6 / 40
第6話:その手の温度
しおりを挟む
扉を押し開けた瞬間、低く流れるジャズのような音楽が、外の喧噪とは別の時間をつくっていた。
柔らかい間接照明が天井の端から落ちて、琥珀色の光が磨かれたグラスやボトルの表面に小さく跳ねる。
昨日より少し落ち着いた色合いのスーツやワンピースを着た客たちの笑い声が、壁に反響して丸く響いてくる。
微かに漂うアルコールと柑橘の香りが鼻腔をくすぐった。
その中で――
「……陸」
カウンターの向こう、レオンがいた。
グラスを磨いていた手を止め、こちらを見た瞬間、ほんの一瞬だけ、その完璧な笑顔が崩れた気がする。
すぐに形を整えて、甘くやわらかな表情に戻る。
でも、今の一瞬は何だったのか。胸の奥が小さく反応してしまう。
「来てくれて嬉しい。……おかえり」
また、その言葉だ。
声の響きが、全身の皮膚をゆっくり撫でるみたいで、背中の内側がじんわりと熱くなる。
この店の空気よりも、この人の声のほうがよほど体温を上げてくるのだ。
案内される間、周囲の視線が何度も肌に触れた。
けれどレオンは気にした様子もなく、歩幅をぴたりと合わせてくる。
指先が腰の横を軽く誘導する――ほんの一瞬の接触なのに、意識がそこに釘付けになった。
ソファに腰を下ろすと、レオンは斜め向かいに座る。
テーブル越しでも、伸ばせば届く距離。
昨日よりは落ち着いている……はずなのに、足先は落ち着きなく揺れてしまう。
「今日は何を飲む? 昨日と同じでもいいし、少し変えてみても」
「……軽めのやつ、で」
「了解。陸が飲みやすいやつにするね」
注文を取るふりをして、レオンが少しだけ声を落とす。
「……でもさ」
「ん?」
「高いのは頼まないようにしよう? 学生だよね? お金とか、無理しないでほしいから」
思いがけない言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
ホストの営業なら、むしろ高いものをすすめるはずだ。
なのに、目の前の男は、まるで本当に心配しているみたいな目をしている。
「……別に、大丈夫です、よ」
「そう? 本当は奢ってあげたいんだけど……ここで俺が奢るのはルール違反だからさ」
軽く笑いながらも、その瞬間だけはふざけていなかった。
琥珀色のグラスが運ばれてくる。昨日より少し色が深い。
氷が当たって鳴る澄んだ音が、やけに耳に残る。
「ほら」
差し出されたグラスを受け取ろうと手を伸ばす――その瞬間だった。
触れるより先に、レオンの手が俺の手を包み込んだ。
握手でもするように、両手でしっかりと。
「……っ」
指先から手首へ、温度がゆっくりと広がる。
その感覚が皮膚だけでなく、胸の奥まで届いてくる。
俺の心臓が煩いくらいに動き出していた。
「冷たいね」
「え?」
「指先。外、少し涼しかった?」
「……まあ」
レオンは視線を落とさないまま、少し笑う。
「じゃあ、温めてあげないと」
(……これ、営業だよな? だよな……?)
ホストクラブでホストが男を口説くなんてこと、るわけがない。
頭ではそう言い聞かせているのに、手は彼の温もりをなぞって離せなかった。
こういう距離感が仕事だと、知っているのに。
「……この手、もう離さないよ」
笑いながら言われた言葉が、予想よりずっと深く刺さった。
冗談とも本気ともつかない響き。
逸らそうとした視線は、結局また引き戻される。
(……離せって言えばいいのに、俺ぇ……)
そう思うのに、口が動かない。
指の温度に、ほんの少しだけ縋っている自分がいる。
「……どうしたの、黙っちゃって」
「……なんでもない、です」
「ふぅん」
その後は、趣味や大学のこと、他愛ない話題が続いた。
でも、時折こちらを射抜くような視線が、その仮面を外したように見えて息が詰まる。
あっという間に閉店が近づく。
「送るよ」と言われ、外へ出ると、いつの間にか雨が降ったらしい。
濡れたアスファルトにネオンがにじんで、街全体がぼんやりと光っている。
「今日はありがとう」
「……こちらこそ」
足を止めたレオンが、ゆっくりと顔を傾ける。
視界いっぱいに近づくまなざし。
息を吸う間もなく、頬にふっと温かい感触が触れた。
「……っ!」
「おやすみ、陸」
微笑んで離れた距離は、数十センチしかない。
鼓動が速すぎて、自分の足音が遠くに聞こえる。
(……なに、今の……)
返事もできないまま、背を向けた。
ネオンの光と、まだ残る体温が背中を押す。
夜風が頬を撫でても、その感触は消えなかった。
柔らかい間接照明が天井の端から落ちて、琥珀色の光が磨かれたグラスやボトルの表面に小さく跳ねる。
