れすとあ ─モンキーガール、風になる─

海凪ととかる

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1.元天才スプリンター(香奈)

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──……ピピピピッピピピピッ
 
 スマホのアラームに起こされ気がつくと、枕が涙で濡れていた。
 見慣れたあたしの部屋、あたしのベッド。目覚めた時の後味の悪さから、またあの時の夢を見てしまったんだと悟った。
 
 東側の窓のカーテンの隙間から差し込む朝日が部屋の中を明るくしていて、あたしが日本新記録を出した時の写真にスポットを当てていた。それを見て、また泣きたくなった。
 
 手術とリハビリの成果で今はもう割と普通に歩けるし、自転車だって乗れる。軽く走るぐらいならできる。でも、もう陸上競技者としては走れない。
 走ることが大好きで、それしか能がなかったあたしから走ることを取り上げた神様は残酷だ。
 

 ブルーな気持ちでベッドから降り、ちょっとびっこを引きながらクローゼットに向かい、高校の制服に着替えた。
 姿見に映した姿は、一年前のあたしが着るはずのなかった濃緑のブレザーと白のカッターシャツ、グレーのチェックのスカート。



 走れなくなったあたしはスポーツ特待生の資格を取り消され、家から近い進学校には走る以外に能のなかったあたしの学力では到底入れそうになかったし、そもそも事情を知る同じ中学の子たちと同じ高校は避けたかったから、一般受験で何とか受かった、電車で片道1時間ぐらいかかる高校に今は通っている。

 鏡の前で寝癖直しとブラシで髪を整えていく。あの頃ショートだった髪は今では肩まで届くセミロング。当時は収まりの悪かった癖のある髪も、この長さになると自然な感じでウェーブがかる。
 しばらく切っていない前髪が鬱陶しくなってきていたので髪留めを探して引き出しを開けると、開封済みの手紙の封筒が目に入った。あの出来事の後で明日香から送られてきた謝罪の手紙だ。

 あの時、彼女が意図的に反則をしたのではなく、抜かされそうになって脊髄反射的に手が出てしまったことはあたしだって分かっている。100㍍走を走っている間は脳のキャパのほとんどをただ走ることに振り分けていて思考能力が低下することはあたし自身も身をもって知っているから、その時の明日香の状態については理解できている。

 目的の髪留めを取り出して引き出しを閉める。手紙に返事は結局書いていない。何を書けばいいかも分からなかったし、もうこれ以上関わりたくもなかった。明日香とは学校も住んでる町も違うし陸上という共通点も無くなったからこれから先、会うこともないやろし。

 あたし個人としてはもう明日香への怒りや怨恨はない。明日香本人も真剣に謝ってくれたし、彼女の両親もすごくちゃんとした人たちで治療費を全額負担してくれた上に慰謝料まで払ってくれたからあたしとしては手打ちとして納得している。今さらどうしたってあたしは陸上選手には戻れやんし。
 それに、明日香はネット上でめちゃくちゃ叩かれてたから、正直あそこまで叩かれてるのを見ちゃうと逆にあたしが庇いたくなる。当事者であるあたしがもうええって言っとるんやから、全く関係ない人らがよってたかって叩きまくらんでもええやん、と。

 噂では彼女もあの後、陸上を辞めたらしい。あんな大勢の人が見てる前であんなことをやっちゃったら普通のメンタルでは続けられるわけないから、残念だとは思ったけど納得はした。明日香は負けず嫌いではあったけどそこまで鋼のメンタルの持ち主ではなかったから周囲からの厳しい反応や何より自責の念に耐えられなかったんだろう。
 個人的な付き合いがあるわけじゃないからあくまで人づてに聞いた話でしかないけど、なんか不登校になって高校受験も失敗したとかなんとか。
 あたしにとってはもうすべて終わったことなんやし、せめて世間もこれ以上明日香を煩わせないで、彼女をそっとしてあげてと思う。


