。それが、私のすべての答えです。あなたの隣にいるためなら、どんなことでも」
イグニスは、しばらく何も言わなかった。けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。喜びと驚き、そして、言葉にしきれない感情が、イグニスの中でせり上がっていた。止まっていた心の流れが、ようやく静かに動き出すのが、念話越しに伝わってくる。
『……なにやってんだ、お前……本当に俺を連れて、外へ出るつもりかよ』
『まったく……どこまで無茶な男なんだ、レオンハルト……』
小さな笑いが、念話の奥から漏れた。少しだけ照れたような、けれど本当に嬉しそうな声だった。
出発の朝。
レオンハルトは、洞窟の奥に安置されていた封印石を、上等な王家のマントでそっと包んだ。そして、術式を発動させる。石は淡い光を放ち、ひんやりとした輝きを帯びながら、少しずつ姿を変えていく。やがて、変形・軽量化されたそれは、両腕で抱えてちょうどいいほどの大きさとなった。
まるで、生まれたばかりの赤子を抱くかのように、レオンハルトはそれを胸に抱きしめる。
最後に、長く過ごした洞窟に向かって、彼は小さく口を動かした。
「ありがとう。そして、さようなら」
静寂の洞窟に、焚き火の名残だけがゆっくりと消えていった。
外は、まだ雪の残る山道だった。吹雪は遥か遠くに過ぎ去り、空には雲間から柔らかな陽が射している。まるで、新たな旅立ちを祝福するかのように、鳥のさえずりが空を渡っていた。
「……あの、本当によかったのですか? あなたの石を、私が勝手に運んでしまっても」
レオンハルトは、腕の中の石へ念話で問いかける。
『今更かよ。言っとくけどな。お前が俺を運んでくれてるから、俺はこうして外を見られてるんだぞ。この陽の光も、草木の揺れる音も……お前がいなきゃ、全部感じられなかった』
『俺のほうこそ聞きたいよ。……お前の立場、本当に大丈夫なのか? 王族の身で、こんなことして……』
「問題ありません。私は、あなたの伴侶です。それが、私のすべてですから。王位も名誉も、あなたに比べれば塵芥同然です」
レオンハルトの答えに、イグニスは少しだけ照れたように黙った。彼の意識の中から、かすかに温かい魔力の波が伝わってくる。それだけで、レオンハルトの胸は熱くなった。
ふたりが目指したのは、王都ではなかった。彼が慎重に選び抜いたのは、その名を記録に残さぬ小さな町だった。かつて王都の地図から消された谷間の都市──そこは、旅人に優しく、過去を詮索しない土地であり、同時に記録に厳しく、外部との交流が最小限の場所だった。
誰も追ってこない。王家の目も、手も届かない。
慎重に選ばれたその街で、ふたりは新たな生活を始める。レオンハルトは、マントに包まれたイグニスの石を胸に、一歩ずつ確実に足を進めていく。
『……嘘みたいだな』
イグニスの声が、感動に震えていた。
『俺はあの洞窟の中で、ずっと一人だと思ってた。一生、この闇の中で終わるんだって……でも、今こうして、お前と一緒に、陽の光の中を進んでる』
『この姿でも……お前と”生きてる”って、思えるよ。本当に、俺は生きているんだって』
陽の光の中を、しっかりと大地を踏みしめて歩くレオンハルト。その腕には、封印石に包まれたイグニス。
──これが、ふたりの”はじまり”だった。この世界で、彼らが共に歩む、新しい人生の。
数ヶ月後。
ふたりは、街のはずれにある田舎の小さな家に住んでいた。木枠の窓からは柔らかな光が差し込み、低い天井は穏やかに二人を包む。暖炉の煙突からは、ゆらゆらと白い煙が昇り、柔らかな薪の香りが部屋を満たしていた。
そこには、静かで確かな暮らしがあった。
書斎の中央には、イグニスの封印石を安置するための特注の棚が据えられていた。まるで、それがこの家の心臓部であるかのように。彼の契約書も、その隣に大切に飾られている。
『買い物は無事に終わったか? 今日は市場が賑やかだっただろう?』
イグニスの声に、レオンハルトは自然に微笑む。
「ええ、賑やかでした。それに、あなたの好きな焼き果実も買ってきましたよ」
レオンハルトは、棚の上の石の前に、湯気を立てる焼き果実をそっと置いた。甘く香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がる。
『食えないけどな、俺』
イグニスが念話で苦笑する。その声音は、かつてよりずっと穏やかで、やわらかかった。
「いいんです。お供えみたいなものですから。あなたがここにいる証です」
ふたりは微笑む。触れられない身体。見つめ合えない瞳。それでも、こうして声が届き、思いが交わる。
それが、ふたりの”夫婦のかたち”だった。誰にも理解されないかもしれない──だが、彼らにとっては、何よりも確かな幸福のかたちだった。
『なあ、レオン』
静かな夜。暖炉の炎がやさしく揺れる中で、イグニスが語りかける。
「はい、イグニス」
『……俺たちって、妙な関係だよな。見た目もそうだが、こんな形の伴侶なんて、世界中探してもいないだろうな』
「いいえ。これは、私が夢見ていた”夫婦”の形です。誰が何と言おうと、私にとっては最高の幸福です」
『……そうか』
イグニスの声が、満足げに、そして深く安堵したように響いた。
『……じゃあ、俺はその夢を一緒に叶えられたってことだな。お前が幸せなら、それでいい』
その言葉に、レオンハルトの心が、静かに、あたたかく満たされていく。
瞳を閉じれば、そこにイグニスの笑顔が見えるかのようだった。
(どんな姿でも──)
(私はあなたを愛している。そして、あなたに、愛されている。この奇跡こそが、私のすべてだ)
書斎の中央。温かな光に包まれて、封印の石は静かに佇んでいた。
──ただ、かすかに。あたたかな光を抱いて。
それは、イグニスがそこに「いる」ことの。そして、ふたりの愛が、深く結ばれていることの──確かな証だった。
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