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7月31日 金曜日
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今日はバイトの最終日。
昼から夜までシフトを入れて、たくさんの人に「お疲れ様」「ありがとう」と声をかけてもらった。
最後にみんなからもらったお菓子をショルダーバッグに詰め込んで、僕は深く一礼して店を出る。
――今日も、明くんと帰れる。
そのことだけが胸を温めていた。
けれど背後から声がした。
「相川くん、少しいいかな?」
振り返ると、私服に着替えた田山さんが立っていた。
「は、はい」と反射的に返事してしまう。
断る理由が浮かばず、裏手の社員用駐車場へと導かれる。
「今日で最後だろ?……食事に行かないか?」
突然切り出され、胸がざわつく。
「えっ……あの、ありがとうございます。でも……帰らないと」
頭を下げて踵を返した瞬間、手首をぐっと掴まれた。
「ひっ……!」
「なんで?あの男のところに行くんだろ。いいだろ、一回くらい!」
怒鳴り声が至近距離で響き、心臓が跳ねる。
顔が恐怖で強張り、逃げたいのに足が竦む。
――なんでそんなに怒ってるの?
車へと引っ張られる腕。必死に抵抗するうち、頭に浮かんだのは空手の稽古。
無意識に、息を止めて体をひねる。
――親指側に。
手首がすっと抜ける感触。
すぐに反対の手で相手の胸を押した。
田山さんがよろめいた、その一瞬を逃さず走り出す。
頭の中は真っ白。
視界が揺れて、呼吸が乱れて、ただ逃げることしか考えられなかった。
「……蓮翔?」
名前を呼ぶ声で意識が戻る。
顔を上げると、駐車場の出口に明くんが立っていた。
「――っ!」
途端に、全身の力が抜けた。
走れたはずなのに、足が前に出ない。
明くんの顔を見た瞬間、緊張の糸が切れて、ただ震える膝で歩くことしかできなかった。
手が震えてショルダーバッグの紐も握れない。
肩で息をしていると、背後から足音が迫る。
「ひっ……!」
恐怖が蘇って体が勝手に逃げようとした瞬間、足がもつれて転びそうになる。
「大丈夫」
腰をしっかり抱えられて、そのまま影へ引き寄せられる。
胸にぶつかる温もり。耳元で落ち着いた声。
――明くんだ。
安心と同時に、涙が溢れそうになった。
影に隠れたまま、明くんは腰を支えた手をゆっくり緩める。
僕はまだ震えが止まらず、声も途切れ途切れだった。
「どうしたの?」
「……た、田山さんが……っ、無理やり、車に……」
やっとの思いで言葉を紡ぐ。
言ってしまった瞬間、胸が苦しくなって下を向いた。
「僕……こんなに嫌われてるなんて……知らなかった」
ぽつりとこぼした声は、自分でも情けなくて。
胸の奥がぎゅっと掴まれるみたいに痛くなる。
明くんはそっと僕の肩を包むように撫でた。
そして、低く落ち着いた声で笑う。
「……護身術、使えたんだな。すごいじゃん、蓮翔」
「えっ……」
顔を上げると、明くんが目を細めてこちらを見ていた。
いつもの余裕ある笑みじゃなく、どこか本気で感心している表情。
「ちゃんと逃げられたんだろ。偉いよ」
頭を撫でられた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。
今は褒められて、涙がまた溢れそうになった。
胸の奥にまだ残っている震えを隠しきれず、僕はか細い声で呟いた。
「……か、帰るね」
声は弱くて、自分でもすぐに嘘だとわかる。
明くんは一歩こちらに寄り、少し首を傾げて僕の顔を覗き込む。
「……本当に帰りたい顔に見えないけど?」
低い声。鋭い瞳。
その視線に射抜かれて、喉がひゅっと詰まる。
「……お母さんに……心配かけたくないから……」
絞り出すように言って、俯いた。
地面に視線を落とす僕の肩が小さく震えているのを、明くんはきっと見ている。
「ふぅん……」
少し間を置いてから、明くんはふっと笑った。
「それなら、俺の家に泊まる?せっかくの夏休みだし」
「えっ……と、泊ま……っ……!」
言葉の途中で喉が詰まってしまう。心臓が一気に跳ねて、胸の奥が熱くなる。
「俺が蓮翔と、まだ一緒にいたいんだ。……だめ?」
真っ直ぐな声。
その言葉に、息が止まる。――だめなんて言えるはずがなかった。
「……わ、わかった……お母さんに聞いてみる」
観念したようにスマホを取り出す。手はまだ少し震えている。
着信音が鳴る間、心臓の鼓動ばかりが耳に響いた。
やがてお母さんの声が受話口から飛び込む。
『もしもし?どうしたの?』
「……あのね……友達の家に泊まってもいいかなって……」
『……誰の家?』
すぐに強い声が返ってくる。
「……藤原、明くんの……」
『誰?駄目に決まってるでしょ!』
反射的に返された声に、鼓動が跳ねた。
耳の奥が熱くなる。やっぱり駄目だ……。
「で、でも……明日、お母さんが仕事から帰るまでには戻るから……!」
必死に声を上げるけど、お母さんの拒絶は変わらない。
『知らない子の家なんて、駄目に決まってるでしょ!あんたが他の人の家に泊まるなんて許さないわよ!』
胸がぎゅっと痛んだ。
その時、受話口の向こうからお兄ちゃんの声が割り込んだ。
『母さん、俺は知ってるよ。明くんだろ?あの子なら大丈夫だよ』
「お兄ちゃん……」
思わず声が漏れる。
『でも……』
