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第七話「父の本心」
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朝靄のまだ残る中庭を渡り、僕は父の執務室へと向かった。
秋の気配がわずかに差し込むこの時間、邸の空気はいつもよりひんやりとしていて、床石の上を歩く音さえ吸い込まれていくようだった。けれど、僕の中には決して冷えきらないものがあった。
──決意。
それはまだか細く、手のひらで包まなければ風に消えてしまいそうなほどだったが、それでも確かに、今の僕を動かしていた。
扉を叩くと、中から返ってきたのは父の静かな声だった。
「入りなさい」
慎重に扉を開けると、父──ジークムント・アルヴァ=クロイツ侯は、書類の山に囲まれていた。
齢五十を過ぎてもなお背筋は真っ直ぐで、銀混じりの髪もきちんと撫でつけられている。
彼の瞳は、僕と同じ青。けれど僕よりずっと冷たく、澄んでいた。言葉にせずとも、心の奥を見抜かれるような──そんな眼差し。
「珍しいな。朝からおまえがここに来るとは」
「……ご相談したいことがありまして」
そう言って、深く頭を下げる。
この家に生まれてから幾度も繰り返してきた所作だったが、今の僕にとって、それは“演技”以上の意味を持っていた。
父はしばらく僕を見つめたのち、椅子を勧めた。
「聞こう。内容によっては断る」
「……はい。あの……本日の登城、僕も同行させていただけませんか」
父の手が、ほんのわずかに止まった。
視線が書面から外れ、僕を正面から捉える。
「理由は?」
「王宮での作法や空気を、もう少し覚えておきたいのです。……正式に嫁ぐ前に、王宮の構造や慣習にも、馴染んでおきたいと」
「……」
父は、すぐには答えなかった。
代わりに手元の羽ペンを置き、指先を軽く組む。
ああ、思案している。これは、父が“本心で悩んでいる”ときの癖だ。
「セラ。おまえは……あの方が、どんな人物か、どこまで知っている?」
父の声は、いつになく低く落ち着いていた。
質問は漠然としていたが、すぐに何を問われているかは察せた。
「殿下のこと、ですか?」
「そうだ。表の顔ではなく……内の顔を」
内の顔。
その言葉に、胸の奥が鈍く痛む。
……それでも僕は、顔を上げた。
「……おそらくは、殿下が“気難しい方”であることは存じております」
「気難しい、か」
父が、皮肉のように微かに笑んだ。
「……あの方は、王位を欲しておられる。強く、深く、時に歪なほどに。民や国のためというより、“自身のため”にな。そういう人物だ……幼い頃から見ていたから分かる」
「……」
「私は、できることならおまえをあそこへ送りたくはなかった。だが……拒めば家ごと消されかねぬ時勢だった。おまえの才と容姿が、あの方の目に留まったことが、幸か不幸か……」
そこまで言いかけて、父はふっと息を吐いた。
「私は“政治”を生きる者だ。感情では動けん」
「……はい。承知しています」
「だが、それでも……私は“父”でもあるのだよ、セラ」
言葉が、喉の奥に詰まった。
かつての僕が、一度も聞いたことのない声音だった。
──僕は、父に愛されていたのだろうか?
それとも、巻き戻ったこの時間で、父の心が変わったのか。
いや。
そうではない。
きっと以前から、この人は僕を“守ろう”としていた。
それに気づかなかったのは……、僕のほうだった。
「……僕は、行きたいのです。父上」
気づけば、そう告げていた。
「殿下に対して、僕がどう振る舞うべきか。それを今のうちに、自分の目で、肌で……確かめておきたい。失礼のないように」
「……理由としては、通る」
父は短く言って、椅子の背にもたれた。
「同行を許す。ただし、深入りするな。……どんな些細なことでもいい、異変があればすぐ私に報せるのだ」
「……ありがとうございます。父上」
ほんのわずか、父の顔に柔らかな影が差した。
「セヴァンが、おまえを支えてくれるだろう」
「……はい」
「セヴァンは……私の親友の、唯一の遺児だ。……あの戦火がすべてを奪っていった」
懐かしむように目を伏せる父の横顔に、僕は静かに息を呑んだ。
「だが今、こうして彼は“騎士”としてここにいる。おまえが……いや、“この家”が、無事でいられるよう、必ず力になってくれるはずだ」
父の声に、どこか安堵の響きがあった。
それが、セヴァンという存在への信頼なのか。
それとも、“息子を託すしかない”という不安の裏返しなのか。
今の僕には、まだ判断できなかった。
「セラ。あの方には、くれぐれも気をつけなさい」
「はい。……ありがとうございます」
その言葉に、深く頭を下げた。
それは“前の僕”が聞けなかった父の言葉。
(いや、前の僕ならば……父の言葉を聞いてもアリスタンに近づいたのだろうな……)
自分の愚行に苦笑が漏れる。
朝陽が差し込む窓の向こうに、王宮の尖塔が霞んで見えていた。
秋の気配がわずかに差し込むこの時間、邸の空気はいつもよりひんやりとしていて、床石の上を歩く音さえ吸い込まれていくようだった。けれど、僕の中には決して冷えきらないものがあった。
──決意。
それはまだか細く、手のひらで包まなければ風に消えてしまいそうなほどだったが、それでも確かに、今の僕を動かしていた。
扉を叩くと、中から返ってきたのは父の静かな声だった。
「入りなさい」
慎重に扉を開けると、父──ジークムント・アルヴァ=クロイツ侯は、書類の山に囲まれていた。
齢五十を過ぎてもなお背筋は真っ直ぐで、銀混じりの髪もきちんと撫でつけられている。
彼の瞳は、僕と同じ青。けれど僕よりずっと冷たく、澄んでいた。言葉にせずとも、心の奥を見抜かれるような──そんな眼差し。
「珍しいな。朝からおまえがここに来るとは」
「……ご相談したいことがありまして」
そう言って、深く頭を下げる。
この家に生まれてから幾度も繰り返してきた所作だったが、今の僕にとって、それは“演技”以上の意味を持っていた。
父はしばらく僕を見つめたのち、椅子を勧めた。
「聞こう。内容によっては断る」
「……はい。あの……本日の登城、僕も同行させていただけませんか」
父の手が、ほんのわずかに止まった。
視線が書面から外れ、僕を正面から捉える。
「理由は?」
「王宮での作法や空気を、もう少し覚えておきたいのです。……正式に嫁ぐ前に、王宮の構造や慣習にも、馴染んでおきたいと」
「……」
父は、すぐには答えなかった。
代わりに手元の羽ペンを置き、指先を軽く組む。
ああ、思案している。これは、父が“本心で悩んでいる”ときの癖だ。
「セラ。おまえは……あの方が、どんな人物か、どこまで知っている?」
父の声は、いつになく低く落ち着いていた。
質問は漠然としていたが、すぐに何を問われているかは察せた。
「殿下のこと、ですか?」
「そうだ。表の顔ではなく……内の顔を」
内の顔。
その言葉に、胸の奥が鈍く痛む。
……それでも僕は、顔を上げた。
「……おそらくは、殿下が“気難しい方”であることは存じております」
「気難しい、か」
父が、皮肉のように微かに笑んだ。
「……あの方は、王位を欲しておられる。強く、深く、時に歪なほどに。民や国のためというより、“自身のため”にな。そういう人物だ……幼い頃から見ていたから分かる」
「……」
「私は、できることならおまえをあそこへ送りたくはなかった。だが……拒めば家ごと消されかねぬ時勢だった。おまえの才と容姿が、あの方の目に留まったことが、幸か不幸か……」
そこまで言いかけて、父はふっと息を吐いた。
「私は“政治”を生きる者だ。感情では動けん」
「……はい。承知しています」
「だが、それでも……私は“父”でもあるのだよ、セラ」
言葉が、喉の奥に詰まった。
かつての僕が、一度も聞いたことのない声音だった。
──僕は、父に愛されていたのだろうか?
それとも、巻き戻ったこの時間で、父の心が変わったのか。
いや。
そうではない。
きっと以前から、この人は僕を“守ろう”としていた。
それに気づかなかったのは……、僕のほうだった。
「……僕は、行きたいのです。父上」
気づけば、そう告げていた。
「殿下に対して、僕がどう振る舞うべきか。それを今のうちに、自分の目で、肌で……確かめておきたい。失礼のないように」
「……理由としては、通る」
父は短く言って、椅子の背にもたれた。
「同行を許す。ただし、深入りするな。……どんな些細なことでもいい、異変があればすぐ私に報せるのだ」
「……ありがとうございます。父上」
ほんのわずか、父の顔に柔らかな影が差した。
「セヴァンが、おまえを支えてくれるだろう」
「……はい」
「セヴァンは……私の親友の、唯一の遺児だ。……あの戦火がすべてを奪っていった」
懐かしむように目を伏せる父の横顔に、僕は静かに息を呑んだ。
「だが今、こうして彼は“騎士”としてここにいる。おまえが……いや、“この家”が、無事でいられるよう、必ず力になってくれるはずだ」
父の声に、どこか安堵の響きがあった。
それが、セヴァンという存在への信頼なのか。
それとも、“息子を託すしかない”という不安の裏返しなのか。
今の僕には、まだ判断できなかった。
「セラ。あの方には、くれぐれも気をつけなさい」
「はい。……ありがとうございます」
その言葉に、深く頭を下げた。
それは“前の僕”が聞けなかった父の言葉。
(いや、前の僕ならば……父の言葉を聞いてもアリスタンに近づいたのだろうな……)
自分の愚行に苦笑が漏れる。
朝陽が差し込む窓の向こうに、王宮の尖塔が霞んで見えていた。
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