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第九話「再会の密約・後編」
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「クレイア様、ね……」
それだけを、静かに僕は吐き出す。
ランの瞳には、曇りがあった。義務でも誇りでもなく、ただ、どうしようもない現実として。
僕の中で、いくつかの点がつながっていく。
クレイアの影。薬の匂い。毒に似た気配。妹。
そして、命令された通りに毒を調合していた彼女の指先。
(……自分のために動いているわけではない。妹は……人質か)
それだけは、もう確信できた。
──なら、次は“交渉”だ。
「……僕にそれを盛るよう、命令があったんだろう」
もう一歩だけ、彼女に近づく。
触れられるほどの距離には踏み込まない。ただ、拒絶の余地を狭めるために。
「君の妹が仕えている方から……でも君は、その命令に従うだけの人間じゃないと、僕は思ってる」
その目を、まっすぐに見つめた。
「“前に進むための選択肢”が、君にはないのかもしれない。だからこそ、僕は──提案をしに来た」
彼女の肩が、ほんのわずかにこわばった。
視線が揺れたまま、定まらない。
それは、自分の立場を守るためではなく、“信じること”を怖れている目だった。
「……君の妹を、解放する手段があるとしたら」
言葉に迷いはなかった。
そのひとつひとつが、交渉の駒であり、同時に──差し出される救いでもある。
「彼女を、君のもとに戻せるとしたら──君はどうする?」
ランの瞳に、はじめて“反応”が宿る。
それは警戒ではなく、希望のような、あるいは焦がれるような色だった。
僕は、視線を外さずに続けた。
「もちろん、保証はできない。でも恐らく、可能だろう。僕はそれなりの立場にいる」
それは、ただの現実だ。
クレイアの身分は確かに低くはない。
実家も貴族家であり、現在の立場から王宮内で動かせる人間もそれなりにいるだろう。
しかし、僕の身分も決して疎かにされるようなものではないのだ。
現宰相の息子であり正当な婚約者。
しかも、政治的な配慮があるとはいえ王太子が望んだ伴侶。
(僕が死ぬまで、クレイアの立場は変わらなかった。アリスタンは彼女を妃に取り上げる気は少ないのかもしれないな……)
『……君は、賢い人だ。だからこそ──自分と妹にとって、どちらが“長く立っていられる側”か……分かると思う』
僕が彼女に故郷の言葉でそう言うと、ほんの一瞬──唇が震えた。
けれど、その場で言葉にされることはなかった。
彼女は、何かを呑み込んだまま、目を伏せた。
それで、いい。
今すぐ返事をもらう必要はない。
「……僕は、君を責めない」
囁くように言う。
これは許しではない。ただ、手を差し出すという意思の表明だ。
「だけど、今のままでは君も、君の妹も……これ以上は言わないよ」
沈黙が落ちる。
重く、けれどどこか、柔らかい余韻のある静けさ。
それは、何かが“揺らいだ”あとの空気だった。
僕はそっと、胸元から折りたたんだ紙片を取り出す。
何も書いていない、ただの紙切れ。
「君の心が決まったなら、これをセヴァン・アルヴァ=クロイツに渡して欲しい。怪しまれないように手筈は整えておくよ」
彼女は、黙って受け取る。
目は伏せられたままだったが、指先は震えていなかった。
それだけで、十分だった。
さあ、必要な種は、蒔いた。
彼女が何を選ぶのかは、まだ分からない。
彼女から見れば僕とクレイアに大きな差はないだろう。
ただ、手元に妹がいるのといないのと、そこが一つの焦点にはなる。
僕はランに一つ微笑みかけて、踵を返す。
扉を抜け、微かに風の流れた回廊に背を向けて、僕は次の一手を静かに考えた。
……ここに蒔いた種が、実を結ぶかどうかはまだ分からない。
けれど、動き出さねば“何も変わらない”ことだけは、知っている。
それだけを、静かに僕は吐き出す。
ランの瞳には、曇りがあった。義務でも誇りでもなく、ただ、どうしようもない現実として。
僕の中で、いくつかの点がつながっていく。
クレイアの影。薬の匂い。毒に似た気配。妹。
そして、命令された通りに毒を調合していた彼女の指先。
(……自分のために動いているわけではない。妹は……人質か)
それだけは、もう確信できた。
──なら、次は“交渉”だ。
「……僕にそれを盛るよう、命令があったんだろう」
もう一歩だけ、彼女に近づく。
触れられるほどの距離には踏み込まない。ただ、拒絶の余地を狭めるために。
「君の妹が仕えている方から……でも君は、その命令に従うだけの人間じゃないと、僕は思ってる」
その目を、まっすぐに見つめた。
「“前に進むための選択肢”が、君にはないのかもしれない。だからこそ、僕は──提案をしに来た」
彼女の肩が、ほんのわずかにこわばった。
視線が揺れたまま、定まらない。
それは、自分の立場を守るためではなく、“信じること”を怖れている目だった。
「……君の妹を、解放する手段があるとしたら」
言葉に迷いはなかった。
そのひとつひとつが、交渉の駒であり、同時に──差し出される救いでもある。
「彼女を、君のもとに戻せるとしたら──君はどうする?」
ランの瞳に、はじめて“反応”が宿る。
それは警戒ではなく、希望のような、あるいは焦がれるような色だった。
僕は、視線を外さずに続けた。
「もちろん、保証はできない。でも恐らく、可能だろう。僕はそれなりの立場にいる」
それは、ただの現実だ。
クレイアの身分は確かに低くはない。
実家も貴族家であり、現在の立場から王宮内で動かせる人間もそれなりにいるだろう。
しかし、僕の身分も決して疎かにされるようなものではないのだ。
現宰相の息子であり正当な婚約者。
しかも、政治的な配慮があるとはいえ王太子が望んだ伴侶。
(僕が死ぬまで、クレイアの立場は変わらなかった。アリスタンは彼女を妃に取り上げる気は少ないのかもしれないな……)
『……君は、賢い人だ。だからこそ──自分と妹にとって、どちらが“長く立っていられる側”か……分かると思う』
僕が彼女に故郷の言葉でそう言うと、ほんの一瞬──唇が震えた。
けれど、その場で言葉にされることはなかった。
彼女は、何かを呑み込んだまま、目を伏せた。
それで、いい。
今すぐ返事をもらう必要はない。
「……僕は、君を責めない」
囁くように言う。
これは許しではない。ただ、手を差し出すという意思の表明だ。
「だけど、今のままでは君も、君の妹も……これ以上は言わないよ」
沈黙が落ちる。
重く、けれどどこか、柔らかい余韻のある静けさ。
それは、何かが“揺らいだ”あとの空気だった。
僕はそっと、胸元から折りたたんだ紙片を取り出す。
何も書いていない、ただの紙切れ。
「君の心が決まったなら、これをセヴァン・アルヴァ=クロイツに渡して欲しい。怪しまれないように手筈は整えておくよ」
彼女は、黙って受け取る。
目は伏せられたままだったが、指先は震えていなかった。
それだけで、十分だった。
さあ、必要な種は、蒔いた。
彼女が何を選ぶのかは、まだ分からない。
彼女から見れば僕とクレイアに大きな差はないだろう。
ただ、手元に妹がいるのといないのと、そこが一つの焦点にはなる。
僕はランに一つ微笑みかけて、踵を返す。
扉を抜け、微かに風の流れた回廊に背を向けて、僕は次の一手を静かに考えた。
……ここに蒔いた種が、実を結ぶかどうかはまだ分からない。
けれど、動き出さねば“何も変わらない”ことだけは、知っている。
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