『母さん、過保護すぎるんだって。頭もいいし、ちゃんとしてる子だから。俺が保証する』
お母さんの声が少し揺れる。
けれどまだ迷っているのがわかった。
「明日、母さんが仕事から帰ってくるまでに帰らなかったら許さない。それでいいだろ?」
お兄ちゃんの声は強く、優しい。僕を守ろうとしてくれているのが伝わった。
しばらく沈黙があって、お母さんのため息が受話口から聞こえる。
『……明日、私が帰ってきた時に家にいなかったら、絶対に許さないからね』
「……うん。ありがとう」
声が震えた。安堵と緊張が混ざって、涙がにじみそうになる。
電話を切ると、横に立っていた明くんが少し口角を上げ、柔らかく笑った。
「これで堂々と来られるな」
その瞳に見つめられると、胸がまた熱くなる。
――怖い気持ちより、明くんと一緒にいられる嬉しさの方が、今はずっと強かった。
歯ブラシや下着を買うためコンビニに行きガラス扉が自動で開いた瞬間、冷気が頬に触れて「わぁ」と小さく声が漏れた。
時計は九時半を少し過ぎたところ。
――こんな時間に、家族以外の人とコンビニに来るなんて初めてだ。
店内は思った以上に明るくて、棚には色とりどりのお菓子や飲み物が並んでいる。
昼間とは違う、不思議なワクワクが胸に広がる。
「なんか緊張してる?」
横でかすかに笑う声。明くんはもう慣れた様子で、まっすぐ日用品コーナーに向かっていた。
「え、えっと……少し」
頬が熱くなって、思わず声が小さくなる。
明くんは迷いもなく歯ブラシコーナーの前で立ち止まり、青と白のパッケージを一つ取り出した。
そして、僕の方に視線を向けることもなく、自然にもう一つ取る。
「えっ……僕のは、自分で買うよ」
慌てて声を上げると、明くんはちらりと振り返ってにやりと笑った
「歯ブラシは俺が買うよ」
胸がどきどきして、目の前の歯ブラシがやけに特別なものに見えてしまった。
その自然さが、当たり前みたいで……なのに僕にとっては全部初めてで、心臓が落ち着かない。
レジに向かう明くんの背中を追いながら、――僕、本当に今日、お泊まりするんだ。
その実感がじわじわ湧き上がってきて、胸の奥が熱くなる。
夜の街に溶け込むようにそびえるマンション。
ライトアップされた木目調の外観に、僕は足を止めてしまった。
「……っ、え、ここ……?」
声が勝手に漏れる。
まるでテレビや雑誌でしか見ないような、都会的な建物。
明くんは「そう」と軽く返して、当たり前のようにオートロックにカードをかざした。
――ほんとに、ここが明くんの家……?
エントランスもピカピカで、広いロビーに観葉植物まで置かれている。
僕は落ち着かなくて、靴音を小さくしながらついていく。
エレベーターで上階に上がり、扉が開く。
明くんが鍵を差し込み、重たい扉を押し開けると――
「……ひろ……!」
玄関から覗いた瞬間、思わず声が裏返った。
白を基調とした広いリビング。大きな窓から夜景の光が差し込み、ソファやテーブルがホテルみたいに整っている。
実家のリビングの倍はあるんじゃないかってくらい広くて、胸がどきどきして落ち着かない。
明くんは靴を脱いで当たり前のように中へ入り、「どうぞ」と振り返る。
「……お邪魔します……」
僕もそっと靴を脱ぎながら、胸の中に別の不安が広がっていく。
――こ、こんなに広い家……もしかして、ご家族の人とか出てきたらどうしよう……!
僕なんかが泊まっていいのかな……
手の中のバッグを握りしめながら、目だけきょろきょろさせていると、明くんが笑う。
「心配いらないよ。姉さんは今日いないから。俺と蓮翔だけ」
その一言で、胸の奥がふっと軽くなる。
でも同時に、今夜は“本当に二人きり”なんだと実感して、また別の鼓動が高鳴った。
「……広い……」
リビングを見渡して、言葉が出てこない僕の横で、明くんは靴を脱いでスッと奥へ進む。
「こっちがリビング。あっちがキッチン。……で、奥が風呂と寝室」
軽い調子で指し示されるけど、全部がホテルみたいに綺麗で、整っていて。
まるでテレビドラマのセットみたいで、歩くだけで緊張する。
「荷物、そこに置いたらいいよ」
「……う、うん」
ショルダーバッグをソファの横に置きながら、まだ周囲をきょろきょろ見てしまう僕に、明くんがふっと笑う。
「はは、落ち着かない?……先にシャワーどうぞ」
「えっ……いいよ!」
驚きで声が裏返る。
僕が戸惑っていると、明くんは手招きをして廊下に出てドアを開けた。
「疲れてるでしょ、浴びなよ」
広い浴室が目に飛び込んできて、僕は思わず息を呑んだ。
白と黒で統一された壁、大きな浴槽、鏡までピカピカで……実家の風呂と比べたら、まるで旅館の大浴場みたいだ。
「綺麗だな……すごい」
「大げさだな」
明くんは笑いながら、戸棚からからTシャツとハーフパンツを持ってきて僕に渡す。
「俺のだけど、ごめんね。サイズは平気だろ」
「……っ……あ、ありがとう……」
服を胸に抱いた瞬間、心臓が跳ねた。
――これを着て、この家で夜を過ごすんだ。
そう思っただけで、頬が熱くなる。
「ゆっくり入っていいから」
背中越しのその声に、胸の奥までじんわり温かくなった。
足元の白いタイルはつやつやで、天井には浴室乾燥機。大きな鏡が壁いっぱいにあって、自分の顔が赤いのまで映っている。
――ホテルみたい……。
湯船に体を沈めた瞬間
「……あぁ……」
思わず声が漏れる。
大きなお風呂に一人で浸かるなんて、初めてだった。
