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第六話「薬師の記憶」
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宮廷の裏手にある医務塔へと、僕は足を向けていた。
回廊を抜け、政庁の重々しい雰囲気を離れるにつれ、空気がわずかに変わる。薬草の乾いた香りが風に乗って鼻をかすめ、足元の石畳にはどこか湿り気を帯びた影が差している。
──ここだけが、別の世界のようだった。
王宮のなかで唯一、外部の薬師が出入りを許される区域。
侍女や侍従、や官吏の監視はあるが、それでも、ほかのどこよりも“自由”の気配がある。
そんな場所に、僕はいま、足を運んでいる。
理由は簡単だ。自らの体調を理由にすれば、王太子の許可を得ずともこの場に入ることができる。
──そして、僕には確かめたいことがあった。
「ねえ、聞いた?あの璃晏の女、自分の研究室もらったのですって」
ふと、回廊の向こう側から、女官たちの小さな声が聞こえた。軽やかだが、どこか陰のある調子。
「赤い瞳の……?」
「……そう。なんだか、こわくない? あんな異国の女、何考えてるかわからないもの」
赤い瞳──その言葉に、僕の足が止まる。
視界が揺れた。いや、心のなかの記憶が、何かに触れて震えた。
──赤い、瞳。
それは、“前の人生”の、最後の夜に見た光だった。
冷たい床に倒れ伏していたとき、誰の手も届かないと思っていたあの絶望の只中に──そっと置かれた器。
香の立つ、温かな薬湯。
見上げた視界の端に、確かに映っていたのだ。
赤く、深く、どこか憂いを宿した、異国の瞳が。
言葉は交わさなかった。
名前も、声も、知らなかった。
けれど、その眼差しだけは、胸の奥に焼きついていた。
(……まさか)
心臓が跳ねる。
ありえないと、思考は否定しながらも、感情の奥底で確信に似た熱が立ちのぼっていた。
僕は、そのまま足を進めた。
医務塔の門は、静かに開かれていた。
衛兵の視線を受け流し、僕は堂内へと歩みを進める。
壁際の棚に並ぶのは、瓶詰めの薬草と器具。木製の長机には硝子の器と乳鉢、紙に記された処方箋の断片が置かれている。
そして──奥の部屋。わずかに開いた戸の隙間から、ひとりの女が出てきた。
すっとした細身の体。
柔らかな黒衣に身を包み、顔の半分は帳のように垂れた髪で隠れていた。
けれど、視線が交差した。
目が合った。
その瞬間、胸に刺すような衝撃が走る。
深紅の瞳。
あの夜に見た光。
まるで血のように鮮やかで、けれど静謐な──あの瞳。
彼女も、わずかに目を見開いた。
けれど何も言わず、ふいに視線を逸らし、扉の向こうへと姿を消す。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
何も、確かめられていない。
けれど──確かに思った。
あれは、あのときの人だ。
僕を見た瞳と同じだ。
死の淵にある僕を、ただ見ていた他人の眼差し。
優しさではなかった。憐れみでもなかった。
ただ──目を逸らさずに、そこに“居た”。
(おそらく……彼女だ)
もし、あの瞳が“あの夜”と同じであるなら。
僕は、いまこそ──その人に、手を伸ばすべきなのだ。
復讐のために。
そして、生き残るために。
※
夜、屋敷へ戻った僕は、筆を取った。
蝋燭の灯りが揺れている。
冷たい風が、書斎の隙間から吹き込んで、窓硝子を震わせていた。
書きたいことは、山ほどあった。
けれど、それを言葉にするには、心も、時も、足りていなかった。
それに、僕にはまだ──情報が、あまりにも少なすぎる。
──明日、ひとときだけお時間を頂けませんか。
震える指先で、封蝋を押す。
名前は記さない。
でも、この手紙にある封蝋で僕が誰で、なにを意図しているかは、彼女なら分かるだろう。
……そう思いたかった。
ただの紙片。
けれど、それが──
この手で握った“何か”の始まりになる気がしていた。
