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8月22日 土曜日
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明くんのマンションの前。
コンクリートの建物が高くそびえて、影を落としてくれるおかげで、夏の朝の強い日差しを避けながら待てていた。
――ちょっと早く着いちゃったな
そう思いながら見上げる。都会的な外観に、いつ来ても背筋が伸びる。
お兄ちゃんが仕事に行くついでに車で送ってくれたから、予定よりだいぶ早く着いてしまったのだ。
胸の奥が、じんじん熱を帯びる。
――夏休みなのに、すごい明くんと会ってる……。
こんなに会えるなんて、思ってなかったな。
「蓮翔」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
振り向くと、マンションの自動ドアを抜けて、キャップを被った明くんが出てくる。
朝の光を受けても涼しい顔をしていて、その姿に目が吸い寄せられる。
「ごめん、待った?」
キャップの影に隠れてよく見えない表情が、隣に立った瞬間に近くで見えて、胸がいっぱいになる。
「全然。……お兄ちゃんが仕事のついでに送ってくれたんだ」
そう答えながら、心の中では別の声が響いていた。
――今日も会えた。それだけで嬉しい。
大学に向かって歩きながら、セミの声がアスファルトに響いていた。
まだ午前中なのに暑い。けど、隣に明くんがいるだけで、不思議と軽やかに歩ける。
「ここから大学って、どれくらい?」
ふと気になって聞く。
「近いよ。マンションからなら歩いてで25分くらいだし、自転車ならすぐだね」
明くんは何でもないように答える。
「……そ、そんなに近いんだ」
思わず立ち止まりそうになった。
――合格したら明くんはこんな風に通うのか。僕もここに通えるようになったら……。
心臓が跳ねるのをごまかすように前を向く。
「蓮翔も受かったら、一緒に通えるな」
明くんはさらりと口にする。
「っ……!」
顔が熱くなるのがわかって、慌ててキャップを深く被る。
「……が、頑張るよ」
「はは、頑張れ。俺は蓮翔と一緒に行きたいな」
その言葉が嬉しくて、喉が詰まりそうになる。
蝉の声も車の音も遠く感じて。
耳の奥には、明くんの声だけが響いていた。
歩いて二十五分ほどで、校舎が視界に入ってきた。
門の前には人の列ができていて、夏の日差しに照らされながらも熱気に包まれている。
「……いっぱい……」
思わず声が漏れる。
「有名なところだからね」
明くんは穏やかに笑い、「並ぼうか」と自然に僕を列の最後尾へ誘導する。
人は多いのに、列はすいすいと進んでいく。
十分ほどで受付に着き、パンフレットや資料の入った袋を受け取った。
「すぐ入れそうだね」
「事前予約してないから貰うだけだったな」
門をくぐった瞬間、視界が一気に開ける。
広い芝生、背の高い校舎、行き交う学生や案内のスタッフ。
まるで“新しい世界”に足を踏み入れたみたいだった。
「広い……僕、迷子になりそう……」
きょろきょろと視線を彷徨わせながら呟くと、隣で歩いていた明くんが肩を揺らして笑う。
「大丈夫。パンフレット貰ってるから……一緒に行こ」
軽くそう言われるだけで、不思議と安心する。
――一人だったら、圧倒されて立ち尽くしていたかもしれない。
でも今は、隣に明くんがいる。
「蓮翔は行きたい学部紹介どこ?」
「僕は文学部……明くんは?」
「俺は法学部。でも文学部の方が近いし、そっちから行こうか」
明くんが指差した先を追うふりをしながら、僕は横顔ばかり見てしまう。
真剣にパンフレットと会場を照らし合わせる姿は、まるで先輩みたいに頼もしかった。
「ふふ、聞いてる?」
気づかれて、慌てて視線を逸らす。
「き、聞いてる!」
賑やかな芝生で談笑している学生に視線を向けても、心臓は、今ここに一緒にいる明くんの笑みや仕草に全部持っていかれていた。
文学部の学部紹介が行われる講義室に入ると、すでにたくさんの人が席についていた。
人気の学部だから覚悟していたけど、広い講義室のおかげで予約していない僕も無事に座ることができた。
司会役の在学生がプログラムを案内し、教授が文学部で学べる分野やカリキュラムを説明していく。
配布された資料に小さく書き込みをしながら、僕は一言も聞き漏らさないように耳を傾けていた。
やがて専門分野の先生による模擬講義が始まり、最後は質疑応答の時間。
けれど、広い教室で手を挙げる人は少なく、どこか静まり返っていた。
――やっぱり緊張するよね……。
そう思った瞬間、隣で手がすっと挙がる。
明くんだった。
「文学部は分野が多いですが、特に人気の専攻や注目されている授業はありますか?」
真っ直ぐで落ち着いた声が、マイクを通さなくても講義室の奥まで届いていく。
その堂々とした姿に、僕は思わず息を呑んだ。
――すごい……この空気の中で、こんなに自然に質問できるなんて。
前を見据える横顔から視線が外せなかった。
キャップの影が頬に落ちて、僕からしか見えない表情になっている。
ふと、明くんが僕の視線に気づいたのか、横目でちらりと笑みを返す。
その一瞬に、心臓が跳ねて息が止まりそうになる。
――よかった。キャップがあるから、僕にしか見えない。
誰にも明くんの顔を見せたくないって、どうしてだろう……。
胸の奥でひとり、ぎゅっと秘密を抱きしめるような気持ちになった。
講義が終わり、人の波に押されながら講義室を出る。
外の光が差し込んで、少し眩しい。
それでも僕の頭の中は、さっきの明くんの姿でいっぱいだった。
「……質問、すごかったよ」
気づけば口から言葉が零れていた。
隣を歩く明くんが、少しだけ驚いたように僕を見て、それからふっと笑う。
「そんなことないよ」
軽く首を振るけれど、その表情はどこか照れている。
「でも……蓮翔に“すごい”って思ってもらえるなら、質問してよかった」
にやりとした笑みじゃなく、柔らかく、胸の奥にすとんと落ちてくるような笑み。
耳まで熱くなって、思わず足元を見つめる。
――そんなことなんで普通に言えるんだろ
いつもより人の多いキャンパスの雑踏の中で、僕だけに向けられた言葉と笑顔。
それだけで、胸が弾けそうになっていた。
キャンパスの通路を歩きながら、僕はずっとパンフレットを抱きしめるみたいに持っていた。
心臓の高鳴りはまだ収まらないまま、法学部の講義室に着いた。
法学部の講義室は、文学部よりさらに大きくて人も多かった。
ざわざわとした空気の中、僕は椅子に腰を下ろしながら隣の明くんをちらっと盗み見る。
――そんなにみるな!僕!
司会の在学生がプログラムを説明し、教授が登壇すると会場は一気に静まり返った。
――“社会の仕組みを変える可能性がある”
そんな重みのある言葉が、次々と語られていく。
横を見ると、明くんは姿勢を正して、真っ直ぐ前を見ていた。
小さく頷きながら、時々パンフレットにさらりとメモを書き込む。
――すごい。
質問していた時の堂々とした明くんもかっこよかったけど、こうやって真剣に話を聞いている顔は……もっと。
ペンを持つ指先まで、視線が吸い寄せられる。
唇を引き結んでいる横顔も、僕には届かない世界を見ているみたいで。
胸がざわつくのに、目が離せない。
気づいたら、教授の声よりも明くんの呼吸のリズムに耳が傾いていた。
講義室にいるはずなのに、僕の世界には明くんしかいなかった。
講義室を出ると、むっとした夏の熱気が肌にまとわりつく。
冷房の効いた室内から一歩でただけなのに、まるで別の世界に来たみたいだった。
「……暑い」
思わず漏らした声に、明くんが小さく笑う。
「外でちょっと休むか」
広い芝生に腰を下ろすと、地面からも熱が伝わってきたけど、日陰を選んだからか風が心地いい。
隣に座った明くんがペットボトルの水を渡してくれる。
「ありがと……」
喉を潤して、空を仰ぐ。
さっきまでの講義の熱気と、人の多さで胸がまだざわざわしていた。
けど、隣に明くんがいるだけで、不思議と落ち着いていく。
「難しかった?」
不意に問われて、びくっとする。
僕がさっきから何を考えていたか……見透かされている気がして。
「……うん。全部は理解できなかったけど」
膝の上でパンフレットを握りしめ、少し俯きながら続ける。
「でも……明くんが真剣に聞いてるの、すごいなって思った」
