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第十ニ話「小さな勝利」
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白い石壁に背を預けたまま、僕は深くひとつ、息を吐いた。
喉の奥にまだ、あの唇の気配が残っている。
皮膚が思い出す。濡れた視線と、強すぎない手のひらと、けれど逃れられぬ意志の力と。
──気持ち悪い。
もう一度、心の奥で繰り返す。声には出さない。けれど、その感覚は確かに僕の内側に染みついていた。
(でも、これで)
王宮への出入りは、手に入れた。
まずは王太子へ取り入った成果ではあるが──父の名を使わず、自分の言葉だけで。
それは小さな勝利だった。
そして、間違いなく「自分の意思」で掴んだ、最初の鍵でもある。
僕は壁から背を離し、回廊を歩き出す。
王太子の執務室から東へ、礼拝堂へと向かう庭園のあたりは、まだ昼の気配を残して静かだった。だが、廊下の向こうには幾人か、控えの者たちの気配があった。
──クレイアが選び、配している者たち。
彼女は慎重で、用心深い。表立って命令を下すことはないが、誰が彼女の意向で動いているかは、わずかな仕草、視線、言葉の節々に滲み出る。
この宮廷で“本当に信じられる者”など、ひとりとしていない。
だからこそ、クレイアもまた、己の領域を築くために──“忠誠ではなく、損得で人を縛っている”。
(……さて)
僕は歩を緩め、踊り場のひとつで立ち止まる。
視界の先に、庭園へ続く道を掃いていた下女が、僕の姿に気づいて手を止める。その背後には、控えの兵が一人。剣に手はかけていないが、立ち位置は“迎撃”に近かった。
(あれも、クレイアの手の者かな)
浅く笑う。
この世界では、剣を持たぬ者ほど──研ぎ澄まされた意志を持たねば、生き残れない。
「ねえ、君。璃晏から来ている姉妹のうち、妹の方に会いたい。できればこちらに……連れてきてくれるかな」
先に控えていた侍女にそう告げる。
彼女はわずかに表情を揺らしたが、即座に会釈をし、指示を受けた。
あの姉妹の監督役が誰か──わかりきったことだ。
この言葉が、届くのはまずクレイアだろう。
そして妹より先に現れるのも、十中八九クレイアだ。
回廊の窓から差し込む光が、壁に静かな模様を描いている。
ほんの数分の沈黙が流れたあと──
「セラ様。ご機嫌よう」
(ほら、来た)
僕は仮面の内側で、ひそかに笑う。
静かに、けれど気配を張ったまま現れたのは、予想通りクレイア。
整った髪も、装いも、その声の温度さえも、完璧に制御されている。だが──目だけが違う。
「まあまあ、セラ様。先ほど聞きましたわ。こういったご用件は……私を通していただきませんと」
しなやかな物腰、丁寧な口調。
だがその奥には、わずかに針を含んだ苛立ちと、警戒の色が見え隠れしていた。
僕はわざと、少しだけ肩を竦めてみせる。
「これは、クレイア様。ですがその件については、王太子殿下より“好きにして良い”とのお言葉をいただいておりますので」
──瞬きが止まる。
「……え」
小さな声が、ほとんど喉から漏れるように、クレイアの唇からこぼれる。
その目に初めて、計算ではない動揺が宿った。
喉の奥にまだ、あの唇の気配が残っている。
皮膚が思い出す。濡れた視線と、強すぎない手のひらと、けれど逃れられぬ意志の力と。
──気持ち悪い。
もう一度、心の奥で繰り返す。声には出さない。けれど、その感覚は確かに僕の内側に染みついていた。
(でも、これで)
王宮への出入りは、手に入れた。
まずは王太子へ取り入った成果ではあるが──父の名を使わず、自分の言葉だけで。
それは小さな勝利だった。
そして、間違いなく「自分の意思」で掴んだ、最初の鍵でもある。
僕は壁から背を離し、回廊を歩き出す。
王太子の執務室から東へ、礼拝堂へと向かう庭園のあたりは、まだ昼の気配を残して静かだった。だが、廊下の向こうには幾人か、控えの者たちの気配があった。
──クレイアが選び、配している者たち。
彼女は慎重で、用心深い。表立って命令を下すことはないが、誰が彼女の意向で動いているかは、わずかな仕草、視線、言葉の節々に滲み出る。
この宮廷で“本当に信じられる者”など、ひとりとしていない。
だからこそ、クレイアもまた、己の領域を築くために──“忠誠ではなく、損得で人を縛っている”。
(……さて)
僕は歩を緩め、踊り場のひとつで立ち止まる。
視界の先に、庭園へ続く道を掃いていた下女が、僕の姿に気づいて手を止める。その背後には、控えの兵が一人。剣に手はかけていないが、立ち位置は“迎撃”に近かった。
(あれも、クレイアの手の者かな)
浅く笑う。
この世界では、剣を持たぬ者ほど──研ぎ澄まされた意志を持たねば、生き残れない。
「ねえ、君。璃晏から来ている姉妹のうち、妹の方に会いたい。できればこちらに……連れてきてくれるかな」
先に控えていた侍女にそう告げる。
彼女はわずかに表情を揺らしたが、即座に会釈をし、指示を受けた。
あの姉妹の監督役が誰か──わかりきったことだ。
この言葉が、届くのはまずクレイアだろう。
そして妹より先に現れるのも、十中八九クレイアだ。
回廊の窓から差し込む光が、壁に静かな模様を描いている。
ほんの数分の沈黙が流れたあと──
「セラ様。ご機嫌よう」
(ほら、来た)
僕は仮面の内側で、ひそかに笑う。
静かに、けれど気配を張ったまま現れたのは、予想通りクレイア。
整った髪も、装いも、その声の温度さえも、完璧に制御されている。だが──目だけが違う。
「まあまあ、セラ様。先ほど聞きましたわ。こういったご用件は……私を通していただきませんと」
しなやかな物腰、丁寧な口調。
だがその奥には、わずかに針を含んだ苛立ちと、警戒の色が見え隠れしていた。
僕はわざと、少しだけ肩を竦めてみせる。
「これは、クレイア様。ですがその件については、王太子殿下より“好きにして良い”とのお言葉をいただいておりますので」
──瞬きが止まる。
「……え」
小さな声が、ほとんど喉から漏れるように、クレイアの唇からこぼれる。
その目に初めて、計算ではない動揺が宿った。
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