昨日より少し落ち着いた色合いのスーツやワンピースを着た客たちの笑い声が、壁に反響して丸く響いてくる。
微かに漂うアルコールと柑橘の香りが鼻腔をくすぐった。
その中で――
「……陸」
カウンターの向こう、レオンがいた。
グラスを磨いていた手を止め、こちらを見た瞬間、ほんの一瞬だけ、その完璧な笑顔が崩れた気がする。
すぐに形を整えて、甘くやわらかな表情に戻る。
でも、今の一瞬は何だったのか。胸の奥が小さく反応してしまう。
「来てくれて嬉しい。……おかえり」
また、その言葉だ。
声の響きが、全身の皮膚をゆっくり撫でるみたいで、背中の内側がじんわりと熱くなる。
この店の空気よりも、この人の声のほうがよほど体温を上げてくるのだ。
案内される間、周囲の視線が何度も肌に触れた。
けれどレオンは気にした様子もなく、歩幅をぴたりと合わせてくる。
指先が腰の横を軽く誘導する――ほんの一瞬の接触なのに、意識がそこに釘付けになった。
ソファに腰を下ろすと、レオンは斜め向かいに座る。
テーブル越しでも、伸ばせば届く距離。
昨日よりは落ち着いている……はずなのに、足先は落ち着きなく揺れてしまう。
「今日は何を飲む? 昨日と同じでもいいし、少し変えてみても」
「……軽めのやつ、で」
「了解。陸が飲みやすいやつにするね」
注文を取るふりをして、レオンが少しだけ声を落とす。
「……でもさ」
「ん?」
「高いのは頼まないようにしよう? 学生だよね? お金とか、無理しないでほしいから」
思いがけない言葉に、胸の奥が小さく揺れた。
ホストの営業なら、むしろ高いものをすすめるはずだ。
なのに、目の前の男は、まるで本当に心配しているみたいな目をしている。
「……別に、大丈夫です、よ」
「そう? 本当は奢ってあげたいんだけど……ここで俺が奢るのはルール違反だからさ」
軽く笑いながらも、その瞬間だけはふざけていなかった。
琥珀色のグラスが運ばれてくる。昨日より少し色が深い。
氷が当たって鳴る澄んだ音が、やけに耳に残る。
「ほら」
差し出されたグラスを受け取ろうと手を伸ばす――その瞬間だった。
触れるより先に、レオンの手が俺の手を包み込んだ。
握手でもするように、両手でしっかりと。
「……っ」
指先から手首へ、温度がゆっくりと広がる。
その感覚が皮膚だけでなく、胸の奥まで届いてくる。
俺の心臓が煩いくらいに動き出していた。
「冷たいね」
「え?」
「指先。外、少し涼しかった?」
「……まあ」
レオンは視線を落とさないまま、少し笑う。
「じゃあ、温めてあげないと」
(……これ、営業だよな? だよな……?)
ホストクラブでホストが男を口説くなんてこと、るわけがない。
頭ではそう言い聞かせているのに、手は彼の温もりをなぞって離せなかった。
こういう距離感が仕事だと、知っているのに。
「……この手、もう離さないよ」
笑いながら言われた言葉が、予想よりずっと深く刺さった。
冗談とも本気ともつかない響き。
逸らそうとした視線は、結局また引き戻される。
(……離せって言えばいいのに、俺ぇ……)
そう思うのに、口が動かない。
指の温度に、ほんの少しだけ縋っている自分がいる。
「……どうしたの、黙っちゃって」
「……なんでもない、です」
「ふぅん」
その後は、趣味や大学のこと、他愛ない話題が続いた。
でも、時折こちらを射抜くような視線が、その仮面を外したように見えて息が詰まる。
あっという間に閉店が近づく。
「送るよ」と言われ、外へ出ると、いつの間にか雨が降ったらしい。
濡れたアスファルトにネオンがにじんで、街全体がぼんやりと光っている。
「今日はありがとう」
「……こちらこそ」
足を止めたレオンが、ゆっくりと顔を傾ける。
視界いっぱいに近づくまなざし。
息を吸う間もなく、頬にふっと温かい感触が触れた。
「……っ!」
「おやすみ、陸」
微笑んで離れた距離は、数十センチしかない。
鼓動が速すぎて、自分の足音が遠くに聞こえる。
(……なに、今の……)
返事もできないまま、背を向けた。
ネオンの光と、まだ残る体温が背中を押す。
夜風が頬を撫でても、その感触は消えなかった。
52
あなたにおすすめの小説
前世が悪女の男は誰にも会いたくない
イケのタコ
BL
※注意 BLであり前世が女性です
ーーーやってしまった。
『もういい。お前の顔は見たくない』
旦那様から罵声は一度も吐かれる事はなく、静かに拒絶された。
前世は椿という名の悪女だったが普通の男子高校生として生活を送る赤橋 新(あかはし あらた)は、二度とそんのような事ないように、心を改めて清く生きようとしていた
しかし、前世からの因縁か、運命か。前世の時に結婚していた男、雪久(ゆきひさ)とどうしても会ってしまう
その運命を受け入れれば、待っているの惨めな人生だと確信した赤橋は雪久からどうにか逃げる事に決める
頑張って運命を回避しようとする話です
君の恋人
risashy
BL
朝賀千尋(あさか ちひろ)は一番の親友である茅野怜(かやの れい)に片思いをしていた。
伝えるつもりもなかった気持ちを思い余って告げてしまった朝賀。
もう終わりだ、友達でさえいられない、と思っていたのに、茅野は「付き合おう」と答えてくれて——。
不器用な二人がすれ違いながら心を通わせていくお話。
あなたの家族にしてください
秋月真鳥
BL
ヒート事故で番ってしまったサイモンとティエリー。
情報部所属のサイモン・ジュネはアルファで、優秀な警察官だ。
闇オークションでオメガが売りに出されるという情報を得たサイモンは、チームの一員としてオークション会場に潜入捜査に行く。
そこで出会った長身で逞しくも美しいオメガ、ティエリー・クルーゾーのヒートにあてられて、サイモンはティエリーと番ってしまう。
サイモンはオメガのフェロモンに強い体質で、強い抑制剤も服用していたし、緊急用の抑制剤も打っていた。
対するティエリーはフェロモンがほとんど感じられないくらいフェロモンの薄いオメガだった。
それなのに、なぜ。
番にしてしまった責任を取ってサイモンはティエリーと結婚する。
一緒に過ごすうちにサイモンはティエリーの物静かで寂しげな様子に惹かれて愛してしまう。
ティエリーの方も誠実で優しいサイモンを愛してしまう。しかし、サイモンは責任感だけで自分と結婚したとティエリーは思い込んで苦悩する。
すれ違う運命の番が家族になるまでの海外ドラマ風オメガバースBLストーリー。
※奇数話が攻め視点で、偶数話が受け視点です。
※エブリスタ、ムーンライトノベルズ、ネオページにも掲載しています。
貧乏大学生がエリート商社マンに叶わぬ恋をしていたら、玉砕どころか溺愛された話
タタミ
BL
貧乏苦学生の巡は、同じシェアハウスに住むエリート商社マンの千明に片想いをしている。
叶わぬ恋だと思っていたが、千明にデートに誘われたことで、関係性が一変して……?
エリート商社マンに溺愛される初心な大学生の物語。
陰キャな俺、人気者の幼馴染に溺愛されてます。
陽七 葵
BL
主人公である佐倉 晴翔(さくら はると)は、顔がコンプレックスで、何をやらせてもダメダメな高校二年生。前髪で顔を隠し、目立たず平穏な高校ライフを望んでいる。
しかし、そんな晴翔の平穏な生活を脅かすのはこの男。幼馴染の葉山 蓮(はやま れん)。
蓮は、イケメンな上に人当たりも良く、勉強、スポーツ何でも出来る学校一の人気者。蓮と一緒にいれば、自ずと目立つ。
だから、晴翔は学校では極力蓮に近付きたくないのだが、避けているはずの蓮が晴翔にベッタリ構ってくる。
そして、ひょんなことから『恋人のフリ』を始める二人。
そこから物語は始まるのだが——。
実はこの二人、最初から両想いだったのにそれを拗らせまくり。蓮に新たな恋敵も現れ、蓮の執着心は過剰なモノへと変わっていく。
素直になれない主人公と人気者な幼馴染の恋の物語。どうぞお楽しみ下さい♪
今からレンタルアルファシステムを利用します
夜鳥すぱり
BL
大学2年の鳴水《なるみ》は、ずっと自分がオメガであることを隠して生きてきた。でも、年々つらくなる発情期にもう一人は耐えられない。恋愛対象は男性だし、男のアルファに会ってみたい。誰でも良いから、定期的に安全に話し相手をしてくれる人が欲しい。でもそんな都合のいい人いなくて、考えあぐねた結果たどり着いた、アプリ、レンタルアルファシステム。安全……だと思う、評価も星5で良いし。うん、じゃ、お問い合わせをしてみるか。なるみは、恐る恐るボタンを押すが───。
◆完結済みです。ありがとうございました。
◆表紙絵を花々緒さんが描いてくださりました。カッコいい雪夜君と、おどおど鳴水くんです。可愛すぎますね!
三ヶ月だけの恋人
perari
BL
仁野(にの)は人違いで殴ってしまった。
殴った相手は――学年の先輩で、学内で知らぬ者はいない医学部の天才。
しかも、ずっと密かに想いを寄せていた松田(まつだ)先輩だった。
罪悪感にかられた仁野は、謝罪の気持ちとして松田の提案を受け入れた。
それは「三ヶ月だけ恋人として付き合う」という、まさかの提案だった――。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる