20 / 29
第十九話「王弟妃の影」
しおりを挟む
扉が開いたのは、部屋に差し込む陽の角度がわずかに変わった頃だった。
音はなかった。
鍵の機構が内側から静かに滑るだけの、微かな気配。
その瞬間、部屋の空気が確かに変わった。
軽やかに足を運んできたのは、アリスタンだった。
変わらぬ銀白の髪が肩先に落ち、青の瞳は笑みを湛えている。
優雅な笑みだった。誰が見ても、優しく、聡明で、あたたかい──そう錯覚させるような、よく調律された仮面。
そしてそのすぐ背後に、女官長のクレイアがいた。
控えめに下げられたその瞳に、表情はない。
だが、アリスタンの肩越しにこちらを射抜いたその視線には、明らかな棘があった。嫉妬とも憎悪ともつかぬ、冷たい熱が滲んでいる。
(……こうしたことも、僕はまるで見えていなかったのだな)
かつての“婚約者”として、王宮に出入りし、王太子の隣に在ったはずだった。
けれど、その視線に気づいたことは一度もなかった。
気づかないほど、遠かったのか。
あるいは、気づかないほどに僕が腑抜けていたのか──。
アリスタンは、何事もなかったかのように近づいてきて、ためらいすら見せずに僕の肩に手をかけた。
「来てくれて嬉しいよ、セラ。急な呼び出しだったのに、すまなかったね」
声は柔らかい。けれど、その声音の下にある“何か”を、僕はもう聞き分けることができる。
僕は微笑で応じた。
「王太子殿下からのご召しに、逆らえる者などおりませんから」
アリスタンは愉しげに目を細める。
「そう言うところ、君は変わらないな。口にする言葉の選び方まで、私を楽しませる」
そのまま、僕の肩を軽く引き寄せる。
意識せずとも、身体が硬直するのがわかる。
その一歩、僕の領域へ踏み込んでくるこの動作が、どれだけ無自覚に、どれだけ当然のように、彼の行動に組み込まれているか──それを思うと、背筋の奥に冷たいものが這い上がってくる。
けれど僕は、抵抗しなかった。
ここで拒めば、さらに苛烈な執着に火が点くことを、僕はもう知っている。
アリスタンの手が僕の腰に触れた刹那、視線がまたクレイアへと滑った。
彼女は、無言のまま、こちらを見ていた。
その瞳の奥には、爛れるような黒い感情が宿っていた。静かに、しかし確実に、僕を“何か”として見ている目。
(……ただの愛人ではない。あれは──もっと深い何か)
何かを知っていて、そして、守りたい“王太子の秘密”がある。
その想いが、その視線が、むしろすべてを雄弁に語っていた。
※
屋敷に戻ったのは、日が大きく傾きはじめた頃だった。
ランとリン──あの姉妹を伴っての帰路は、どこか奇妙な静けさに包まれていた。
二人とも口数は少なく、リンは緊張からかランの手を握ったまま離さなかった。
ランは歩みこそ安定していたが、その瞳の奥には、どこか遠くを見つめるような強張りがあった。
門をくぐった時、玄関先には思いがけない姿があった。
父上、そして兄上がそこにいた。
ふたりとも、通常の執務時間より早く戻ってきていた。
しかも、どちらも落ち着かぬ面持ちで玄関に立っている。
「──おかえり」
父がこちらを見るなり、言葉を発した。
それは明らかに“いつもの口調”ではなかった。
厳しさでも冷淡さでもなく、何かが切迫している響き。
「どうかされたのですか?」
僕が尋ねると、父が一拍置いてからこたえた。
「セヴァンを伴って、王弟妃の元へ向かう。容態が悪化したとの報せが入った。すぐにでも見舞いに行かねばならん」
僕は思わず彼女の方を振り返った。
彼女は、ただひとつ頷いた。
声はなかった。
けれど、その瞳の奥に宿る“確信”の色──それは、あまりにも明瞭だった。
命令で薬を煎じたラン。
クレイアの文。
そして、父が語る王弟妃の容態の急変。
すべてが、ひとつの線で繋がっていくのがわかる。
(……毒が、効きはじめたのだ)
「……セラ様」
ランが、声を潜めて近づいた。
その声音は、震えてはいなかった。だが、何かに抗おうとするような緊張があった。
「もしかしたら……私、解毒薬を作れるかもしれません」
その囁きに、時間が止まった気がした。
僕は、目を見開いた。
「本当か」
彼女は、ためらいながらも、静かに頷いた。
「完全な確証はありません。ただ、使用された毒草があの配合なら……応用できる処方があります。私ひとりでは難しいかもしれませんが、医務塔で資料を集めれば……あとは薬草があればきっと、間に合います」
その目に、諦めはなかった。
王宮にいた日々に傷つきながらも、彼女はまだ“誰かを救おう”としている。
そして──それは、きっともう彼女自身の“贖罪”なのだ。
僕は、ぐっと息を飲み、父の背に向かって声を放った。
「……待ってください」
父の足が止まる。
すべてを賭けるような緊張が、場の空気を支配した。
ランの手が、そっと僕の袖を握った。
僕はもう一歩、前へ出る。
──これは、ただの“毒”ではない。
誰が、誰を、どんな意図で。
その問いの先に、“真実”がある。
音はなかった。
鍵の機構が内側から静かに滑るだけの、微かな気配。
その瞬間、部屋の空気が確かに変わった。
軽やかに足を運んできたのは、アリスタンだった。
変わらぬ銀白の髪が肩先に落ち、青の瞳は笑みを湛えている。
優雅な笑みだった。誰が見ても、優しく、聡明で、あたたかい──そう錯覚させるような、よく調律された仮面。
そしてそのすぐ背後に、女官長のクレイアがいた。
控えめに下げられたその瞳に、表情はない。
だが、アリスタンの肩越しにこちらを射抜いたその視線には、明らかな棘があった。嫉妬とも憎悪ともつかぬ、冷たい熱が滲んでいる。
(……こうしたことも、僕はまるで見えていなかったのだな)
かつての“婚約者”として、王宮に出入りし、王太子の隣に在ったはずだった。
けれど、その視線に気づいたことは一度もなかった。
気づかないほど、遠かったのか。
あるいは、気づかないほどに僕が腑抜けていたのか──。
アリスタンは、何事もなかったかのように近づいてきて、ためらいすら見せずに僕の肩に手をかけた。
「来てくれて嬉しいよ、セラ。急な呼び出しだったのに、すまなかったね」
声は柔らかい。けれど、その声音の下にある“何か”を、僕はもう聞き分けることができる。
僕は微笑で応じた。
「王太子殿下からのご召しに、逆らえる者などおりませんから」
アリスタンは愉しげに目を細める。
「そう言うところ、君は変わらないな。口にする言葉の選び方まで、私を楽しませる」
そのまま、僕の肩を軽く引き寄せる。
意識せずとも、身体が硬直するのがわかる。
その一歩、僕の領域へ踏み込んでくるこの動作が、どれだけ無自覚に、どれだけ当然のように、彼の行動に組み込まれているか──それを思うと、背筋の奥に冷たいものが這い上がってくる。
けれど僕は、抵抗しなかった。
ここで拒めば、さらに苛烈な執着に火が点くことを、僕はもう知っている。
アリスタンの手が僕の腰に触れた刹那、視線がまたクレイアへと滑った。
彼女は、無言のまま、こちらを見ていた。
その瞳の奥には、爛れるような黒い感情が宿っていた。静かに、しかし確実に、僕を“何か”として見ている目。
(……ただの愛人ではない。あれは──もっと深い何か)
何かを知っていて、そして、守りたい“王太子の秘密”がある。
その想いが、その視線が、むしろすべてを雄弁に語っていた。
※
屋敷に戻ったのは、日が大きく傾きはじめた頃だった。
ランとリン──あの姉妹を伴っての帰路は、どこか奇妙な静けさに包まれていた。
二人とも口数は少なく、リンは緊張からかランの手を握ったまま離さなかった。
ランは歩みこそ安定していたが、その瞳の奥には、どこか遠くを見つめるような強張りがあった。
門をくぐった時、玄関先には思いがけない姿があった。
父上、そして兄上がそこにいた。
ふたりとも、通常の執務時間より早く戻ってきていた。
しかも、どちらも落ち着かぬ面持ちで玄関に立っている。
「──おかえり」
父がこちらを見るなり、言葉を発した。
それは明らかに“いつもの口調”ではなかった。
厳しさでも冷淡さでもなく、何かが切迫している響き。
「どうかされたのですか?」
僕が尋ねると、父が一拍置いてからこたえた。
「セヴァンを伴って、王弟妃の元へ向かう。容態が悪化したとの報せが入った。すぐにでも見舞いに行かねばならん」
僕は思わず彼女の方を振り返った。
彼女は、ただひとつ頷いた。
声はなかった。
けれど、その瞳の奥に宿る“確信”の色──それは、あまりにも明瞭だった。
命令で薬を煎じたラン。
クレイアの文。
そして、父が語る王弟妃の容態の急変。
すべてが、ひとつの線で繋がっていくのがわかる。
(……毒が、効きはじめたのだ)
「……セラ様」
ランが、声を潜めて近づいた。
その声音は、震えてはいなかった。だが、何かに抗おうとするような緊張があった。
「もしかしたら……私、解毒薬を作れるかもしれません」
その囁きに、時間が止まった気がした。
僕は、目を見開いた。
「本当か」
彼女は、ためらいながらも、静かに頷いた。
「完全な確証はありません。ただ、使用された毒草があの配合なら……応用できる処方があります。私ひとりでは難しいかもしれませんが、医務塔で資料を集めれば……あとは薬草があればきっと、間に合います」
その目に、諦めはなかった。
王宮にいた日々に傷つきながらも、彼女はまだ“誰かを救おう”としている。
そして──それは、きっともう彼女自身の“贖罪”なのだ。
僕は、ぐっと息を飲み、父の背に向かって声を放った。
「……待ってください」
父の足が止まる。
すべてを賭けるような緊張が、場の空気を支配した。
ランの手が、そっと僕の袖を握った。
僕はもう一歩、前へ出る。
──これは、ただの“毒”ではない。
誰が、誰を、どんな意図で。
その問いの先に、“真実”がある。
157
あなたにおすすめの小説
待っててくれと言われて10年待った恋人に嫁と子供がいた話
ナナメ
BL
アルファ、ベータ、オメガ、という第2性が出現してから数百年。
かつては虐げられてきたオメガも抑制剤のおかげで社会進出が当たり前になってきた。
高校3年だったオメガである瓜生郁(うりゅう いく)は、幼馴染みで恋人でもあるアルファの平井裕也(ひらい ゆうや)と婚約していた。両家共にアルファ家系の中の唯一のオメガである郁と裕也の婚約は互いに会社を経営している両家にとって新たな事業の為に歓迎されるものだった。
郁にとって例え政略的な面があってもそれは幸せな物で、別の会社で修行を積んで戻った裕也との明るい未来を思い描いていた。
それから10年。約束は守られず、裕也はオメガである別の相手と生まれたばかりの子供と共に郁の前に現れた。
信じていた。裏切られた。嫉妬。悲しさ。ぐちゃぐちゃな感情のまま郁は川の真ん中に立ち尽くすーー。
※表紙はAIです
※遅筆です
【完】ラスボス(予定)に転生しましたが、家を出て幸せになります
ナナメ
BL
8歳の頃ここが『光の勇者と救世の御子』の小説、もしくはそれに類似した世界であるという記憶が甦ったウル。
家族に疎まれながら育った自分は囮で偽物の王太子の婚約者である事、同い年の義弟ハガルが本物の婚約者である事、真実を告げられた日に全てを失い絶望して魔王になってしまう事ーーそれを、思い出した。
思い出したからには思いどおりになるものか、そして小説のちょい役である推しの元で幸せになってみせる!と10年かけて下地を築いた卒業パーティーの日ーー
ーーさあ、早く来い!僕の10年の努力の成果よ今ここに!
魔王になりたくないラスボス(予定)と、本来超脇役のおっさんとの物語。
※体調次第で書いておりますのでかなりの鈍足更新になっております。ご了承頂ければ幸いです。
※表紙はAI作成です
転生悪役召喚士見習いのΩくんと4人の最強の番
寿団子
BL
転生した世界は、前世でやっていた乙女ゲームの世界だった。
悪役お姫様の兄に生まれ変わった少年は普通のゲーム転生ではない事に気付く。
ゲームにはなかったオメガバースの世界が追加されていた。
αの家系であった一族のΩとして、家から追い出された少年は1人の召喚士と出会う。
番となる人物の魔力を与えられないと呪いによりヒートが暴走する身体になっていた。
4人の最強の攻略キャラと番になる事で、その呪いは神秘の力に変わる。
4人の攻略キャラクターα×転生悪役令息Ω
忍び寄る女王の祭典でなにかが起こる。
悪役令息(Ω)に転生したので、破滅を避けてスローライフを目指します。だけどなぜか最強騎士団長(α)の運命の番に認定され、溺愛ルートに突入!
