恋した君は、嘘のキミ──それでも、好きにならずにいられなかった──

めがねあざらし

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第8話:低い声、耳のすぐそばで

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二度目の来店。
入口をくぐった瞬間、昨日よりも店の光が柔らかく感じたのは、きっと気のせいじゃない。
低く流れるジャズが、外の喧騒と一線を画す空気をつくり、グラスの氷が当たる澄んだ音があちこちで響く。
磨かれたボトルの列は琥珀色や透明な光を返し、淡く香る柑橘とアルコールが鼻腔をくすぐった。

壁際の席では広輝が、別のホストと身を寄せて笑っている。
その笑い声の輪に加わることもなく、俺はスタッフに案内され、奥まったソファへ。

「来たね」

低めの声が耳に届く。
視線を上げると、レオンが立っていた。
髪型は昨日より少しラフで、ネクタイの色も違う。
きっちりと整えているのに、どこか柔らかい雰囲気をまとっている。

(来ちゃってるしな、俺ぇ……)

「……こんばんは」
「こんばんは、じゃないだよ。ただいま、でしょ?」

冗談みたいな口調に軽く笑わされながら、レオンは腰を下ろす。
ソファの沈みと一緒に、距離が一気に近づく。
背もたれの後ろに回った腕が、自然な仕草のようでいて、俺を囲う形になる。
視界に正面の顔はないのに、妙に意識を奪われる距離感だった。

最初は他愛ない話だった。
大学の授業、課題の愚痴、新しくできたカフェの話。
「今度一緒に行く?」とさらっと言われ、返事をしかけて飲み込む。
そんな簡単な提案すら、なぜかすぐに頷けない。

グラスが半分になった頃。
ふいに、レオンが少し身を寄せてきた。
肩先がかすかに触れ、その瞬間、背筋がわずかに硬直する。
耳の横をかすめる、微かな香水とアルコールの香り。

「……今日も、可愛いね」

吐息が耳の奥に触れた。
それは音というより、温度として染み込んでくる。

「ひ、ぇ……!」

情けない声が漏れる。
背中を見えない指でなぞられるような、ゆっくりとしたゾワリが走る。
視界の端では、グラスの氷が傾いて澄んだ音を立てていた。

(……近い。あかん……声が……)

逃げようと、ほんのわずかに身体を引く。
けれど背もたれの後ろの腕が、壁のように空間をふさいでいる。
動こうと思えば動けるのに、なぜか動けなかった。
耳元から離れない声が、少し低く、ゆっくりと続く。

「照れてる?」

冗談めかしているのに、視線は笑っていない。
顔をわずかに上げると、その目がほんの数センチ先にあって、息を吸うことさえ忘れそうになる。

(……営業……だよな? 俺、男だし!)

そう思うのに、目を逸らせない。
香水と吐息が混ざった空気が、喉を通らず胸に溜まっていく。
時間が溶けて、何秒経ったのかわからない。

ふっと距離が開く。
レオンがグラスを持ち上げ、軽やかな笑みを浮かべた。

「カクテル、もう一杯飲む?」
「……あ、はい……いや、えっと……」
「じゃあ、俺が選んでいい?」

さっきまでの密着を感じさせない切り替えが、逆に怖い。
あの低い声と距離は、幻だったのか――。

新しいカクテルが運ばれてきても、指先はまだ微かに震えていた。
グラスを持ち上げると、氷の音がやけに大きく響く。
その音に合わせるように、胸の奥で心臓が一定じゃないリズムを刻む。

(……聞こえるんじゃないか、この音)

笑い声や音楽に紛れているはずなのに、
自分の鼓動だけが耳の奥で膨らんでいく。

――ドクン。
――ドクン。

音は胸から喉へ、そして耳の奥へ。
逃げ場はなかった。

そのとき、テーブル越しにレオンの手がそっと伸び、俺の手に触れた。
グラスを持つ指先を、軽く、けれど確かに包み込む。
会話の流れに紛れるほど自然な仕草なのに、皮膚が一気に熱を帯びる。

「……そんなに鼓動、聞かせてくれるとさ」
「……っ、な、何を……」
「こっちまでドキドキしてくるじゃない」

視線がぶつかる。
笑っているのに、その奥に何かを隠している。
指先に伝わる脈と、胸の鼓動が重なって、ますます逃げ場がなくなる。

次の瞬間、レオンは手を離し、何事もなかったようにカクテルの話を続けた。
残された温もりだけが、俺の指に、そして胸に、しつこく残った。
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