言った瞬間、顔が熱くなる。
――また、余計なこと言っちゃった。
けど、明くんは驚くどころか、少し目を細めて笑った。
「俺がすごいんじゃないよ。……蓮翔にそう思われるなら、質問も聞くのも頑張ってよかった」
そのまっすぐな言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
視線を逸らそうとしても、どうしても横顔を見てしまって。
夏の日差しに照らされた笑顔が、眩しくてたまらなかった。
芝生の上で他愛ない話をしていると、近くで学生スタッフが「記念に写真どうですか?」と来場者に声をかけていた。
校舎を背景に笑顔で写る親子や友達の姿が目に入る。
――いいなぁ……。
胸の奥に小さな憧れが芽生えて、気づけば言葉が口をついていた。
「……ね、明くん」
「ん?」
「一緒に……写真撮らない?」
言った瞬間、顔が熱くなる。けれど明くんは少し驚いた後、ふっと目を細めて笑った。
「いいよ。せっかくだしな」
僕は慌ててスマホを取り出す。震える指でカメラを起動するけれど、画面に並んで映る自分と明くんを見た瞬間、緊張で手が止まってしまう。
「撮らないの?」
「と、とる! ……でも、明くんが……撮って」
恥ずかしくてスマホを差し出すと、明くんは「しょうがないな」と笑って受け取った。
「はい、じゃあいくよ」
カメラが向けられた次の瞬間、肩をぐっと抱き寄せられる。
不意打ちに心臓が跳ねた瞬間――カシャ、とシャッター音が響いた。
「よし、撮れた……あれ?蓮翔、カメラ見てないじゃん」
画面を見せられると、そこには驚いた僕が横顔で明くんを見ている姿。
明くんはキャップの下で落ち着いた笑みを浮かべていた。
「きゅ、急に……そういうことするから……!」
胸の奥が熱くなりすぎて、言葉が詰まってしまう。
「はは、次は蓮翔から抱きしめて撮ってよ」
からかうような声にさらに赤面して、両手をバタバタさせてしまう。
でも、もう一度画面を見つめると……妙にソワソワした感覚が残っていた。
「ホーム画面に、してもいいかな……? 受験、頑張れる気がするから」
思わず声に出して、下を向いてしまうと明くんは小さく笑い声を漏らした。
「俺との写真でいいの? ……なら、もっといいの撮ろうか?」
「い、いい! これがいい!」
慌てて否定すると、明くんは楽しそうに目を細めた。
僕はそのまま画面をタップし、ホーム画面に設定する。
スマホに浮かぶのは、笑う明くんと、驚いて横を見ている僕。
「もう帰る?」と明くんに聞かれて、迷ってしまう。まだ一緒にいたいけど、何て言えばいいかわからなかった。
黙り込んでいる僕を見て明くんが声をかけてくれる
「せっかくだし……学食、行ってみる?」
「い、行きたい!」
即答で答える僕を見て明くんはふっと笑って頷き、学食に行く。
学食には広くて、人が多い。
2人でトレーを持って列に並ぶ。
けど、メニューが多くて僕は立ち尽くしてしまう。
「……ど、どうしよう……いっぱいあるね」
「はは、蓮翔らしいな」
明が肩を揺らして笑ってから、軽く指でメニューを差す。
「じゃあ、俺と同じにしよ。ほら、迷わなくて済む」
差し出されたトレーに料理を受け取る。
“同じ”というだけで胸の奥が熱くなる。
食べながら、僕は小声でぽつり。
「……大学生になったら、毎日こうなのかな」
「そうだな。――その時も、蓮翔と一緒だといい」
何気ない一言。
けど、その響きにスプーンを持つ手が止まり、顔が真っ赤になるのを隠せなかった。
学食を出て、校門へ続く並木道を歩く。
夕暮れの光に枝葉の影が落ちて、足元に揺れる。
蝉の声も少し弱くなって、夏の終わりを予感させる空気。
「今日は……ありがと。楽しかった」
「俺も。蓮翔と一緒だと、どこ行ってもいい思い出になる」
明くんがそう笑うだけで、胸がぎゅっと温かくなる。
気づけば歩みが止まって、振り返る。
並木道の奥、茜色に染まった大学の校舎。
その光景を目に焼き付けながら、気づけば言葉が零れていた。
「……絶対、受かるように頑張る」
声に出した瞬間、胸の奥に火が灯るみたいだった。
明くんは一瞬だけ目を細めて、それから真っ直ぐ僕を見て頷く。
「蓮翔なら大丈夫。俺も、応援するから」
その言葉に背中を押されるように、再び歩き出す。
並木道の影が長く伸びて、未来へと続いていくように見えた。
コンクリートの建物が高くそびえて、影を落としてくれるおかげで、夏の朝の強い日差しを避けながら待てていた。
――ちょっと早く着いちゃったな
そう思いながら見上げる。都会的な外観に、いつ来ても背筋が伸びる。
お兄ちゃんが仕事に行くついでに車で送ってくれたから、予定よりだいぶ早く着いてしまったのだ。
胸の奥が、じんじん熱を帯びる。
――夏休みなのに、すごい明くんと会ってる……。
こんなに会えるなんて、思ってなかったな。
「蓮翔」
名前を呼ばれた瞬間、心臓が跳ねた。
振り向くと、マンションの自動ドアを抜けて、キャップを被った明くんが出てくる。
朝の光を受けても涼しい顔をしていて、その姿に目が吸い寄せられる。
「ごめん、待った?」
キャップの影に隠れてよく見えない表情が、隣に立った瞬間に近くで見えて、胸がいっぱいになる。
「全然。……お兄ちゃんが仕事のついでに送ってくれたんだ」
そう答えながら、心の中では別の声が響いていた。
――今日も会えた。それだけで嬉しい。
大学に向かって歩きながら、セミの声がアスファルトに響いていた。
まだ午前中なのに暑い。けど、隣に明くんがいるだけで、不思議と軽やかに歩ける。
「ここから大学って、どれくらい?」
ふと気になって聞く。
「近いよ。マンションからなら歩いてで25分くらいだし、自転車ならすぐだね」
明くんは何でもないように答える。
「……そ、そんなに近いんだ」
思わず立ち止まりそうになった。
――合格したら明くんはこんな風に通うのか。僕もここに通えるようになったら……。
心臓が跳ねるのをごまかすように前を向く。
「蓮翔も受かったら、一緒に通えるな」
明くんはさらりと口にする。
「っ……!」
顔が熱くなるのがわかって、慌ててキャップを深く被る。
「……が、頑張るよ」
「はは、頑張れ。俺は蓮翔と一緒に行きたいな」
その言葉が嬉しくて、喉が詰まりそうになる。
蝉の声も車の音も遠く感じて。
耳の奥には、明くんの声だけが響いていた。
歩いて二十五分ほどで、校舎が視界に入ってきた。
門の前には人の列ができていて、夏の日差しに照らされながらも熱気に包まれている。
「……いっぱい……」
思わず声が漏れる。
「有名なところだからね」
明くんは穏やかに笑い、「並ぼうか」と自然に僕を列の最後尾へ誘導する。
人は多いのに、列はすいすいと進んでいく。
十分ほどで受付に着き、パンフレットや資料の入った袋を受け取った。
「すぐ入れそうだね」
「事前予約してないから貰うだけだったな」
門をくぐった瞬間、視界が一気に開ける。
広い芝生、背の高い校舎、行き交う学生や案内のスタッフ。
まるで“新しい世界”に足を踏み入れたみたいだった。
「広い……僕、迷子になりそう……」
きょろきょろと視線を彷徨わせながら呟くと、隣で歩いていた明くんが肩を揺らして笑う。
「大丈夫。パンフレット貰ってるから……一緒に行こ」
軽くそう言われるだけで、不思議と安心する。
――一人だったら、圧倒されて立ち尽くしていたかもしれない。
でも今は、隣に明くんがいる。
「蓮翔は行きたい学部紹介どこ?」
「僕は文学部……明くんは?」
「俺は法学部。でも文学部の方が近いし、そっちから行こうか」
明くんが指差した先を追うふりをしながら、僕は横顔ばかり見てしまう。
真剣にパンフレットと会場を照らし合わせる姿は、まるで先輩みたいに頼もしかった。
「ふふ、聞いてる?」
気づかれて、慌てて視線を逸らす。
「き、聞いてる!」
賑やかな芝生で談笑している学生に視線を向けても、心臓は、今ここに一緒にいる明くんの笑みや仕草に全部持っていかれていた。
文学部の学部紹介が行われる講義室に入ると、すでにたくさんの人が席についていた。
人気の学部だから覚悟していたけど、広い講義室のおかげで予約していない僕も無事に座ることができた。
司会役の在学生がプログラムを案内し、教授が文学部で学べる分野やカリキュラムを説明していく。
配布された資料に小さく書き込みをしながら、僕は一言も聞き漏らさないように耳を傾けていた。