水凪しおん
BL
貧乏男爵家の三男リヒトには秘密があった。
それは、自分が乙女ゲームの「悪役令息」であり、現代日本から転生してきたという記憶だ。
家は没落寸前、自身の立場は断罪エンドへまっしぐら。
そんな破滅フラグを回避するため、前世の知識を活かして領地改革に奮闘するリヒトだったが、彼が生まれ持った「Ω」という性は、否応なく運命の渦へと彼を巻き込んでいく。
ある夜会で出会ったのは、氷のように冷徹で、王国最強と謳われる騎士団長のカイ。
誰もが恐れるαの彼に、なぜかリヒトは興味を持たれてしまう。
「関わってはいけない」――そう思えば思うほど、抗いがたいフェロモンと、カイの不器用な優しさがリヒトの心を揺さぶる。
これは、運命に翻弄される悪役令息が、最強騎士団長の激重な愛に包まれ、やがて国をも動かす存在へと成り上がっていく、甘くて刺激的な溺愛ラブストーリー。
婚約破棄で追放された悪役令息の俺、実はオメガだと隠していたら辺境で出会った無骨な傭兵が隣国の皇太子で運命の番でした
水凪しおん
BL
「今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」
公爵令息レオンは、王子アルベルトとその寵愛する聖女リリアによって、身に覚えのない罪で断罪され、全てを奪われた。
婚約、地位、家族からの愛――そして、痩せ衰えた最果ての辺境地へと追放される。
しかし、それは新たな人生の始まりだった。
前世の知識というチート能力を秘めたレオンは、絶望の地を希望の楽園へと変えていく。
そんな彼の前に現れたのは、ミステリアスな傭兵カイ。
共に困難を乗り越えるうち、二人の間には強い絆が芽生え始める。
だがレオンには、誰にも言えない秘密があった。
彼は、この世界で蔑まれる存在――「オメガ」なのだ。
一方、レオンを追放した王国は、彼の不在によって崩壊の一途を辿っていた。
これは、どん底から這い上がる悪役令息が、運命の番と出会い、真実の愛と幸福を手に入れるまでの物語。
痛快な逆転劇と、とろけるほど甘い溺愛が織りなす、異世界やり直しロマンス!
なぜ処刑予定の悪役子息の俺が溺愛されている?
詩河とんぼ
BL
前世では過労死し、バース性があるBLゲームに転生した俺は、なる方が珍しいバットエンド以外は全て処刑されるというの世界の悪役子息・カイラントになっていた。処刑されるのはもちろん嫌だし、知識を付けてそれなりのところで働くか婿入りできたらいいな……と思っていたのだが、攻略対象者で王太子のアルスタから猛アプローチを受ける。……どうしてこうなった?
【本編完結】完璧アルファの寮長が、僕に本気でパートナー申請なんてするわけない
中村梅雨(ナカムラツユ)
BL
海軍士官を目指す志高き若者たちが集う、王立海軍大学。エリートが集まり日々切磋琢磨するこの全寮制の学舎には、オメガ候補生のヒート管理のため“登録パートナー”による処理行為を認めるという、通称『登録済みパートナー制度』が存在した。
二年生になったばかりのオメガ候補生:リース・ハーストは、この大学の中で唯一誰ともパートナー契約を結ばなかったオメガとして孤独に過ごしてきた。しかしある日届いた申請書の相手は、完璧な上級生アルファ:アーサー・ケイン。絶対にパートナーなんて作るものかと思っていたのに、気付いたら承認してしまっていて……??制度と欲望に揺れる二人の距離は、じりじりと変わっていく──。
夢を追う若者たちが織り成す、青春ラブストーリー。
【完結】王のための花は獣人騎士に初恋を捧ぐ
トオノ ホカゲ
BL
田舎の貧村で暮らすリオンは、幼い頃からオメガであることを理由に虐げられてきた。唯一の肉親である母親を三か月前に病気で亡くし、途方に暮れていたところを、突然現れたノルツブルク王国の獣人の騎士・クレイドに助けられる。クレイドは王・オースティンの命令でリオンを迎えに来たという。そのままクレイドに連れられノルツブルク王国へ向かったリオンは、優しく寄り添ってくれるクレイドに次第に惹かれていくがーーーー?
心に傷を持つ二人が心を重ね、愛を探す優しいオメガバースの物語。
(登場人物)
・リオン(受け)
心優しいオメガ。頑張り屋だが自分に自信が持てない。元女官で薬師だった母のアナに薬草の知識などを授けられたが、三か月前にその母も病死して独りになってしまう。
・クレイド(攻め)
ノルツブルク王国第一騎士団の隊長で獣人。幼いころにオースティンの遊び相手に選ばれ、ともにアナから教育を受けた。現在はオースティンの右腕となる。
・オースティン
ノルツブルク王国の国王でアルファ。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる