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第十七話「誰が為の毒」
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ランの部屋を出たあと、僕はしばらく、王宮の廊下に立ち尽くしていた。
石造りの壁に寄りかかるわけでもなく、足音を立てるでもなく──ただ、そこにいた。
磨かれた床はやわらかな陽を跳ね返し、細い窓の向こうには、よく手入れされた中庭が広がっている。
だがその穏やかさは、僕の胸の奥に居座るざらついた感覚を、何ひとつ和らげはしなかった。
(……誰に使われたのかは、分かりません)
あの時、ランがそう答えたときの顔──目の奥に浮かんでいたものは、恐れというよりも、理解しきれないまま呑み込まれていく混乱だった。
命じられたとおりに薬を調合し、それが何に使われるかは知らされない。
それが“毒”であると知ったのは、配合に含まれた、ひとつの成分──神経に作用する乾燥草の名を見たときだったという。
『神経に直接届くものです。……少量なら、ただ眠るだけ。でも、量が増えれば──日常に戻れなくなる』
彼女の言葉は、どこか遠い出来事を語るような声音だった。
医術の知識として理解しているが、それを「人に使われる現実」として受け入れきれていない、そんな響き。
それでも彼女は、配合を続けたのだ。
理由を問えば、彼女はこうも言った。
『妹のために、逆らえませんでした。私が消されれば、あの子も──』
それは、あまりにも真っ直ぐで、痛ましい言葉だった。
薬を作る手は震えていただろうか。
目を閉じていたのだろうか。
僕には分からない。だが、その沈黙の中に刻まれている恐怖と諦念の重さだけは、確かに伝わってきた。
(では──誰に、使われた?)
その答えが、今はまだ見えない。
ただ、ここは王宮だ。
毒が意味するものは、単なる“排除”ではない。
王家の血。
王族の寵愛。
派閥と、継承と、失脚と──。
誰かが、誰かの命を削りながら、椅子を奪いにいっている。
そんな予感が、胸の奥でひどく冷たく光っていた。
※
屋敷へ戻ったその夜、夕餉も終えて屋内が静まった頃──
僕は思いきって、父の執務室を訪れた。
いつものように、書類に目を落とす父の手が止まる。
僕は小さく礼をして、少しだけ間をおき、それから切り出した。
「王宮の中で……最近、体調を崩されている方はいらっしゃいませんか」
父は、眉をほんのわずかに動かす。
その仕草に、少しだけ警戒の色がにじんだ気がしたが──それでも、答えはすぐに返ってきた。
「王弟妃だ。……名はアメリア。セヴァンの生家と、血のつながりがある」
静かな口調だった。
だが、その一言に、思いも寄らぬ波紋が広がる。
──セヴァンの実家。
つまり、兄上の血筋。
僕と同じ家に連なる人間が、その標的かもしれないと──?
「どのような症状なのですか」
「目眩、頭痛、倦怠……そして異常な眠気。しかも、決まって“特定の食後”に悪化すると聞いた。薬石効なく、王弟家では医師の入れ替えも検討しているそうだ」
僕は思わず唇を噛んだ。
それは、ランの言っていた薬の“作用”と重なる。
「……それは、“何か”を盛られている可能性があります」
「セラ」
父は、わずかに低い声で僕の名を呼ぶ。
「深入りするな。これは、お前の手に余る。王弟派に与していると見られれば、殿下からの信頼を損ねかねない」
「信頼、ですか?」
その言葉に、僕は思わず苦笑してしまった。
「“従順である限り”の信頼など、信頼ではありません。彼らが信じているのは“従わせている”という事実だけです」
父はしばらく黙っていた。
その沈黙は、決して軽いものではなかった。
「……それでも、王弟家と接触することは今は避けろ。妃は病んでいる。だが、それが誰かの“手”によるものかどうかは、まだ定かではない。お前に疑いが及ぶ前に、引くべきだ」
「でも、放っておけません」
その一言は、もはや迷いではなかった。
僕は、知らないうちに、踏み出してしまっていたのだ。
あの柔らかく微笑む妹の笑顔と、その背後で震える姉の沈黙。
命じられるままに毒を調合し、それが誰に使われたかもわからぬまま、震えていたか細い手──。
(このまま、知らなかったふりをして、生きていくことなどできるだろうか)
できるはずがない。
「ランとその妹を、お話しした通り正式に引き取ります。妹は屋敷で侍女見習いを。姉は、医務塔の手伝いをしているようですから……それはここから通わせましょう。あくまで王宮で“働かせる”形にすれば、口出しもされにくいはずです」
父は、その提案に少し驚いたように目を細め──そして、静かに頷いた。
「……それならば問題はないだろう。そちらはお前に任せよう」
「はい」
ひとつではあるが手がかりは、僕の手の中に入った。
王弟妃アメリア。
彼女が毒を盛られていたとすれば──それは何を意味するのか。
(兄上の家は現在眠っているようなものだ……どんな意味がある?)
僕はひとつ、静かに息を吐いた。
誰が、誰に、何のために。
毒が語るその意味を、掘り下げるには、まだあまりに材料が少ない。
だが、“誰か”が静かに動き出している──その輪郭だけは、確かに浮かび上がり始めていた。
石造りの壁に寄りかかるわけでもなく、足音を立てるでもなく──ただ、そこにいた。
磨かれた床はやわらかな陽を跳ね返し、細い窓の向こうには、よく手入れされた中庭が広がっている。
だがその穏やかさは、僕の胸の奥に居座るざらついた感覚を、何ひとつ和らげはしなかった。
(……誰に使われたのかは、分かりません)
あの時、ランがそう答えたときの顔──目の奥に浮かんでいたものは、恐れというよりも、理解しきれないまま呑み込まれていく混乱だった。
命じられたとおりに薬を調合し、それが何に使われるかは知らされない。
それが“毒”であると知ったのは、配合に含まれた、ひとつの成分──神経に作用する乾燥草の名を見たときだったという。
『神経に直接届くものです。……少量なら、ただ眠るだけ。でも、量が増えれば──日常に戻れなくなる』
彼女の言葉は、どこか遠い出来事を語るような声音だった。
医術の知識として理解しているが、それを「人に使われる現実」として受け入れきれていない、そんな響き。
それでも彼女は、配合を続けたのだ。
理由を問えば、彼女はこうも言った。
『妹のために、逆らえませんでした。私が消されれば、あの子も──』
それは、あまりにも真っ直ぐで、痛ましい言葉だった。
薬を作る手は震えていただろうか。
目を閉じていたのだろうか。
僕には分からない。だが、その沈黙の中に刻まれている恐怖と諦念の重さだけは、確かに伝わってきた。
(では──誰に、使われた?)
その答えが、今はまだ見えない。
ただ、ここは王宮だ。
毒が意味するものは、単なる“排除”ではない。
王家の血。
王族の寵愛。
派閥と、継承と、失脚と──。
誰かが、誰かの命を削りながら、椅子を奪いにいっている。
そんな予感が、胸の奥でひどく冷たく光っていた。
※
屋敷へ戻ったその夜、夕餉も終えて屋内が静まった頃──
僕は思いきって、父の執務室を訪れた。
いつものように、書類に目を落とす父の手が止まる。
僕は小さく礼をして、少しだけ間をおき、それから切り出した。
「王宮の中で……最近、体調を崩されている方はいらっしゃいませんか」
父は、眉をほんのわずかに動かす。
その仕草に、少しだけ警戒の色がにじんだ気がしたが──それでも、答えはすぐに返ってきた。
「王弟妃だ。……名はアメリア。セヴァンの生家と、血のつながりがある」
静かな口調だった。
だが、その一言に、思いも寄らぬ波紋が広がる。
──セヴァンの実家。
つまり、兄上の血筋。
僕と同じ家に連なる人間が、その標的かもしれないと──?
「どのような症状なのですか」
「目眩、頭痛、倦怠……そして異常な眠気。しかも、決まって“特定の食後”に悪化すると聞いた。薬石効なく、王弟家では医師の入れ替えも検討しているそうだ」
僕は思わず唇を噛んだ。
それは、ランの言っていた薬の“作用”と重なる。
「……それは、“何か”を盛られている可能性があります」
「セラ」
父は、わずかに低い声で僕の名を呼ぶ。
「深入りするな。これは、お前の手に余る。王弟派に与していると見られれば、殿下からの信頼を損ねかねない」
「信頼、ですか?」
その言葉に、僕は思わず苦笑してしまった。
「“従順である限り”の信頼など、信頼ではありません。彼らが信じているのは“従わせている”という事実だけです」
父はしばらく黙っていた。
その沈黙は、決して軽いものではなかった。
「……それでも、王弟家と接触することは今は避けろ。妃は病んでいる。だが、それが誰かの“手”によるものかどうかは、まだ定かではない。お前に疑いが及ぶ前に、引くべきだ」
「でも、放っておけません」
その一言は、もはや迷いではなかった。
僕は、知らないうちに、踏み出してしまっていたのだ。
あの柔らかく微笑む妹の笑顔と、その背後で震える姉の沈黙。
命じられるままに毒を調合し、それが誰に使われたかもわからぬまま、震えていたか細い手──。
(このまま、知らなかったふりをして、生きていくことなどできるだろうか)
できるはずがない。
「ランとその妹を、お話しした通り正式に引き取ります。妹は屋敷で侍女見習いを。姉は、医務塔の手伝いをしているようですから……それはここから通わせましょう。あくまで王宮で“働かせる”形にすれば、口出しもされにくいはずです」
父は、その提案に少し驚いたように目を細め──そして、静かに頷いた。
「……それならば問題はないだろう。そちらはお前に任せよう」
「はい」
ひとつではあるが手がかりは、僕の手の中に入った。
王弟妃アメリア。
彼女が毒を盛られていたとすれば──それは何を意味するのか。
(兄上の家は現在眠っているようなものだ……どんな意味がある?)
僕はひとつ、静かに息を吐いた。
誰が、誰に、何のために。
毒が語るその意味を、掘り下げるには、まだあまりに材料が少ない。
だが、“誰か”が静かに動き出している──その輪郭だけは、確かに浮かび上がり始めていた。
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