【完結済】どんな姿でも、あなたを愛している。

キノア9g

文字の大きさ
8 / 8

第8話「この世界で、君と歩む」

しおりを挟む


 ──外の雪は止んでいた。洞窟の入り口に積もっていた真っ白な雪も、少しずつ陽光に輪郭を溶かされ、きらきらと輝いている。冬の厳しさが和らぎ、春の訪れを予感させる、穏やかな朝だった。

 けれど、レオンハルトの胸の内は、決して穏やかではなかった。

 あの日、イグニスは念話を自ら絶った。理由も告げぬまま、魔力の糸をぷつりと断ち、それきり沈黙を守っていた。それから、すでに数日が経つ。

 呼びかけても、応答はなかった。返事がないのは、拒絶ではないと信じたかった。けれど、あのとき最後に届いた感情――あれは、どうしようもなく深い絶望だった。

 レオンハルトは、その数日間を焚き火の世話をしながら過ごしていた。封印石の前を離れることはなく、ただ黙って寄り添い続けていた。言葉を返されなくても、気配を感じなくても、諦めるつもりはなかった。

 そして今朝。焚き火を整えていたとき、不意に意識の奥に声が届いた。

『……レオンハルト』

 数日ぶりに響いたイグニスの念話は、ひどく柔らかかった。けれどその響きには、どこか決意のようなものが混じっていた。

『なあ……そろそろ、街に戻れよ』

 レオンハルトは薪を置く手を止めた。その声に、どこか距離があった。あたたかさを装っているのに、まるで別れを切り出すような響きだった。

『こうしてお前と心を通わせられただけで、俺は本当にもう……十分だと思ってるんだ。お前が俺のために、こんなところで一生を過ごす必要はない』

『こんな冷たい洞窟じゃなくてさ。お前には、ちゃんと……光の下で、生きてほしいんだ』

 その言葉の奥にあったのは、諦めでも、自虐でもない。
 むしろイグニスなりの、切実な優しさだった。けれどその優しさは、レオンハルトにとって、刃にも似た痛みを伴っていた。

 レオンハルトは静かに笑った。胸に差し込んだ、甘く鋭い切なさを、ゆっくりと飲み込むように。その瞳には、イグニスの気持ちへの深い理解と、それを超えるほどの、揺るぎない意志が宿っていた。

「……ここであなたといることが、私にとっては光の中なんです、イグニス」

 抑えた声音に、静かな強さが滲んでいた。

『だけど──』

 イグニスが何かを続けようとしたそのとき、レオンハルトはゆっくりと立ち上がった。封印石の奥にある意識へ、まっすぐな眼差しを向けながら。

「……わかりました。それなら、ふたりで街へ行きましょう。あなたも私も、光の下で生きるのです」

『……へ?』

 イグニスの念話が、不意を突かれたような調子で揺れる。言葉の意味を理解しきれずに、思考が追いついていないのが伝わってきた。

「あなたの封印が解けないのは、分かっています。ですが、あなたをこの手で”運ぶ”ことなら、きっとできる」

『は? え? まさか、お前……! 本気で言ってるのか……!?』

 レオンハルトは鞄を開き、契約書とともに、数日前から用意していた術式紙を取り出した。そこには、イグニスから共有されたスキル──『軽量転位』『変形結界』『携帯領域』を応用するための、彼自身の手による術式が記されていた。王家に伝わる膨大な文献と、代々の魔導理論。そして、イグニスから与えられた知識。すべてを組み合わせ、導き出した答えだった。

『……本当にやるのか、お前……こんな無茶なことを……』

「はい。私は、あなたの伴侶です。それが、私のすべての答えです。あなたの隣にいるためなら、どんなことでも」

 イグニスは、しばらく何も言わなかった。けれどその沈黙は、拒絶ではなかった。喜びと驚き、そして、言葉にしきれない感情が、イグニスの中でせり上がっていた。止まっていた心の流れが、ようやく静かに動き出すのが、念話越しに伝わってくる。

『……なにやってんだ、お前……本当に俺を連れて、外へ出るつもりかよ』

『まったく……どこまで無茶な男なんだ、レオンハルト……』

 小さな笑いが、念話の奥から漏れた。少しだけ照れたような、けれど本当に嬉しそうな声だった。


 出発の朝。

 レオンハルトは、洞窟の奥に安置されていた封印石を、上等な王家のマントでそっと包んだ。そして、術式を発動させる。石は淡い光を放ち、ひんやりとした輝きを帯びながら、少しずつ姿を変えていく。やがて、変形・軽量化されたそれは、両腕で抱えてちょうどいいほどの大きさとなった。

 まるで、生まれたばかりの赤子を抱くかのように、レオンハルトはそれを胸に抱きしめる。

 最後に、長く過ごした洞窟に向かって、彼は小さく口を動かした。

「ありがとう。そして、さようなら」

 静寂の洞窟に、焚き火の名残だけがゆっくりと消えていった。

 外は、まだ雪の残る山道だった。吹雪は遥か遠くに過ぎ去り、空には雲間から柔らかな陽が射している。まるで、新たな旅立ちを祝福するかのように、鳥のさえずりが空を渡っていた。

「……あの、本当によかったのですか? あなたの石を、私が勝手に運んでしまっても」

 レオンハルトは、腕の中の石へ念話で問いかける。

『今更かよ。言っとくけどな。お前が俺を運んでくれてるから、俺はこうして外を見られてるんだぞ。この陽の光も、草木の揺れる音も……お前がいなきゃ、全部感じられなかった』

『俺のほうこそ聞きたいよ。……お前の立場、本当に大丈夫なのか? 王族の身で、こんなことして……』

「問題ありません。私は、あなたの伴侶です。それが、私のすべてですから。王位も名誉も、あなたに比べれば塵芥同然です」

 レオンハルトの答えに、イグニスは少しだけ照れたように黙った。彼の意識の中から、かすかに温かい魔力の波が伝わってくる。それだけで、レオンハルトの胸は熱くなった。

 ふたりが目指したのは、王都ではなかった。彼が慎重に選び抜いたのは、その名を記録に残さぬ小さな町だった。かつて王都の地図から消された谷間の都市──そこは、旅人に優しく、過去を詮索しない土地であり、同時に記録に厳しく、外部との交流が最小限の場所だった。

 誰も追ってこない。王家の目も、手も届かない。

 慎重に選ばれたその街で、ふたりは新たな生活を始める。レオンハルトは、マントに包まれたイグニスの石を胸に、一歩ずつ確実に足を進めていく。

『……嘘みたいだな』

 イグニスの声が、感動に震えていた。

『俺はあの洞窟の中で、ずっと一人だと思ってた。一生、この闇の中で終わるんだって……でも、今こうして、お前と一緒に、陽の光の中を進んでる』

『この姿でも……お前と”生きてる”って、思えるよ。本当に、俺は生きているんだって』

 陽の光の中を、しっかりと大地を踏みしめて歩くレオンハルト。その腕には、封印石に包まれたイグニス。

 ──これが、ふたりの”はじまり”だった。この世界で、彼らが共に歩む、新しい人生の。

 

 数ヶ月後。

 ふたりは、街のはずれにある田舎の小さな家に住んでいた。木枠の窓からは柔らかな光が差し込み、低い天井は穏やかに二人を包む。暖炉の煙突からは、ゆらゆらと白い煙が昇り、柔らかな薪の香りが部屋を満たしていた。

 そこには、静かで確かな暮らしがあった。

 書斎の中央には、イグニスの封印石を安置するための特注の棚が据えられていた。まるで、それがこの家の心臓部であるかのように。彼の契約書も、その隣に大切に飾られている。

『買い物は無事に終わったか? 今日は市場が賑やかだっただろう?』

 イグニスの声に、レオンハルトは自然に微笑む。

「ええ、賑やかでした。それに、あなたの好きな焼き果実も買ってきましたよ」

 レオンハルトは、棚の上の石の前に、湯気を立てる焼き果実をそっと置いた。甘く香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がる。

『食えないけどな、俺』

 イグニスが念話で苦笑する。その声音は、かつてよりずっと穏やかで、やわらかかった。

「いいんです。お供えみたいなものですから。あなたがここにいる証です」

 ふたりは微笑む。触れられない身体。見つめ合えない瞳。それでも、こうして声が届き、思いが交わる。

 それが、ふたりの”夫婦のかたち”だった。誰にも理解されないかもしれない──だが、彼らにとっては、何よりも確かな幸福のかたちだった。

『なあ、レオン』

 静かな夜。暖炉の炎がやさしく揺れる中で、イグニスが語りかける。

「はい、イグニス」

『……俺たちって、妙な関係だよな。見た目もそうだが、こんな形の伴侶なんて、世界中探してもいないだろうな』

「いいえ。これは、私が夢見ていた”夫婦”の形です。誰が何と言おうと、私にとっては最高の幸福です」

『……そうか』

 イグニスの声が、満足げに、そして深く安堵したように響いた。

『……じゃあ、俺はその夢を一緒に叶えられたってことだな。お前が幸せなら、それでいい』

 その言葉に、レオンハルトの心が、静かに、あたたかく満たされていく。
 瞳を閉じれば、そこにイグニスの笑顔が見えるかのようだった。

(どんな姿でも──)

(私はあなたを愛している。そして、あなたに、愛されている。この奇跡こそが、私のすべてだ)

 書斎の中央。温かな光に包まれて、封印の石は静かに佇んでいた。

 ──ただ、かすかに。あたたかな光を抱いて。

 それは、イグニスがそこに「いる」ことの。そして、ふたりの愛が、深く結ばれていることの──確かな証だった。
しおりを挟む

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

王太子殿下に触れた夜、月影のように想いは沈む

木風
BL
王太子殿下と共に過ごした、学園の日々。 その笑顔が眩しくて、遠くて、手を伸ばせば届くようで届かなかった。 燃えるような恋ではない。ただ、触れずに見つめ続けた冬の夜。 眠りに沈む殿下の唇が、誰かの名を呼ぶ。 それが妹の名だと知っても、離れられなかった。 「殿下が幸せなら、それでいい」 そう言い聞かせながらも、胸の奥で何かが静かに壊れていく。 赦されぬ恋を抱いたまま、彼は月影のように想いを沈めた。 ※本作は「小説家になろう」「アルファポリス」にて同時掲載しております。 表紙イラストは、雪乃さんに描いていただきました。 ※イラストは描き下ろし作品です。無断転載・無断使用・AI学習等は一切禁止しております。 ©︎月影 / 木風 雪乃

林檎を並べても、

ロウバイ
BL
―――彼は思い出さない。 二人で過ごした日々を忘れてしまった攻めと、そんな彼の行く先を見守る受けです。 ソウが目を覚ますと、そこは消毒の香りが充満した病室だった。自分の記憶を辿ろうとして、はたり。その手がかりとなる記憶がまったくないことに気付く。そんな時、林檎を片手にカーテンを引いてとある人物が入ってきた。 彼―――トキと名乗るその黒髪の男は、ソウが事故で記憶喪失になったことと、自身がソウの親友であると告げるが…。

君さえ笑ってくれれば最高

大根
BL
ダリオ・ジュレの悩みは1つ。「氷の貴公子」の異名を持つ婚約者、ロベルト・トンプソンがただ1度も笑顔を見せてくれないことだ。感情が顔に出やすいダリオとは対照的な彼の態度に不安を覚えたダリオは、どうにかロベルトの笑顔を引き出そうと毎週様々な作戦を仕掛けるが。 (クーデレ?溺愛美形攻め × 顔に出やすい素直平凡受け) 異世界BLです。

僕は今日、謳う

ゆい
BL
紅葉と海を観に行きたいと、僕は彼に我儘を言った。 彼はこのクリスマスに彼女と結婚する。 彼との最後の思い出が欲しかったから。 彼は少し困り顔をしながらも、付き合ってくれた。 本当にありがとう。親友として、男として、一人の人間として、本当に愛しているよ。 終始セリフばかりです。 話中の曲は、globe 『Wanderin' Destiny』です。 名前が出てこない短編part4です。 誤字脱字がないか確認はしておりますが、ありましたら報告をいただけたら嬉しいです。 途中手直しついでに加筆もするかもです。 感想もお待ちしています。 片付けしていたら、昔懐かしの3.5㌅FDが出てきまして。内容を確認したら、若かりし頃の黒歴史が! あらすじ自体は悪くはないと思ったので、大幅に修正して投稿しました。 私の黒歴史供養のために、お付き合いくださいませ。

本当に悪役なんですか?

メカラウロ子
BL
気づいたら乙女ゲームのモブに転生していた主人公は悪役の取り巻きとしてモブらしからぬ行動を取ってしまう。 状況が掴めないまま戸惑う主人公に、悪役令息のアルフレッドが意外な行動を取ってきて… ムーンライトノベルズ にも掲載中です。

秘匿された第十王子は悪態をつく

なこ
BL
ユーリアス帝国には十人の王子が存在する。 第一、第二、第三と王子が産まれるたびに国は湧いたが、第五、六と続くにつれ存在感は薄れ、第十までくるとその興味関心を得られることはほとんどなくなっていた。 第十王子の姿を知る者はほとんどいない。 後宮の奥深く、ひっそりと囲われていることを知る者はほんの一握り。 秘匿された第十王子のノア。黒髪、薄紫色の瞳、いわゆる綺麗可愛(きれかわ)。 ノアの護衛ユリウス。黒みかがった茶色の短髪、寡黙で堅物。塩顔。 少しずつユリウスへ想いを募らせるノアと、頑なにそれを否定するユリウス。 ノアが秘匿される理由。 十人の妃。 ユリウスを知る渡り人のマホ。 二人が想いを通じ合わせるまでの、長い話しです。

【完結】トルーマン男爵家の四兄弟

谷絵 ちぐり
BL
コラソン王国屈指の貧乏男爵家四兄弟のお話。 全四話+後日談 登場人物全てハッピーエンド保証。

悪役令嬢と呼ばれた侯爵家三男は、隣国皇子に愛される

木月月
BL
貴族学園に通う主人公、シリル。ある日、ローズピンクな髪が特徴的な令嬢にいきなりぶつかられ「悪役令嬢」と指を指されたが、シリルはれっきとした男。令嬢ではないため無視していたら、学園のエントランスの踊り場の階段から突き落とされる。骨折や打撲を覚悟してたシリルを抱き抱え助けたのは、隣国からの留学生で同じクラスに居る第2皇子殿下、ルシアン。シリルの家の侯爵家にホームステイしている友人でもある。シリルを突き落とした令嬢は「その人、悪役令嬢です!離れて殿下!」と叫び、ルシアンはシリルを「護るべきものだから、守った」といい始めーー ※この話は小説家になろうにも掲載しています。

処理中です...