熱すぎない温度で、じんわり体の芯まで解けていく。
思わず背もたれに頭を預けて、目を閉じた。
けど、浮かんでくるのは田山さんの顔。
「なんで?あの男の元に行くの?」と怒鳴られた声が耳に蘇って、胸がきゅっと締めつけられる。
掴まれた手首の感覚がまだ残っている気がして、ぞわっと鳥肌が立つ。
「……っ」
せっかくのお風呂なのに、心臓の鼓動が落ち着かない。
息を深く吸って吐いて、気を紛らわせようとするけど――
――…明くん、リビングで待ってるんだ
その事実を思い出した瞬間、不思議と安心が広がる。
――ここは、もう安全なんだ。
あの人は来られない。
じんわり胸の奥が温かくなるのと同時に、別の熱が頬に昇ってくる。
明くんの服を着て、この家で夜を過ごす。
その特別さを思うと、鼓動がまた速くなった。
「……初めての、お泊まり」
小さく呟きながら、頬まで湯船に沈める。
泡がぷくっと弾けて、水面がきらめいた。
湯船から上がって、体を拭いて渡されたTシャツとハーフパンツに袖を通す。
「……大きい……」
明くんの服はやっぱりLサイズで、僕の肩には余って落ちそうになる。
袖も肘まで隠れてしまって、裾は太ももの半分以上を覆っていた。
ハーフパンツも腰紐をきゅっと縛らないと落ちそうで、なんだかパジャマみたいだ。
鏡に映った自分を見て、顔が熱くなる。
――僕が着てるのに、明くんの匂いがする。
髪を軽くタオルで拭いてリビングに戻ると、ソファに座ってテレビを見ていた明くんが顔を上げた。
その目が一瞬見開かれて、すぐに細くなる。
「……似合ってるじゃん」
低い声に胸が跳ねて、慌てて下を向いた。
「あ、明くんの服だからだよ……」
くすっと笑われて、ますます顔が赤くなる。
心臓がバクバク鳴って、落ち着かせようと深呼吸したけど――服から伝わる温もりが逆に熱を上げてしまう。
明くんがシャワーを浴びに行き、リビングに1人になりソファに座ったまま、借りたTシャツの袖を指でつまんで、何度も伸ばしたり戻したり。
――ここに僕が座ってていいのかな。
親族以外の家に泊まるなんて初めてで、緊張で胸の奥がぎゅっと縮む。
「……ふぅ」
小さく息を吐いたとき、田山さんの顔がふと頭に浮かんだ。掴まれた腕の感触が蘇り、背筋に冷たいものが走る。
怖い。――でも、逃げてきた先に明くんがいてくれた。だから今、僕はここにいる。
気持ちを落ち着けたいのに、考えすぎてしまい、気づけば口を膨らませていた。
慌てて手で押さえる。……癖、やめたいのに。
服から明くんの匂いで、不思議と怖さを少しずつ遠ざけてくれていた。
お風呂から上がってきた明くんはキッチンに向かい蛍光灯がぽつんと灯り、静かな部屋に明くんの声が落ちる。
「なんか食べよう。夜、食べてないだろ」
「えっ……でも、もう11時だよ」
咄嗟に時計を見て、僕は首を振った。
「夜の10時過ぎてからは、体に悪いから食べちゃダメって、お母さんが……」
言った瞬間、自分でも子どもみたいで恥ずかしくなる。
だけど明くんは眉をひそめて、笑うように僕を見る。
「ここ、俺の家だよ?お母さんはいない」
「……っ」
胸がぎゅっとなる。確かにそうだ、けど。今までした事がない。しようと思ったこともないので、怖くなる。
「……でも」
迷っている僕に、明くんは手に持っていた袋を揺らした。中から出てきたのは――インスタントラーメン。
「一緒に食べよ」
「……え」
固まった僕に、明くんは肩をすくめる。
「夜食にぴったりだろ」
「……お母さんが、体に悪いからって。だから……」
唇を噛んで下を向くけど、僕の胸は不思議な高鳴りでいっぱいになる。
「……本当はずっと、食べてみたかったんだ」
自分でも驚くくらい小さな声が漏れた。
明くんがちらりとこちらを見て、目を細める。
「バレたら、俺も一緒に謝るよ」
「え……」
「俺が食わせたって言うし。怒られるなら、俺も一緒に怒られる」
その声は軽い冗談みたいなのに、不思議と胸の奥に真っ直ぐ届いてくる。
僕は目を丸くして、思わず明くんを見つめてしまった。
「……でも、バレたら……明くんと遊べなくなるかもしれないよ」
「なら、バレないようにしないと」
にやっと笑った明くんが、鍋に水を入れて火をつける。
ガスコンロの音が響いて、ふわっと湯気が立ちのぼる。
初めての匂いに胸が高鳴る。
――ほんとに、食べていいのかな。
だけどその隣に明くんがいて、僕のために用意してくれてる。
きっともう、その答えは決まっていた。
食卓に並べられたどんぶりを見て、思わず唾を飲み込んだ。
「……ほんとに、食べれる」
「蓮翔の初めてを一緒にできてよかったよ」
視線が合って、胸がドキンとする。
箸を震える手で持って、湯気の立つ麺を少しすくう。
「……い、いただきます」
唇に近づけた瞬間、熱気で頬がじんわり赤くなる。
麺を啜ろうとしたけど、うまく音が出ない。口に入ってきたのは短く切れた麺。
「ふふ……啜れない?」
「だっ、だって初めてなんだ……!」
顔まで赤くなって抗議する僕に、明くんは楽しそうに笑って、前からそっと麺をふーふーと冷ましてくれた。
「ほら、もう一回」
「……っ」
嬉しくて、恥ずかしくて。
でも――初めての味は、胸の奥まで沁みていった。
「おっ……美味しいっ!」
思わず声が裏返る。
口いっぱいに広がった塩気と熱が、じんわりと胸の奥まで広がっていく。
――これが、インスタントラーメン……!
