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第二十二話「翳りの夜にて」
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薬瓶の蓋を開けた時、青磁の内側から漂ってきたのは、ほのかに乾いた薬草の香りだった。
苦味を帯びたその香気は、どこか懐かしさを孕んでいた。王宮でよく使われていた薬煎のそれに似ている──そう思った瞬間、躊躇は消えた。
口に含み、喉へと流し込む。
刹那、舌の奥に鋭く刺すような渋みが走ったが、それは毒によるものではなく、植物由来の苦味だった。咳も、吐き気もない。視界の揺らぎも、胸を圧するような圧迫も。
──大丈夫だ。
僕はそっと息を吐き、背筋を伸ばす。
「問題ありません。薬効に即時性はないと思われますが、毒性は──感じません」
王弟レオグランツの眉がわずかに動く。
隣のアメリア妃は、その表情を少しだけ崩した。
「……あなたは、ほんとうに、イレーネ様の息子なのね。こういう時に、何の迷いもなく踏み込んでしまえるところが」
その声音は、呆れにも似ていたが、どこかに微かな感謝と愛情が滲んでいた。
「妃殿下。薬を、どうぞ」
セヴァンが一歩前に出て、静かに瓶を差し出す。
レオがそれを受け取り、アメリアへと手渡した。
彼女は慎重に手を伸ばし、まるで器の重さを確かめるように指先を添えた。
そしてひと息、静かに飲み下す。
──しばらくの沈黙。
薬の成分が、体に浸透していくのを感じているのだろう。彼女の呼吸は次第に深くなり、頬の熱はそのままながら、瞳の焦点がわずかに明瞭さを取り戻していく。
「……少し、楽になった気がします」
それは期待が言わせたことだろう。
けれど王弟殿下の肩が、ほんの僅かに落ちるのが見えた。
夫としての安堵だ。
そしてまた、宰相ジークムントを信じたことへの表情でもあった。
「ありがとう。二人とも……」
王弟妃の目が細められ、まるで遠くの星を見つめるような穏やかさが宿った。
「……妃殿下、少しだけ、状況をお話しいただけませんか」
僕は、その隙を突くように問いを投げた。
彼女は少しだけ視線を泳がせ、それからゆっくりと頷く。
「ええ……そうね。話しておくべきでしょう。これは……偶然などではない。そう思っています」
その声には、かすかに掠れが混じっていたが、確かに意志が宿っていた。
「倒れたのは、一昨日の夜のことです。夕食をとった後──不思議と疲れを感じて、横になったまでは覚えているの。でも、そこから熱が出て、意識が……」
「料理の内容は」
「通常通り。……ただ、1ヶ月ほど前に客人がいらしたの」
「客人?」
「ええ。公にはしていません。けれど、王宮からの“使者”として、女官がひとり、届け物を持ってきたのです。王太子殿下からの贈り物、と言って」
部屋の空気が、またひとつ変わった。
──王太子。アリスタン。
「それは、どのような……?」
「花茶でした。璃晏国の薬草を使った、美容に良いお茶だと。女官は名乗らず、挨拶もごくあっさりとしていて……妙だった。けれど、まさか毒が仕込まれているとは思わなかったわ」
「飲まれたのですね」
「ええ、幾度か……日増しに身体がじわじわと重くなっていって。気づけば、声も出せなくて」
その回想の合間、レオの手がそっとアメリアの肩に添えられる。
セヴァンが静かに息をついた。
「……それは、毒です」
言葉に迷いはなかった。
「おそらくは、“神経に効く類”のものでしょう。長期服用によって、判断力と免疫の低下も引き起こす」
「そんな……」
アメリアが驚愕に目を見開いた。
「なぜ、こんなことを……私は政争に巻き込まれる理由が……」
「いや、私だろうな、それならば……だからこそ、君が狙われた」
王弟殿下がゆっくりと吐き出す。
僕は、言葉を飲み込んだ。
王太子はアリスタン。
しかし現王にそれ以外の王子はいない。
そして次点の皇位継承権を持つのは王弟殿下であり、王弟殿下と現王の関係は“良好”。
そして、宰相である父はアリスタンの王位継承に疑問を持っている。
(ならばこれは“警告”か……)
「……試されているのかもしれません」
思わず漏れた僕の声に、ふたりの視線が向けられる。
「この薬草の調合は、極めて希少です。しかも、璃晏国の知識を持つ者でなければ扱えない。……毒を作った者、命じた者、運んだ者。それぞれに“意図”があります。誰が、どこで、どの段階で“王弟妃”を選んだのか──」
その問いに、誰も即答できなかった。
けれど、ここに確実な“敵意”があることは、全員が理解していた。
王宮の内部に、何かが蠢いている。
それはアリスタンひとりの狂気ではない。
背後に何かがいる。仕組まれた“動き”がある。
(……たどり着かなくては)
今はまだ、点と点だ。
けれど、この先に確実に、“あの未来”と、“今”をつなぐ線がある。
僕はアメリア妃を見た。
彼女の呼吸は浅く、けれど先ほどより確かに落ち着きを取り戻していた。
この命を守れたことに、意味がある。そう思いたかった。
扉の向こうでは、誰かの足音が近づいていた。
──父か。あるいは、王宮からの“次の波”か。