やがて専門分野の先生による模擬講義が始まり、最後は質疑応答の時間。
けれど、広い教室で手を挙げる人は少なく、どこか静まり返っていた。
――やっぱり緊張するよね……。
そう思った瞬間、隣で手がすっと挙がる。
明くんだった。
「文学部は分野が多いですが、特に人気の専攻や注目されている授業はありますか?」
真っ直ぐで落ち着いた声が、マイクを通さなくても講義室の奥まで届いていく。
その堂々とした姿に、僕は思わず息を呑んだ。
――すごい……この空気の中で、こんなに自然に質問できるなんて。
前を見据える横顔から視線が外せなかった。
キャップの影が頬に落ちて、僕からしか見えない表情になっている。
ふと、明くんが僕の視線に気づいたのか、横目でちらりと笑みを返す。
その一瞬に、心臓が跳ねて息が止まりそうになる。
――よかった。キャップがあるから、僕にしか見えない。
誰にも明くんの顔を見せたくないって、どうしてだろう……。
胸の奥でひとり、ぎゅっと秘密を抱きしめるような気持ちになった。
講義が終わり、人の波に押されながら講義室を出る。
外の光が差し込んで、少し眩しい。
それでも僕の頭の中は、さっきの明くんの姿でいっぱいだった。
「……質問、すごかったよ」
気づけば口から言葉が零れていた。
隣を歩く明くんが、少しだけ驚いたように僕を見て、それからふっと笑う。
「そんなことないよ」
軽く首を振るけれど、その表情はどこか照れている。
「でも……蓮翔に“すごい”って思ってもらえるなら、質問してよかった」
にやりとした笑みじゃなく、柔らかく、胸の奥にすとんと落ちてくるような笑み。
耳まで熱くなって、思わず足元を見つめる。
――そんなことなんで普通に言えるんだろ
いつもより人の多いキャンパスの雑踏の中で、僕だけに向けられた言葉と笑顔。
それだけで、胸が弾けそうになっていた。
キャンパスの通路を歩きながら、僕はずっとパンフレットを抱きしめるみたいに持っていた。
心臓の高鳴りはまだ収まらないまま、法学部の講義室に着いた。
法学部の講義室は、文学部よりさらに大きくて人も多かった。
ざわざわとした空気の中、僕は椅子に腰を下ろしながら隣の明くんをちらっと盗み見る。
――そんなにみるな!僕!
司会の在学生がプログラムを説明し、教授が登壇すると会場は一気に静まり返った。
――“社会の仕組みを変える可能性がある”
そんな重みのある言葉が、次々と語られていく。
横を見ると、明くんは姿勢を正して、真っ直ぐ前を見ていた。
小さく頷きながら、時々パンフレットにさらりとメモを書き込む。
――すごい。
質問していた時の堂々とした明くんもかっこよかったけど、こうやって真剣に話を聞いている顔は……もっと。
ペンを持つ指先まで、視線が吸い寄せられる。
唇を引き結んでいる横顔も、僕には届かない世界を見ているみたいで。
胸がざわつくのに、目が離せない。
気づいたら、教授の声よりも明くんの呼吸のリズムに耳が傾いていた。
講義室にいるはずなのに、僕の世界には明くんしかいなかった。
講義室を出ると、むっとした夏の熱気が肌にまとわりつく。
冷房の効いた室内から一歩でただけなのに、まるで別の世界に来たみたいだった。
「……暑い」
思わず漏らした声に、明くんが小さく笑う。
「外でちょっと休むか」
広い芝生に腰を下ろすと、地面からも熱が伝わってきたけど、日陰を選んだからか風が心地いい。
隣に座った明くんがペットボトルの水を渡してくれる。
「ありがと……」
喉を潤して、空を仰ぐ。
さっきまでの講義の熱気と、人の多さで胸がまだざわざわしていた。
けど、隣に明くんがいるだけで、不思議と落ち着いていく。
「難しかった?」
不意に問われて、びくっとする。
僕がさっきから何を考えていたか……見透かされている気がして。
「……うん。全部は理解できなかったけど」
膝の上でパンフレットを握りしめ、少し俯きながら続ける。
「でも……明くんが真剣に聞いてるの、すごいなって思った」
言った瞬間、顔が熱くなる。
――また、余計なこと言っちゃった。
けど、明くんは驚くどころか、少し目を細めて笑った。
「俺がすごいんじゃないよ。……蓮翔にそう思われるなら、質問も聞くのも頑張ってよかった」
そのまっすぐな言葉に、胸がぎゅっと締めつけられる。
視線を逸らそうとしても、どうしても横顔を見てしまって。
夏の日差しに照らされた笑顔が、眩しくてたまらなかった。
芝生の上で他愛ない話をしていると、近くで学生スタッフが「記念に写真どうですか?」と来場者に声をかけていた。
校舎を背景に笑顔で写る親子や友達の姿が目に入る。
――いいなぁ……。
胸の奥に小さな憧れが芽生えて、気づけば言葉が口をついていた。
「……ね、明くん」
「ん?」
「一緒に……写真撮らない?」
言った瞬間、顔が熱くなる。けれど明くんは少し驚いた後、ふっと目を細めて笑った。
「いいよ。せっかくだしな」
僕は慌ててスマホを取り出す。震える指でカメラを起動するけれど、画面に並んで映る自分と明くんを見た瞬間、緊張で手が止まってしまう。
「撮らないの?」
「と、とる! ……でも、明くんが……撮って」
恥ずかしくてスマホを差し出すと、明くんは「しょうがないな」と笑って受け取った。
「はい、じゃあいくよ」
カメラが向けられた次の瞬間、肩をぐっと抱き寄せられる。
不意打ちに心臓が跳ねた瞬間――カシャ、とシャッター音が響いた。
「よし、撮れた……あれ?蓮翔、カメラ見てないじゃん」
画面を見せられると、そこには驚いた僕が横顔で明くんを見ている姿。
明くんはキャップの下で落ち着いた笑みを浮かべていた。
「きゅ、急に……そういうことするから……!」
胸の奥が熱くなりすぎて、言葉が詰まってしまう。
「はは、次は蓮翔から抱きしめて撮ってよ」
からかうような声にさらに赤面して、両手をバタバタさせてしまう。
でも、もう一度画面を見つめると……妙にソワソワした感覚が残っていた。
「ホーム画面に、してもいいかな……? 受験、頑張れる気がするから」
思わず声に出して、下を向いてしまうと明くんは小さく笑い声を漏らした。
「俺との写真でいいの? ……なら、もっといいの撮ろうか?」
「い、いい! これがいい!」
慌てて否定すると、明くんは楽しそうに目を細めた。
僕はそのまま画面をタップし、ホーム画面に設定する。
スマホに浮かぶのは、笑う明くんと、驚いて横を見ている僕。
「もう帰る?」と明くんに聞かれて、迷ってしまう。まだ一緒にいたいけど、何て言えばいいかわからなかった。
黙り込んでいる僕を見て明くんが声をかけてくれる
「せっかくだし……学食、行ってみる?」
「い、行きたい!」
即答で答える僕を見て明くんはふっと笑って頷き、学食に行く。
学食には広くて、人が多い。
2人でトレーを持って列に並ぶ。
けど、メニューが多くて僕は立ち尽くしてしまう。
「……ど、どうしよう……いっぱいあるね」
「はは、蓮翔らしいな」
明が肩を揺らして笑ってから、軽く指でメニューを差す。
「じゃあ、俺と同じにしよ。ほら、迷わなくて済む」
差し出されたトレーに料理を受け取る。
“同じ”というだけで胸の奥が熱くなる。
食べながら、僕は小声でぽつり。
「……大学生になったら、毎日こうなのかな」
「そうだな。――その時も、蓮翔と一緒だといい」
何気ない一言。
けど、その響きにスプーンを持つ手が止まり、顔が真っ赤になるのを隠せなかった。
学食を出て、校門へ続く並木道を歩く。
夕暮れの光に枝葉の影が落ちて、足元に揺れる。
蝉の声も少し弱くなって、夏の終わりを予感させる空気。
「今日は……ありがと。楽しかった」
「俺も。蓮翔と一緒だと、どこ行ってもいい思い出になる」
明くんがそう笑うだけで、胸がぎゅっと温かくなる。
気づけば歩みが止まって、振り返る。
並木道の奥、茜色に染まった大学の校舎。
その光景を目に焼き付けながら、気づけば言葉が零れていた。
「……絶対、受かるように頑張る」
声に出した瞬間、胸の奥に火が灯るみたいだった。
明くんは一瞬だけ目を細めて、それから真っ直ぐ僕を見て頷く。
「蓮翔なら大丈夫。俺も、応援するから」
その言葉に背中を押されるように、再び歩き出す。
並木道の影が長く伸びて、未来へと続いていくように見えた。
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