感動で胸がいっぱいになり、気づけば箸を持ったまま手が止まってしまっていた。
食べたいのに、美味しさと嬉しさがぐるぐるして、次の一口が持てない。
「ははっ。そんなによかった?」
明くんの低い笑い声。
横を見ると、ラーメンに手をつけもせず、片肘をついて僕を見つめている。
その目が、いつもよりずっと柔らかい。
「うん!うん!……ほ、本当はね、一人暮らししたら絶対ラーメン食べようって思ってたんだ」
勢いのまま口が動く。止められない。
「でも……こんなに美味しいの、明くんと一緒に食べられて……すごく嬉しい!」
言った瞬間、顔が熱くなった。
話さなくてもいいことまで、つい溢れてしまう。
「……蓮翔って、本当……」
明くんが何かを言いかけて、言葉を飲み込む。
僕は慌てて箸を動かした。
まだ啜れなくて、短く切れた麺をちまちま口に運ぶ。
熱いのに、美味しくて、止まらない。
そんな僕を見ながら、明くんがふっと微笑んで。
「また、一緒に食べよう。ラーメン」
「!!……ありがとう!」
胸の奥がきゅっとして、笑顔がこぼれた。
――ただのラーメンなのに。
明くんと一緒に食べたから、世界で一番特別な味になった
慣れないラーメンを食べ終わるのに、30分はかかった気がする。
片付けは「作ってもらったから」と手伝わせてもらい、食器を洗って食洗機に入れる。
初めてのお泊まり、初めてのラーメン――初めてが続いて胸がいっぱいだった。
時計を見ると、もう夜の12時を回ろうとしていた。
ドキドキが止まらない。胸が熱いのに、指先は落ち着かなくて。
「あ、明くん」
「ん?どうした?」
ソファに移動した明くんが、隣をぽんぽんと叩く。
促されるまま座り、唇をきゅっと結んでから言葉を吐き出す。
「……僕、深夜のテレビ、見たことないんだ。よくないからって」
「お母さんに、言われて?」
明くんの目がわずかに細められる。
恥ずかしさよりも、今は“初めてのことをやってみたい”好奇心が勝っていた。
「……だから、一緒にテレビ、見たい」
「はは、テレビくらい、いつでも好きに見ていいのに」
リモコンを取る明くん。画面が灯ると、人気芸人が下ネタ混じりに盛り上がっていた。
――あぁ、これ。みんなが話してた“深夜番組”。
見たかったものを、今こうして明くんと並んで見ている。
自然と口元がゆるむ。けど……
「……」
気まずさがぶわっと押し寄せて、思わず口元が膨らむ。
お腹の奥がむず痒くて、笑いたいのに笑えない。
この空気を止めたくないのに、どうしても。
「……はは。なるほどな」と明くんが笑う。
「お母さん、わかってたんだろ。蓮翔がこうやって気まずくなるの、守ってやってたんだ」
「……っ」
図星で、胸がきゅっとなる。
「でも……ほんとは、見たかったんだろ?」
やさしい声に、心がじわっと揺れる。
「……僕、見たかった。クラスのみんなと話したかった。……でも、僕の前だとみんな笑わなくなるの、わかってたから……」
初めて吐き出す本音。
明くんはふっと目を細めて、肩を揺らす。
「確かに。蓮翔の前じゃ、AVの話もできないもんな」
「っ……!!」
一瞬で顔が熱くなる。
「だ、だめだよ!18歳未満は見ちゃ……!」
必死に声を上げると、明くんは笑いをこらえるみたいに肩を震わせ――そして、静かに抱き寄せてきた。
「はは……真面目すぎ。かわいい」
胸に顔を押し付けられ、心臓が飛び出しそうに跳ねる。
でも――不思議だ。
“この話題”で、初めて空気が止まらなかった。
初めて笑ってもらえた。そのことが、抱きしめられているよりも嬉しくて。
息を整えるように、小さな声で尋ねる。
「……明くんの誕生日って、いつ?」
「俺?11月。冬になる前」
「……っ!」
胸がきゅっと締まる。初めて知った、明くんの誕生月。
「じゃあ……まだ17歳じゃん!」
「そうだけど?」
「だ、だったら余計にダメだよ!18歳未満は見ちゃダメって決まってるんだから!」
真剣に言う僕を、明くんは耐えきれないみたいに笑って――さらに強く抱きしめた。
そのまま抱きしめられながら、ぼんやりテレビを眺めていた。
いつもなら絶対に寝ている時間。
けれど、耳に届く明くんの規則正しい鼓動と、包み込むような温かさが心地よすぎて、瞼が重くなる。
「……寝てもいいよ」
優しい声が頭の奥に響く。
視界はもう霞んで、映像も音も遠くなっていく。
「……まだ……せっかくのお泊まりで……初めてなのに……」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
眠気が強すぎて、考えがまとまらない。
ただ、“まだ終わらせたくない”気持ちだけが、口から零れた。
頬に触れる温もり。
明くんが手の甲で優しく撫でてくれているのがわかる。
けれど恥ずかしさより眠気が勝って、もう動けない。
「……テレビも……明くんと……まだ話したい……まだ……終わりたくない……」
掠れる声で紡ぐと、ふっと低い笑い声が聞こえた。
「……何回でもしよう。お泊まりも、テレビも……今日だけじゃない」
耳元に落ちてきた言葉。
柔らかく、けれどどこか確信めいた響き。
その安心感に、胸の奥がじんわり温かくなって、
“また一緒にできるんだ”
その想いを最後に、意識はすとんと眠りに落ちていった。
昼から夜までシフトを入れて、たくさんの人に「お疲れ様」「ありがとう」と声をかけてもらった。
最後にみんなからもらったお菓子をショルダーバッグに詰め込んで、僕は深く一礼して店を出る。
――今日も、明くんと帰れる。
そのことだけが胸を温めていた。
けれど背後から声がした。
「相川くん、少しいいかな?」
振り返ると、私服に着替えた田山さんが立っていた。
「は、はい」と反射的に返事してしまう。
断る理由が浮かばず、裏手の社員用駐車場へと導かれる。
「今日で最後だろ?……食事に行かないか?」
突然切り出され、胸がざわつく。
「えっ……あの、ありがとうございます。でも……帰らないと」
頭を下げて踵を返した瞬間、手首をぐっと掴まれた。
「ひっ……!」
「なんで?あの男のところに行くんだろ。いいだろ、一回くらい!」
怒鳴り声が至近距離で響き、心臓が跳ねる。
顔が恐怖で強張り、逃げたいのに足が竦む。
――なんでそんなに怒ってるの?
車へと引っ張られる腕。必死に抵抗するうち、頭に浮かんだのは空手の稽古。
無意識に、息を止めて体をひねる。
――親指側に。
手首がすっと抜ける感触。
すぐに反対の手で相手の胸を押した。
田山さんがよろめいた、その一瞬を逃さず走り出す。
頭の中は真っ白。
視界が揺れて、呼吸が乱れて、ただ逃げることしか考えられなかった。
「……蓮翔?」
名前を呼ぶ声で意識が戻る。
顔を上げると、駐車場の出口に明くんが立っていた。
「――っ!」
途端に、全身の力が抜けた。
走れたはずなのに、足が前に出ない。
明くんの顔を見た瞬間、緊張の糸が切れて、ただ震える膝で歩くことしかできなかった。
手が震えてショルダーバッグの紐も握れない。
肩で息をしていると、背後から足音が迫る。
「ひっ……!」
恐怖が蘇って体が勝手に逃げようとした瞬間、足がもつれて転びそうになる。
「大丈夫」
腰をしっかり抱えられて、そのまま影へ引き寄せられる。
胸にぶつかる温もり。耳元で落ち着いた声。
――明くんだ。
安心と同時に、涙が溢れそうになった。
影に隠れたまま、明くんは腰を支えた手をゆっくり緩める。
僕はまだ震えが止まらず、声も途切れ途切れだった。
「どうしたの?」
「……た、田山さんが……っ、無理やり、車に……」
やっとの思いで言葉を紡ぐ。
言ってしまった瞬間、胸が苦しくなって下を向いた。
「僕……こんなに嫌われてるなんて……知らなかった」
ぽつりとこぼした声は、自分でも情けなくて。
胸の奥がぎゅっと掴まれるみたいに痛くなる。
明くんはそっと僕の肩を包むように撫でた。
そして、低く落ち着いた声で笑う。
「……護身術、使えたんだな。すごいじゃん、蓮翔」
「えっ……」
顔を上げると、明くんが目を細めてこちらを見ていた。
いつもの余裕ある笑みじゃなく、どこか本気で感心している表情。
「ちゃんと逃げられたんだろ。偉いよ」
頭を撫でられた瞬間、胸の奥がじんわり温かくなる。
今は褒められて、涙がまた溢れそうになった。
胸の奥にまだ残っている震えを隠しきれず、僕はか細い声で呟いた。
「……か、帰るね」
声は弱くて、自分でもすぐに嘘だとわかる。
明くんは一歩こちらに寄り、少し首を傾げて僕の顔を覗き込む。
「……本当に帰りたい顔に見えないけど?」
低い声。鋭い瞳。
その視線に射抜かれて、喉がひゅっと詰まる。
「……お母さんに……心配かけたくないから……」
絞り出すように言って、俯いた。
地面に視線を落とす僕の肩が小さく震えているのを、明くんはきっと見ている。
「ふぅん……」
少し間を置いてから、明くんはふっと笑った。
「それなら、俺の家に泊まる?せっかくの夏休みだし」
「えっ……と、泊ま……っ……!」
言葉の途中で喉が詰まってしまう。心臓が一気に跳ねて、胸の奥が熱くなる。
「俺が蓮翔と、まだ一緒にいたいんだ。……だめ?」
真っ直ぐな声。
その言葉に、息が止まる。――だめなんて言えるはずがなかった。
「……わ、わかった……お母さんに聞いてみる」
観念したようにスマホを取り出す。手はまだ少し震えている。
着信音が鳴る間、心臓の鼓動ばかりが耳に響いた。
やがてお母さんの声が受話口から飛び込む。
『もしもし?どうしたの?』
「……あのね……友達の家に泊まってもいいかなって……」
『……誰の家?』
すぐに強い声が返ってくる。
「……藤原、明くんの……」
『誰?駄目に決まってるでしょ!』
反射的に返された声に、鼓動が跳ねた。
耳の奥が熱くなる。やっぱり駄目だ……。
「で、でも……明日、お母さんが仕事から帰るまでには戻るから……!」
必死に声を上げるけど、お母さんの拒絶は変わらない。
『知らない子の家なんて、駄目に決まってるでしょ!あんたが他の人の家に泊まるなんて許さないわよ!』
胸がぎゅっと痛んだ。
その時、受話口の向こうからお兄ちゃんの声が割り込んだ。
『母さん、俺は知ってるよ。明くんだろ?あの子なら大丈夫だよ』
「お兄ちゃん……」
思わず声が漏れる。
『でも……』
『母さん、過保護すぎるんだって。頭もいいし、ちゃんとしてる子だから。俺が保証する』
お母さんの声が少し揺れる。
けれどまだ迷っているのがわかった。
「明日、母さんが仕事から帰ってくるまでに帰らなかったら許さない。それでいいだろ?」
お兄ちゃんの声は強く、優しい。僕を守ろうとしてくれているのが伝わった。
しばらく沈黙があって、お母さんのため息が受話口から聞こえる。
『……明日、私が帰ってきた時に家にいなかったら、絶対に許さないからね』
「……うん。ありがとう」
声が震えた。安堵と緊張が混ざって、涙がにじみそうになる。
電話を切ると、横に立っていた明くんが少し口角を上げ、柔らかく笑った。
「これで堂々と来られるな」
その瞳に見つめられると、胸がまた熱くなる。
――怖い気持ちより、明くんと一緒にいられる嬉しさの方が、今はずっと強かった。
歯ブラシや下着を買うためコンビニに行きガラス扉が自動で開いた瞬間、冷気が頬に触れて「わぁ」と小さく声が漏れた。
時計は九時半を少し過ぎたところ。
――こんな時間に、家族以外の人とコンビニに来るなんて初めてだ。
店内は思った以上に明るくて、棚には色とりどりのお菓子や飲み物が並んでいる。
昼間とは違う、不思議なワクワクが胸に広がる。
「なんか緊張してる?」
横でかすかに笑う声。明くんはもう慣れた様子で、まっすぐ日用品コーナーに向かっていた。
「え、えっと……少し」
頬が熱くなって、思わず声が小さくなる。
明くんは迷いもなく歯ブラシコーナーの前で立ち止まり、青と白のパッケージを一つ取り出した。
そして、僕の方に視線を向けることもなく、自然にもう一つ取る。
「えっ……僕のは、自分で買うよ」
慌てて声を上げると、明くんはちらりと振り返ってにやりと笑った
「歯ブラシは俺が買うよ」
胸がどきどきして、目の前の歯ブラシがやけに特別なものに見えてしまった。
その自然さが、当たり前みたいで……なのに僕にとっては全部初めてで、心臓が落ち着かない。
レジに向かう明くんの背中を追いながら、――僕、本当に今日、お泊まりするんだ。
その実感がじわじわ湧き上がってきて、胸の奥が熱くなる。
夜の街に溶け込むようにそびえるマンション。
ライトアップされた木目調の外観に、僕は足を止めてしまった。
「……っ、え、ここ……?」
声が勝手に漏れる。
まるでテレビや雑誌でしか見ないような、都会的な建物。
明くんは「そう」と軽く返して、当たり前のようにオートロックにカードをかざした。
――ほんとに、ここが明くんの家……?
エントランスもピカピカで、広いロビーに観葉植物まで置かれている。
僕は落ち着かなくて、靴音を小さくしながらついていく。
エレベーターで上階に上がり、扉が開く。
明くんが鍵を差し込み、重たい扉を押し開けると――
「……ひろ……!」
玄関から覗いた瞬間、思わず声が裏返った。
白を基調とした広いリビング。大きな窓から夜景の光が差し込み、ソファやテーブルがホテルみたいに整っている。
実家のリビングの倍はあるんじゃないかってくらい広くて、胸がどきどきして落ち着かない。
明くんは靴を脱いで当たり前のように中へ入り、「どうぞ」と振り返る。
「……お邪魔します……」
僕もそっと靴を脱ぎながら、胸の中に別の不安が広がっていく。
――こ、こんなに広い家……もしかして、ご家族の人とか出てきたらどうしよう……!
僕なんかが泊まっていいのかな……
手の中のバッグを握りしめながら、目だけきょろきょろさせていると、明くんが笑う。
「心配いらないよ。姉さんは今日いないから。俺と蓮翔だけ」
その一言で、胸の奥がふっと軽くなる。
でも同時に、今夜は“本当に二人きり”なんだと実感して、また別の鼓動が高鳴った。
「……広い……」
リビングを見渡して、言葉が出てこない僕の横で、明くんは靴を脱いでスッと奥へ進む。
「こっちがリビング。あっちがキッチン。……で、奥が風呂と寝室」
軽い調子で指し示されるけど、全部がホテルみたいに綺麗で、整っていて。
まるでテレビドラマのセットみたいで、歩くだけで緊張する。
「荷物、そこに置いたらいいよ」
「……う、うん」
ショルダーバッグをソファの横に置きながら、まだ周囲をきょろきょろ見てしまう僕に、明くんがふっと笑う。
「はは、落ち着かない?……先にシャワーどうぞ」
「えっ……いいよ!」
驚きで声が裏返る。
僕が戸惑っていると、明くんは手招きをして廊下に出てドアを開けた。
「疲れてるでしょ、浴びなよ」
広い浴室が目に飛び込んできて、僕は思わず息を呑んだ。
白と黒で統一された壁、大きな浴槽、鏡までピカピカで……実家の風呂と比べたら、まるで旅館の大浴場みたいだ。
「綺麗だな……すごい」
「大げさだな」
明くんは笑いながら、戸棚からからTシャツとハーフパンツを持ってきて僕に渡す。
「俺のだけど、ごめんね。サイズは平気だろ」
「……っ……あ、ありがとう……」
服を胸に抱いた瞬間、心臓が跳ねた。
――これを着て、この家で夜を過ごすんだ。
そう思っただけで、頬が熱くなる。
「ゆっくり入っていいから」
背中越しのその声に、胸の奥までじんわり温かくなった。
足元の白いタイルはつやつやで、天井には浴室乾燥機。大きな鏡が壁いっぱいにあって、自分の顔が赤いのまで映っている。
――ホテルみたい……。
湯船に体を沈めた瞬間
「……あぁ……」
思わず声が漏れる。
大きなお風呂に一人で浸かるなんて、初めてだった。
熱すぎない温度で、じんわり体の芯まで解けていく。
思わず背もたれに頭を預けて、目を閉じた。
けど、浮かんでくるのは田山さんの顔。
「なんで?あの男の元に行くの?」と怒鳴られた声が耳に蘇って、胸がきゅっと締めつけられる。
掴まれた手首の感覚がまだ残っている気がして、ぞわっと鳥肌が立つ。
「……っ」
せっかくのお風呂なのに、心臓の鼓動が落ち着かない。