僕たちは、立ち上がるべきだ。
守るために、そして暴くために。
真実は、今この翳りの夜の奥に、静かに身を潜めているのだから。
苦味を帯びたその香気は、どこか懐かしさを孕んでいた。王宮でよく使われていた薬煎のそれに似ている──そう思った瞬間、躊躇は消えた。
口に含み、喉へと流し込む。
刹那、舌の奥に鋭く刺すような渋みが走ったが、それは毒によるものではなく、植物由来の苦味だった。咳も、吐き気もない。視界の揺らぎも、胸を圧するような圧迫も。
──大丈夫だ。
僕はそっと息を吐き、背筋を伸ばす。
「問題ありません。薬効に即時性はないと思われますが、毒性は──感じません」
王弟レオグランツの眉がわずかに動く。
隣のアメリア妃は、その表情を少しだけ崩した。
「……あなたは、ほんとうに、イレーネ様の息子なのね。こういう時に、何の迷いもなく踏み込んでしまえるところが」
その声音は、呆れにも似ていたが、どこかに微かな感謝と愛情が滲んでいた。
「妃殿下。薬を、どうぞ」
セヴァンが一歩前に出て、静かに瓶を差し出す。
レオがそれを受け取り、アメリアへと手渡した。
彼女は慎重に手を伸ばし、まるで器の重さを確かめるように指先を添えた。
そしてひと息、静かに飲み下す。
──しばらくの沈黙。
薬の成分が、体に浸透していくのを感じているのだろう。彼女の呼吸は次第に深くなり、頬の熱はそのままながら、瞳の焦点がわずかに明瞭さを取り戻していく。
「……少し、楽になった気がします」
それは期待が言わせたことだろう。
けれど王弟殿下の肩が、ほんの僅かに落ちるのが見えた。
夫としての安堵だ。
そしてまた、宰相ジークムントを信じたことへの表情でもあった。
「ありがとう。二人とも……」
王弟妃の目が細められ、まるで遠くの星を見つめるような穏やかさが宿った。
「……妃殿下、少しだけ、状況をお話しいただけませんか」
僕は、その隙を突くように問いを投げた。
彼女は少しだけ視線を泳がせ、それからゆっくりと頷く。
「ええ……そうね。話しておくべきでしょう。これは……偶然などではない。そう思っています」
その声には、かすかに掠れが混じっていたが、確かに意志が宿っていた。
「倒れたのは、一昨日の夜のことです。夕食をとった後──不思議と疲れを感じて、横になったまでは覚えているの。でも、そこから熱が出て、意識が……」
「料理の内容は」
「通常通り。……ただ、1ヶ月ほど前に客人がいらしたの」
「客人?」
「ええ。公にはしていません。けれど、王宮からの“使者”として、女官がひとり、届け物を持ってきたのです。王太子殿下からの贈り物、と言って」
部屋の空気が、またひとつ変わった。
──王太子。アリスタン。
「それは、どのような……?」
「花茶でした。璃晏国の薬草を使った、美容に良いお茶だと。女官は名乗らず、挨拶もごくあっさりとしていて……妙だった。けれど、まさか毒が仕込まれているとは思わなかったわ」
「飲まれたのですね」
「ええ、幾度か……日増しに身体がじわじわと重くなっていって。気づけば、声も出せなくて」
その回想の合間、レオの手がそっとアメリアの肩に添えられる。
セヴァンが静かに息をついた。
「……それは、毒です」
言葉に迷いはなかった。
「おそらくは、“神経に効く類”のものでしょう。長期服用によって、判断力と免疫の低下も引き起こす」
「そんな……」
アメリアが驚愕に目を見開いた。
「なぜ、こんなことを……私は政争に巻き込まれる理由が……」
「いや、私だろうな、それならば……だからこそ、君が狙われた」
王弟殿下がゆっくりと吐き出す。
僕は、言葉を飲み込んだ。
王太子はアリスタン。
しかし現王にそれ以外の王子はいない。
そして次点の皇位継承権を持つのは王弟殿下であり、王弟殿下と現王の関係は“良好”。
そして、宰相である父はアリスタンの王位継承に疑問を持っている。
(ならばこれは“警告”か……)
「……試されているのかもしれません」
思わず漏れた僕の声に、ふたりの視線が向けられる。
「この薬草の調合は、極めて希少です。しかも、璃晏国の知識を持つ者でなければ扱えない。……毒を作った者、命じた者、運んだ者。それぞれに“意図”があります。誰が、どこで、どの段階で“王弟妃”を選んだのか──」
その問いに、誰も即答できなかった。
けれど、ここに確実な“敵意”があることは、全員が理解していた。
王宮の内部に、何かが蠢いている。
それはアリスタンひとりの狂気ではない。
背後に何かがいる。仕組まれた“動き”がある。
(……たどり着かなくては)
今はまだ、点と点だ。
けれど、この先に確実に、“あの未来”と、“今”をつなぐ線がある。
僕はアメリア妃を見た。
彼女の呼吸は浅く、けれど先ほどより確かに落ち着きを取り戻していた。
この命を守れたことに、意味がある。そう思いたかった。
扉の向こうでは、誰かの足音が近づいていた。
──父か。あるいは、王宮からの“次の波”か。
僕たちは、立ち上がるべきだ。
守るために、そして暴くために。
真実は、今この翳りの夜の奥に、静かに身を潜めているのだから。
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