そして、僕はようやく、自分の中に芽生えた“希望”に気づいた。
それがどんな終わりを迎えるのか、知る由もなかったとしても。
回廊を抜け、政庁の重々しい雰囲気を離れるにつれ、空気がわずかに変わる。薬草の乾いた香りが風に乗って鼻をかすめ、足元の石畳にはどこか湿り気を帯びた影が差している。
──ここだけが、別の世界のようだった。
王宮のなかで唯一、外部の薬師が出入りを許される区域。
侍女や侍従、や官吏の監視はあるが、それでも、ほかのどこよりも“自由”の気配がある。
そんな場所に、僕はいま、足を運んでいる。
理由は簡単だ。自らの体調を理由にすれば、王太子の許可を得ずともこの場に入ることができる。
──そして、僕には確かめたいことがあった。
「ねえ、聞いた?あの璃晏の女、自分の研究室もらったのですって」
ふと、回廊の向こう側から、女官たちの小さな声が聞こえた。軽やかだが、どこか陰のある調子。
「赤い瞳の……?」
「……そう。なんだか、こわくない? あんな異国の女、何考えてるかわからないもの」
赤い瞳──その言葉に、僕の足が止まる。
視界が揺れた。いや、心のなかの記憶が、何かに触れて震えた。
──赤い、瞳。
それは、“前の人生”の、最後の夜に見た光だった。
冷たい床に倒れ伏していたとき、誰の手も届かないと思っていたあの絶望の只中に──そっと置かれた器。
香の立つ、温かな薬湯。
見上げた視界の端に、確かに映っていたのだ。
赤く、深く、どこか憂いを宿した、異国の瞳が。
言葉は交わさなかった。
名前も、声も、知らなかった。
けれど、その眼差しだけは、胸の奥に焼きついていた。
(……まさか)
心臓が跳ねる。
ありえないと、思考は否定しながらも、感情の奥底で確信に似た熱が立ちのぼっていた。
僕は、そのまま足を進めた。
医務塔の門は、静かに開かれていた。
衛兵の視線を受け流し、僕は堂内へと歩みを進める。
壁際の棚に並ぶのは、瓶詰めの薬草と器具。木製の長机には硝子の器と乳鉢、紙に記された処方箋の断片が置かれている。
そして──奥の部屋。わずかに開いた戸の隙間から、ひとりの女が出てきた。
すっとした細身の体。
柔らかな黒衣に身を包み、顔の半分は帳のように垂れた髪で隠れていた。
けれど、視線が交差した。
目が合った。
その瞬間、胸に刺すような衝撃が走る。
深紅の瞳。
あの夜に見た光。
まるで血のように鮮やかで、けれど静謐な──あの瞳。
彼女も、わずかに目を見開いた。
けれど何も言わず、ふいに視線を逸らし、扉の向こうへと姿を消す。
扉が閉まる音が、やけに大きく聞こえた。
何も、確かめられていない。
けれど──確かに思った。
あれは、あのときの人だ。
僕を見た瞳と同じだ。
死の淵にある僕を、ただ見ていた他人の眼差し。
優しさではなかった。憐れみでもなかった。
ただ──目を逸らさずに、そこに“居た”。
(おそらく……彼女だ)
もし、あの瞳が“あの夜”と同じであるなら。
僕は、いまこそ──その人に、手を伸ばすべきなのだ。
復讐のために。
そして、生き残るために。
※
夜、屋敷へ戻った僕は、筆を取った。
蝋燭の灯りが揺れている。
冷たい風が、書斎の隙間から吹き込んで、窓硝子を震わせていた。
書きたいことは、山ほどあった。
けれど、それを言葉にするには、心も、時も、足りていなかった。
それに、僕にはまだ──情報が、あまりにも少なすぎる。
──明日、ひとときだけお時間を頂けませんか。
震える指先で、封蝋を押す。
名前は記さない。
でも、この手紙にある封蝋で僕が誰で、なにを意図しているかは、彼女なら分かるだろう。
……そう思いたかった。
ただの紙片。
けれど、それが──
この手で握った“何か”の始まりになる気がしていた。
そして、僕はようやく、自分の中に芽生えた“希望”に気づいた。
それがどんな終わりを迎えるのか、知る由もなかったとしても。
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