息を深く吸って吐いて、気を紛らわせようとするけど――
――…明くん、リビングで待ってるんだ
その事実を思い出した瞬間、不思議と安心が広がる。
――ここは、もう安全なんだ。
あの人は来られない。
じんわり胸の奥が温かくなるのと同時に、別の熱が頬に昇ってくる。
明くんの服を着て、この家で夜を過ごす。
その特別さを思うと、鼓動がまた速くなった。
「……初めての、お泊まり」
小さく呟きながら、頬まで湯船に沈める。
泡がぷくっと弾けて、水面がきらめいた。
湯船から上がって、体を拭いて渡されたTシャツとハーフパンツに袖を通す。
「……大きい……」
明くんの服はやっぱりLサイズで、僕の肩には余って落ちそうになる。
袖も肘まで隠れてしまって、裾は太ももの半分以上を覆っていた。
ハーフパンツも腰紐をきゅっと縛らないと落ちそうで、なんだかパジャマみたいだ。
鏡に映った自分を見て、顔が熱くなる。
――僕が着てるのに、明くんの匂いがする。
髪を軽くタオルで拭いてリビングに戻ると、ソファに座ってテレビを見ていた明くんが顔を上げた。
その目が一瞬見開かれて、すぐに細くなる。
「……似合ってるじゃん」
低い声に胸が跳ねて、慌てて下を向いた。
「あ、明くんの服だからだよ……」
くすっと笑われて、ますます顔が赤くなる。
心臓がバクバク鳴って、落ち着かせようと深呼吸したけど――服から伝わる温もりが逆に熱を上げてしまう。
明くんがシャワーを浴びに行き、リビングに1人になりソファに座ったまま、借りたTシャツの袖を指でつまんで、何度も伸ばしたり戻したり。
――ここに僕が座ってていいのかな。
親族以外の家に泊まるなんて初めてで、緊張で胸の奥がぎゅっと縮む。
「……ふぅ」
小さく息を吐いたとき、田山さんの顔がふと頭に浮かんだ。掴まれた腕の感触が蘇り、背筋に冷たいものが走る。
怖い。――でも、逃げてきた先に明くんがいてくれた。だから今、僕はここにいる。
気持ちを落ち着けたいのに、考えすぎてしまい、気づけば口を膨らませていた。
慌てて手で押さえる。……癖、やめたいのに。
服から明くんの匂いで、不思議と怖さを少しずつ遠ざけてくれていた。
お風呂から上がってきた明くんはキッチンに向かい蛍光灯がぽつんと灯り、静かな部屋に明くんの声が落ちる。
「なんか食べよう。夜、食べてないだろ」
「えっ……でも、もう11時だよ」
咄嗟に時計を見て、僕は首を振った。
「夜の10時過ぎてからは、体に悪いから食べちゃダメって、お母さんが……」
言った瞬間、自分でも子どもみたいで恥ずかしくなる。
だけど明くんは眉をひそめて、笑うように僕を見る。
「ここ、俺の家だよ?お母さんはいない」
「……っ」
胸がぎゅっとなる。確かにそうだ、けど。今までした事がない。しようと思ったこともないので、怖くなる。
「……でも」
迷っている僕に、明くんは手に持っていた袋を揺らした。中から出てきたのは――インスタントラーメン。
「一緒に食べよ」
「……え」
固まった僕に、明くんは肩をすくめる。
「夜食にぴったりだろ」
「……お母さんが、体に悪いからって。だから……」
唇を噛んで下を向くけど、僕の胸は不思議な高鳴りでいっぱいになる。
「……本当はずっと、食べてみたかったんだ」
自分でも驚くくらい小さな声が漏れた。
明くんがちらりとこちらを見て、目を細める。
「バレたら、俺も一緒に謝るよ」
「え……」
「俺が食わせたって言うし。怒られるなら、俺も一緒に怒られる」
その声は軽い冗談みたいなのに、不思議と胸の奥に真っ直ぐ届いてくる。
僕は目を丸くして、思わず明くんを見つめてしまった。
「……でも、バレたら……明くんと遊べなくなるかもしれないよ」
「なら、バレないようにしないと」
にやっと笑った明くんが、鍋に水を入れて火をつける。
ガスコンロの音が響いて、ふわっと湯気が立ちのぼる。
初めての匂いに胸が高鳴る。
――ほんとに、食べていいのかな。
だけどその隣に明くんがいて、僕のために用意してくれてる。
きっともう、その答えは決まっていた。
食卓に並べられたどんぶりを見て、思わず唾を飲み込んだ。
「……ほんとに、食べれる」
「蓮翔の初めてを一緒にできてよかったよ」
視線が合って、胸がドキンとする。
箸を震える手で持って、湯気の立つ麺を少しすくう。
「……い、いただきます」
唇に近づけた瞬間、熱気で頬がじんわり赤くなる。
麺を啜ろうとしたけど、うまく音が出ない。口に入ってきたのは短く切れた麺。
「ふふ……啜れない?」
「だっ、だって初めてなんだ……!」
顔まで赤くなって抗議する僕に、明くんは楽しそうに笑って、前からそっと麺をふーふーと冷ましてくれた。
「ほら、もう一回」
「……っ」
嬉しくて、恥ずかしくて。
でも――初めての味は、胸の奥まで沁みていった。
「おっ……美味しいっ!」
思わず声が裏返る。
口いっぱいに広がった塩気と熱が、じんわりと胸の奥まで広がっていく。
――これが、インスタントラーメン……!
感動で胸がいっぱいになり、気づけば箸を持ったまま手が止まってしまっていた。
食べたいのに、美味しさと嬉しさがぐるぐるして、次の一口が持てない。
「ははっ。そんなによかった?」
明くんの低い笑い声。
横を見ると、ラーメンに手をつけもせず、片肘をついて僕を見つめている。
その目が、いつもよりずっと柔らかい。
「うん!うん!……ほ、本当はね、一人暮らししたら絶対ラーメン食べようって思ってたんだ」
勢いのまま口が動く。止められない。
「でも……こんなに美味しいの、明くんと一緒に食べられて……すごく嬉しい!」
言った瞬間、顔が熱くなった。
話さなくてもいいことまで、つい溢れてしまう。
「……蓮翔って、本当……」
明くんが何かを言いかけて、言葉を飲み込む。
僕は慌てて箸を動かした。
まだ啜れなくて、短く切れた麺をちまちま口に運ぶ。
熱いのに、美味しくて、止まらない。
そんな僕を見ながら、明くんがふっと微笑んで。
「また、一緒に食べよう。ラーメン」
「!!……ありがとう!」
胸の奥がきゅっとして、笑顔がこぼれた。
――ただのラーメンなのに。
明くんと一緒に食べたから、世界で一番特別な味になった
慣れないラーメンを食べ終わるのに、30分はかかった気がする。
片付けは「作ってもらったから」と手伝わせてもらい、食器を洗って食洗機に入れる。
初めてのお泊まり、初めてのラーメン――初めてが続いて胸がいっぱいだった。
時計を見ると、もう夜の12時を回ろうとしていた。
ドキドキが止まらない。胸が熱いのに、指先は落ち着かなくて。
「あ、明くん」
「ん?どうした?」
ソファに移動した明くんが、隣をぽんぽんと叩く。
促されるまま座り、唇をきゅっと結んでから言葉を吐き出す。
「……僕、深夜のテレビ、見たことないんだ。よくないからって」
「お母さんに、言われて?」
明くんの目がわずかに細められる。
恥ずかしさよりも、今は“初めてのことをやってみたい”好奇心が勝っていた。
「……だから、一緒にテレビ、見たい」
「はは、テレビくらい、いつでも好きに見ていいのに」
リモコンを取る明くん。画面が灯ると、人気芸人が下ネタ混じりに盛り上がっていた。
――あぁ、これ。みんなが話してた“深夜番組”。
見たかったものを、今こうして明くんと並んで見ている。
自然と口元がゆるむ。けど……
「……」
気まずさがぶわっと押し寄せて、思わず口元が膨らむ。
お腹の奥がむず痒くて、笑いたいのに笑えない。
この空気を止めたくないのに、どうしても。
「……はは。なるほどな」と明くんが笑う。
「お母さん、わかってたんだろ。蓮翔がこうやって気まずくなるの、守ってやってたんだ」
「……っ」
図星で、胸がきゅっとなる。
「でも……ほんとは、見たかったんだろ?」
やさしい声に、心がじわっと揺れる。
「……僕、見たかった。クラスのみんなと話したかった。……でも、僕の前だとみんな笑わなくなるの、わかってたから……」
初めて吐き出す本音。
明くんはふっと目を細めて、肩を揺らす。
「確かに。蓮翔の前じゃ、AVの話もできないもんな」
「っ……!!」
一瞬で顔が熱くなる。
「だ、だめだよ!18歳未満は見ちゃ……!」
必死に声を上げると、明くんは笑いをこらえるみたいに肩を震わせ――そして、静かに抱き寄せてきた。
「はは……真面目すぎ。かわいい」
胸に顔を押し付けられ、心臓が飛び出しそうに跳ねる。
でも――不思議だ。
“この話題”で、初めて空気が止まらなかった。
初めて笑ってもらえた。そのことが、抱きしめられているよりも嬉しくて。
息を整えるように、小さな声で尋ねる。
「……明くんの誕生日って、いつ?」
「俺?11月。冬になる前」
「……っ!」
胸がきゅっと締まる。初めて知った、明くんの誕生月。
「じゃあ……まだ17歳じゃん!」
「そうだけど?」
「だ、だったら余計にダメだよ!18歳未満は見ちゃダメって決まってるんだから!」
真剣に言う僕を、明くんは耐えきれないみたいに笑って――さらに強く抱きしめた。
そのまま抱きしめられながら、ぼんやりテレビを眺めていた。
いつもなら絶対に寝ている時間。
けれど、耳に届く明くんの規則正しい鼓動と、包み込むような温かさが心地よすぎて、瞼が重くなる。
「……寝てもいいよ」
優しい声が頭の奥に響く。
視界はもう霞んで、映像も音も遠くなっていく。
「……まだ……せっかくのお泊まりで……初めてなのに……」
自分でも何を言っているのかわからなかった。
眠気が強すぎて、考えがまとまらない。
ただ、“まだ終わらせたくない”気持ちだけが、口から零れた。
頬に触れる温もり。
明くんが手の甲で優しく撫でてくれているのがわかる。
けれど恥ずかしさより眠気が勝って、もう動けない。
「……テレビも……明くんと……まだ話したい……まだ……終わりたくない……」
掠れる声で紡ぐと、ふっと低い笑い声が聞こえた。
「……何回でもしよう。お泊まりも、テレビも……今日だけじゃない」
耳元に落ちてきた言葉。
柔らかく、けれどどこか確信めいた響き。
その安心感に、胸の奥がじんわり温かくなって、
“また一緒にできるんだ”
その想いを最後に、意識はすとんと眠りに落ちていった。
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