 部屋を出る前に窓の外を見ると、高台にある住宅地の端にあるうちからは、1キロほど離れた道沿いにある小さなパン屋さんののぼりがはためいていて、すでにお客さんが出入りしてるのが見えた。
 はー、まだ早い時間なのにもう営業しとるんやなぁ。いったい何時から作っとるんやろ。
 そんな感想を抱きながら、二階の自分の部屋から、お父さんがあたしのためにつけてくれた階段の手すりを伝いながら下に降りてリビングに入ると、お父さんがタブレットを片手にニュースチェックしながら食後のコーヒーを飲んでいて、お母さんがスマホでラジオを聞きながら料理をしていた。

「……おはよぉ」
 
 あたしがあいさつすると二人が同時に顔を上げる。

「ああ、おはようさん」

「おはよう香奈かなちゃん。今スクランブルエッグ作っとるから、適当にパン焼いて食べてぇな。お弁当はテーブルの上やけど、まだご飯熱いからもうちょっと冷めてから蓋したほうがええに」

「うん」
 
 陸上を辞めてからすっかり普通の女の子並みに食事量が減った。五枚切りトーストを一枚焼いて、その上にバターを塗ってかぶりつく。

──ざくっ

「ほえ?」

 なにも期待せずにかぶりついた食パンがやけに美味しい。表面はサックサクで中はモチモチで、塗ったバターよりももっと濃厚なバターの味がパンそのものからして、小麦の味も強くて、よく見たらパンの色もいつもの真っ白とは違って赤っぽい。全粒パンってやつ?
 顔を上げると両親がなにやらニヤニヤしている。

「……これ、いつもの食パンちゃうやんね? なんかめっちゃ美味しいんやけど」

「ふふ。やっぱり分かるやん。これ、さっきお父さんに買ってきてもぉたんよ。ワイズベーカリーさんとこの人気の贅沢食パン」

 聞き慣れない店名に首をかしげる。

「ワイズベーカリー? ……あ、あたしの部屋の窓から見えとるあのパン屋さん?」

「そうそう。朝食に焼き立てパンを食べてもらいたいってオーナーさんの意向で朝よぉからオープンしとるんやって。香奈ちゃんのその顔見れたからお父さんに早起きして買ってきてもぉて正解やったね」

 お母さんがお父さんにウインクして、お父さんもうんうんとうなずく。

「そうやな。また買いに行かなかんな」

「はー。個人経営のパン屋さんの食パンって初めて食べたけど美味しいんやねぇ。ビックリした」

「ご近所でもめっちゃ評判ええんやに。特にメロンパンやクロワッサンが絶品らしいわ」

「おー、それは気になるね」

「……ふむ。今日はお母さんに頼まれたんが食パンだけやったからな。次は別のパンも買ってこよう」
 
 その後、あたしが食べている間にお父さんは会社に行く準備をしている。

 
 食事を終え、学校に行く準備を整えたあたしとお父さんは一緒に家を出た。
 市の中心部から離れた郊外のベッドタウンにあるあたしの家から駅は遠い。だから、いつも出勤するお父さんの車で駅まで送ってもらってそこから電車で高校の近くの駅に行き、そこから歩いて学校まで通学している。
 帰りはバスがあるから駅から最寄りのバス停まで乗って帰ってくる。

 走り出した車の中で、お父さんが口を開く。

「……もう来週ぐらいには梅雨入りらしいで」

「ふーん」

「早いもんやな。香奈が高校生になってもうすぐ三ヶ月か。……その、なんだ、何かやりたいこととか、見つかったか?」
 
 あたしは首を横に振った。毎日がただ虚しく過ぎてるだけ。

「……何も」

「……部活にも、まだ参加する気にはなれやんか?」

「んー、今はまだそういうんはええかな」

「……そうか。まあ、そんな時は無理にやらんでもええさ。きっと香奈にはまだ、もう少し休息が必要なんやろな。時期が来れば新しい生きがいが見つかるやろ。お父さんもそうやったが人間ってのは大人になるまでに何度も挫折を経験するもんやからな」

「……見つかるやろーかねぇ」
 
 正直あまり期待してない。あたしが陸上以上に打ち込めるものなんて考えられない。

「大丈夫。今はまだ陸上のことを引きずっとるから気持ちを切り替えられやんかもしれんが、前に進もうと努力している人間にはいつか必ず道は開けるもんや。……そうやな、今の香奈は階段の踊り場みたいな状態なんやろな」

「階段の踊り場?」

「次のステップに移行するんに必要な準備期間ってことやな。とにかく、今はあせらずにぼちぼちやってけばええさ。ただ、これだけは忘れんといてほしいんやが、お父さんとお母さんにとって、香奈はいつだって自慢の一人娘や。人より飛び抜けた才能の有る無しに関係なくな。香奈が幸せに生きてくれさえすれば、お父さんたちにとっては正直それだけでええんや」
 
 ナンバーワンじゃなくてええ。香奈の存在そのものがかけがえの無いオンリーワンなんやから。と、お父さんが昔のヒット曲の詞を連想させる言葉を続ける。

「おぉ、なんやお父さんがカッコええこと言うとる」

「…………親をからかうな」
 
 お父さんが顔を赤くしてそっぽを向く。
 照れ隠しでつい茶化してしまったけど、ちゃんと分かってる。お父さんとお母さんがあたしのことをとても大切にしてくれていることぐらい。いつだってあたしのことを一番に考えてくれていることぐらい。
 
 だから、二人をこれ以上心配させないように、なにか打ち込めるものを見つけなくちゃいけないと思ってるけど、今のあたしはからっぽなんだ。

 なんにもない、本当のからっぽ。

 喜びも悲しみも怒りも楽しみも全部、あの夏の日に陸上競技場に置き忘れてきてしまったみたいで、あれ以来あたしの感情は稀薄になったように感じる。 
 少しも心が沸き立たない。何も燃え上がらない。ただただ虚しい。エネルギー切れ? HP、MP共に0状態? 燃え尽き? とにかくそんな感じだ。
 あ、でも今朝のパンは久しぶりに感動したかも。


──カタン、カタタン、カタン、カタタン……
 
 お父さんと別れて、一人で電車に揺られ、ただ漠然と窓の外を流れて行く景色を目で追いながら、あたしはつぶやいた。

「ああもう、かいだるいしんどいな……」








【作者コメント】

 まずはご挨拶。はじめましての読者様、他作品も読んでくださっている常連の読者様。作者の海凪みなぎととかる でございます。この作品は、もうかなり前、2017年頃に小説家になろうにて連載していた『ガールズアンドモンキー』のフルリメイク版となります。
 しばらく前、旧作を読み返してみたところ、今となってはもう何を書いたかもうろ覚えだったのですが、自分の作品ながら『面白いな~』と思いまして。ただ、今の自分からするとかなり荒削りだな~とか、今の自分ならもっと面白く書けるな~と思ったのがこのフルリメイク版執筆の原動力です。
 あと、最近はご当地物の作品がいろいろあるじゃないですか。山梨の身延を舞台にしたゆるキャン△とか、愛知の豊橋を舞台にしたマケインとか。ああいった作品に触れてみて『こんなに郷土愛を前面に押し出していいのか』という気づきを得まして、ほな自分も地元である伊勢の町への愛を前面に押し出して、解像度の高い伊勢を舞台にしたご当地小説を書いてみようかな、と。
 まあ、古くからの観光地である伊勢には有名な観光スポットはたくさんありますが、あえてそういう有名どころではなく、伊勢に生きる普通の人々の暮らしにスポットを当てていこうかな、という感じですね。よかったら他作品共々楽しんでいただければ幸いです。

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